【第4章・肘井ちひろにビタミンはいらない】『快楽として消費される物語』
サプリが宙に舞う。何度シンから説明されても覚えられなかった、いや、覚える気もなかった正体不明のカプセルに錠剤たち。
私は、なぜここにシンがいるのか、しかもなぜ彼は依存していたサプリを投げ捨てたのか。先輩のことと相まって、ひどく混乱していた。
「姉ちゃん。どうしてここに?」
シンの声の調子は真剣だった。
私は頭を小さく振り、意識から一度先輩のことを払う。四年前、高校生だった私達のことを。
屋上に来て、強制的に意識をあのときに引き戻されてしまっていた。
もう先輩はいない。私はそれを、ここに確認しにきた。事情を知らない、根岸を連れ回して。
「いや、むしろなんであんたが?」
私が尋ねるとシンは黙りこみ、斜め下を向く。そんな生意気な態度をとるのは珍しい。秘め事があっても、私がすごんで見せれば嫌々でも吐くのに。
「姉ちゃんに黙秘とは偉くなったもんだな、おーい?」
私はシンのつま先を踏みつけた。おどけることで、どうにか今の自分のリズムや言葉の組み立て方を、取り戻そうとしていた。
精神が強く揺らいでいた。
それだけ、先輩と過ごした時間から受けた影響は大きかった。
私はもう、あのときのことを忘れなくちゃいけないんだ。
「シン、いいなー……」
タンクの下から別の男の子の声がする。シンの友達だろうか、ずいぶんと顔立ちの整った子が顔をのぞかせた。(客観的に見て、女の子に人気がありそうというくらいだが)
そういえば今日プールで会ったときにもいた気がする。
「言う気になった?」
「絶対言わない。僕にとって、それくらい大事なことなんだよ」
「勝手にこんなとこ忍びこんで。いや、私も勝手に忍びこんでいるけども。一体どういうつもりなの、シン?」
「……」
あくまでだんまり、ということか。
「なんだよ、シン。別に言ったっていいだろ」とその少年は言った。
「姉ちゃんみたいな無責任な人間には言いたくない。おっくんも絶対言うなよ」
おっくん。シンの話によく出てくる友人だ。(たしか高尾という名前だった)
「シン。意地張るなって」
タンクの下から出てきた高尾は、手に文庫本を持っていた。
『裸のランチ』だ。
根岸はその本を見た瞬間、表情を険しくした。
「どうして君がそれを!?」
私は思わず素っ頓狂な声を上げる。
「いや、ここの下にあったんで」
「紙、入ってなかった?」
「へ?」と高尾はたじろぐ。
「あみだくじ書いたやつ!」
「あぁ、それならシンが」
シンはこちらをしばらくじっと見つめたが、嘆息し、私にそれを渡してきた。
二本の縦線の間に、梯子状に横線が書かれている。
あみだくじに書かれた「V」という文字を撫でた。
彼女の素っ気ない、無機質な文字を見た途端、ぐらりとめまいがした。
ビビ先輩の顔がフラッシュバックする。
先輩が本に目を落としている姿がよみがえり、そのときの私の血の温かさや、制服のにおいまで、すべてが襲いかかってきた。
いけない。
今はもう、あのときとは違うのに。
ビビ先輩と、この世界を無責任に恨み、笑っていた頃とは違う。
彼女はもういないし、私は残念だけど大人になる前から、大人になることへの嫌悪感を失っていた。彼女が言うような「大人への反抗心」など、意味がないと諦めていた。
先輩と離れ、呪縛が完全に解けてしまったと言ってもいい。
観念的な「世界」や「大人」云々ではなく、私は今、面白いこと――好きな男の子と話をしたり、好きな音楽をやること――ができればいい。
その「面白いこと」は、少なくともこの世界への反抗なんかじゃなかった。
大学に入り、サークルで趣味としての音楽を始めた。ライブハウスで出会うやつらは特別ぶったやつばかり。私はそういう出会いの繰り返しで、ビビ先輩といたときみたいな、変わり者「風」の自分を恥じるようになった。
私は音楽をやっているやつらに会い、自分を見ているようで恥ずかしくなったのだ。
だけど、気持ちは冷めてもそう簡単に振舞いは変えられない。学内では中途半端な変わり者を今でも演じている。急にキャラクターを変えるのは恰好悪いし、怖かったから。
結局、私はどっちつかずで何者にもなれていない。
……だからこそ、私には罪悪感がある。
「姉ちゃん」
シンもタンクの下から出てきて、私に詰め寄る。
「そのあみだくじ、ビビ先生の自殺に何か関係があるの? なにか知ってるんだろ?」
「どうしてシンがビビ先輩のことを?」
「教育実習の先生だったんだよ」
シンは興奮した様子で私に迫り、息を切らしながら言った。
なんだ、ずいぶんと世界は狭い。
……いや、違う。
私たちは、ビビ先輩に集められたんだ。
死者は、私たちに考えさせる。
生きることとは何か、とか。
果たしてこの世界のあり方は正しいのか、とか。
実際、歌や小説なんかではそんなことがいつも取り沙汰される。私たちはその作品に考えさせられたり、感銘を受けたりする。
でも、それだけ。
物語を一時的な快楽として消費するばかり。「あぁ、可哀想だったね」「感動したね」と、気持ちよくなるだけ。生活を改めることもなければ、考え方だって変わりはしない。
じゃあ。実際ビビ先輩が死んでしまって、どうだろう?
私は、何か変わろうとしているんだろうか?
いや、むしろ私は先輩のことを忘れたかった。
あのときみたいな、変わり者ぶった自分を卒業したかった。だけど、先輩が頭の中にいる限り、それは捨てきることはできないのだ。
だから、先輩に歌を贈ろうと思った。今日のライブを境に、あの頃を忘れることを許してもらうために。
……私は、ずるい。
追悼の歌をうたい、「きっとこれで許してくれただろう」と自分を無理やり納得させる。
そうして想い出に区切りをつけることで、先輩を過去に置き去りにしようとしているのだから。
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