【第4章・肘井ちひろにビタミンはいらない】『マユナシ』

「……」

 先輩は顔を上げようともしない。思わず苛立ち、本を取り上げた。

「話ぶった切らないで、ちゃんと聞いて下さいよぉ! いっつも本ばっかり読んでてさ、そんな面白い?」

「別に面白くはないけれど」

「え、面白くないの?」

 怒っていたのに、思わぬ一言に驚いてしまった。

「ちひろが眉毛を剃り落としているのは、面白いから?」

「え?」

 自分の眉を指でなぞり、じょりじょりとした感触を確かめた。

「違うでしょう?」

「んー」

 気付けば、私は怒りを忘れていた。

 それだけ、彼女の一言一言に、魅入られていたのだ。

「私にとって、本を読むことは自分自身を保つこと。貴方にとって、眉毛を剃ることはそういうことじゃないの?」

「そこまで深く考えてないですよ。ただ、面白いんです。担任なんか、毎日毎日『どうして女の子なのにそんなことをするの? どうしてだか先生に説明してみなさい。できないの?』なんてネチネチ説教してくるんですよ。眉毛なんかで何必死になってんのって感じですよね」

「……」

「クラスの女子も理由を聞いてくるけど、聞かれれば聞かれるほど、ホント何もないなって思うんです。ただ、みんなが気味悪いって思ったり、なんだかわからないことがしたくって」

「みんな、ね。気に喰わない言葉。そんな観念、なくなってしまえばいいのに」

「みんなはみんなでしょ。私以外の誰かは、みんなですよ」

「息苦しいわね。〈私〉対〈世界〉って感じだわ」

 きっと、無自覚に「みんな」なんて言った私より、先輩はその言葉を強く意識しているようだった。世界を敵視している。勝手に窒息死しようとしている。

 戦いたいのか、脱出したいのか。

 それは今でも、わからないけど。

 彼女は私に一瞬だけ目をやった。視線が合うかと思ったけど、すぐにまた本を読み始めてしまった。

「貴方、きっと普通にしていたら普通にかわいい。でも、そうしたくはないんでしょう?」

「……ん」先輩にかわいいと言われて、嬉しさとくすぐったさを感じる。

 もちろん、だからといって眉毛を剃るのは変えられないし、彼女も望んではいないだろうが。

 私は高校のときから、眉毛を剃っている。

 なんで、どうして、とよく尋ねられるけど、自分でもちゃんとした理由らしい理由はよくわからない。とにかく、周囲の人間が顔をしかめるようなことをしたいと思っていた。

「たとえばですよ。私が本当は普通にかわいいんだとしても、そんなんじゃ私の存在はみんなの中から消えて無くなっちゃうじゃん」

 私はそのうちに死んでしまう。

 どういう風に死ぬのかはわからないけど。とにかくいつか。

 死んで私がいなくなったら、どれだけの人間が私のことを覚え続けていられる?

 きっと何年も経たないうちに、忘れられて、しまうだろう。

 私の姿、声、におい、体温、足音、そのすべてを。

 そのことがどうしても怖かった。だから私のすべてを忘れても、眉毛がなかったことだけでも残っていれば、と思った。あるべきものがないから残る、というのは不思議だ。

「高校のとき、眉毛を剃り落としていた女の子がいたね。それだけでいいの?」

 先輩のその言い方はちょっと腹が立つ。それは図星だから、だけど。

「他にいい方法があるっていうんですか? なにか、私の存在をこの世界に残せる方法が」

 先輩はこちらを向き、読んでいた本を二回叩いた。

 そう、バロウズの『裸のランチ』。

 セックス、ドラッグ、バイオレンスに満ちた、まさに有害図書。

 本は日頃全く読まないけど、いかにもな感動物語が嫌いな私には合っていた。

 でも。

 先輩のように、人生の指針になる一冊とは、まったく考えていなかった。

 私は先輩に合わせて『裸のランチ』を持ちあげてはいたけど、想いの強さはあまりに違っていたのだ。

「先輩と違って小説なんか書けませんよ、私、読書感想文だって大変だったんだから」

 彼女は小説を書き、賞に投稿をしているようだった。しかもパソコンを使わず手書きで書いている。

 書いては消し、推敲し、清書して、と考えるだけで頭がくらくらとした。「パソコンで作業をしていると、消そうと思えばきれいさっぱりなくなる。でも、手書きだと消しても書いた跡は残るでしょう。一度頭の外に出したことを、消してしまうのが怖いの」と先輩は言っていた。なんでそんなことが怖いのか、それは今でもわからない。

 自分の恥ずかしい過去や失敗は、消してしまいたいと思うはずだから。

 でも、それだけ書くことに情熱を抱いていたのだ。「学校に友だちもいないのに、深夜の郵便局員と仲良くなってしまったわ」とぼやいていたのを覚えている。

 ビビ先輩は、「私の存在をこの世界に残す方法」を誇らしげに語った。

「違うわよ。貴方が好きな、音楽をやりましょう」

「先輩と? 先輩って歌ヘタそうだな」

「歌うのは貴方」

 口調は変わらないけど、先輩、多分ちょっとむっとしたな。

「この有害図書みたいな、〈みんな〉が顔をしかめる歌をうたうのよ」

「その歌詞を先輩が書くってこと?」

「さぁ」

「さぁって……。先輩何もしてないじゃん」

「本でも読んでるわ」

「……は?」と、私は一瞬フリーズするが、「……わかった。いいじゃん、それ」と納得する。

 ステージで有害な言葉を吐き続ける私。

 その脇で、本を読んでいる先輩。いつもと変わらず涼しい顔。まるで屋上でひとりきりで読んでいるような。一見すると場違いなようでもあるが。

 それ、いい。意味わかんなくてすごくいい。

 一曲も出来上がってないのに、どこでいつ歌うかもわからないのに、たまらなくドキドキした。

「そうすれば私、この世界に残れるのかな?」

「バロウズくらいになれれば、ね」

 バロウズは、「ビートニク」と呼ばれる、反体制的な文化的活動――カウンター・カルチャーという活動の作家の一員だった。この世界に疑問を抱く私たちには、そういう意味ではぴったりだった。

 先輩と一緒に、この世界を変える?

 いや、それは考えていなかった。

 実際、私と先輩は仲良しなのかと言えば、なにか違うような気がする。

 話や趣味自体は、特別合うわけでもない。

 元はといえば、この屋上でたまたま会っただけの関係。

 先輩はただゆっくり誰もいない場所で本を読みたいという理由でここに忍び込んでいて、私は見つかって誰かに怒られるためにここにいた。

 無自覚的ではあったが、おそらく私にとって、ここで過ごす時間は自分の特別感を演出するものでしかなかったのだ。

 音楽がどうこうと話したけど、実際に活動は一度もすることはなかった。ただ、私たちが組めば、何かとんでもないことができるかもしれないという予感のために、名ばかりのバンドを組んだ。バンド名の「肉体信仰」は私の案。先輩も何かアイデアがありそうだったけど、結局提案してくることはなかった。

 そのときの私は、全能感に支配されていた。

 偶然出会った二人で、何かができるんじゃないかって、胸騒ぎがしていた。

 そう。この屋上ですべてが始まった。

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