【第4章・肘井ちひろにビタミンはいらない】『クラスの全員がバカに見えていた』

 ときどき、妙な錯覚に陥る。

 昨日の私は、私。

 先月の私だって私だ。一年前だってそう。

 でも、それが四年前になると、そう感じなくなってしまう。

 それだけ、あのときの私と今の私は別人に思える。

 四年前と今が、繋がっている感じがしないのだ。

 あのとき、私は高校二年生だった。

 特にやりたいこともなく、毎日ただ爆音でノイズ・ミュージックを聴いていた。ブリキのバケツを乱暴に叩く音、ホースを振り回す〈フォンフォン〉という空疎な音、チューニングの狂ったギター。呻き声と、嗚咽、叫び。私はいつも、それを大音量で聞きながら、衝動に身を任せてドラムを叩いていた。

 私の気持ちを救うのは、同級生が憧れるような愛の歌でもなく、優しいメロディでもなかった。誰にも価値がわからないものを、自分のドラムが起こす騒音の渦でさらに引っ掻き回す。

 その時間に浸っているのが、なにより心地よかった。

 単純に言えば、自分が特別な存在だと悦に入っていたのだ。

 クラスの全員がバカに見えていた。教室でなにか笑いが起きるたび、どうしてこの人たちはこんなことで喜んでいるんだろう、と皮膚の内側が痒くなった。



「それは、全員が必ずしも面白いと思って笑っているわけではないと思うけれど」

 ビビ先輩は呟いた。

 四年前の昼休み。

 私はクラスメイトとではなく、いつもビビ先輩と一緒にいた。部活にも入っていなかったし、先輩以外と雑談をすることはなかった。(今となっては自己嫌悪を覚えるが、クラスメイトの顔や名前を覚えてないことを自慢にしていたくらいだ)

「それはちひろだって、実はわかっているんじゃないの?」

 先輩は屋上のフェンスに寄りかかって、文庫本に目を落としながら言った。顔を見て話したことは、そういえばあまりない。

 突風にページを煽られても、涼しい顔で本を読み続けていた。

「わかんないですよ。面白くないなら笑わなきゃいい。愛想笑いしてるなら、尚更バカみたい」

 私は吐き捨てた。先輩がまわりのやつらを庇っているようで、気に喰わなかったから。

「色々とクラスの立ち位置とかあるんじゃないの」

「先輩はそういうの気にするんですか?」

「私はしないけれど」

 先輩があまりにもつまらなさそうに言うから、おかしくって噴き出してしまった。教室でこんな風に笑ったことはない。

 フェンスから身を乗り出して、空に向かって大笑いした。

「なにがそんなにおかしいの?」

 先輩は不思議そうに眉をしかめた。

「わかんない!」

 そうだ。

 あのときの私はいつも、なんだかわからないことでしか笑えなかった。

「言っておくけれど、目立ちたくはないのよ。だから愛想笑いくらいはする」

「えー、じゃあしてみて下さいよ。今」

「……」

 彼女は片側の口の端を上げる。笑ったつもりらしいが、怒ってピクピクしているようにしか見えない。

「それ、笑ってんの?」

「もう私のことはいいでしょう」

「そんなんでよく、無難にやれてますーって空気出せましたね!」

 先輩をからかうのが好きだった。彼女は嫌な顔はするけど、決して怒ったりはしない。

 甘えていたのだ。もしかしたら、このときだって先輩を傷つけていたのかもしれなかった。

「学校では目立たないようにしているの。話しかけられたら愛想笑いを返して、あとは端っこで本を読んでいる」

「いやいや、先輩めっちゃ目立ってますよ。こないだの図書委員会だってひどかったらしいじゃないですか。推薦図書に『裸のランチ』? 司書の先生にめちゃ怒られたんでしょ?」

「だから? 困っているからどうだって言うの?」

 先輩は視線を上げずに言った。顔がちゃんと見えないから、考えを察するのが難しい。

 どんな表情をしているんだろう?

 何を考えているのか、つかめない。

 ……いや、こんなのはいい訳でしかなかった。俯いていたって、声や、仕草から感情を読みとれるはずだ。わかってほしいと思うばかりで、わかろうとしなかったんだ。

「私はね、あぁいう偽善的な大人が嫌いなの」

「偽善ですかね? 先生なら普通、あんな不健全な本ダメだって言うでしょ」

「その普通がもう嫌なのよ。あの先生だけじゃない。大人達は変なイメージを押しつけてくる。学生だから、子どもだからって」

「……」

 このときはまだピンと来ていなかった。だけど今考えてみれば、先輩はきっと「大人」というものを「社会」そのものだと考え、世のすべてに辟易しているようだった。(実際、同級生や私たちより年下にもいい感情は抱いていなさそうだった)

 すべてのつまらなさの元凶が大人にある、ということだろう。

 高校生だった私たちの世界は狭かった。周りには親や教師くらいしか直接話せる大人はいない。

 いや、どこを探したってロクな大人はいないと決めつけていた。テレビをつければ国会で居眠りをする政治家。下らないことで一喜一憂するテレビタレント。ネット上では匿名を笠にきた通り魔のような誹謗中傷と狂った自己顕示欲。うんざりしてスマホから顔を上げれば、電車の中には、似たようなくたびれた中年がため息をつくか、自慢話か……。

 あまりに恰好悪く、無難に過ごすことばかりを押しつけるダサい大人達が、私たちの世界を牛耳っているかと思うとゾッとした。聞き分けよく大人になることは、そのダサさに屈服することだと思った。

 そういう私の考えを、独りよがりだと思う高校生だっているはずだ。

 いくら大人の「都合」みたいなものを考慮したつもりでも、結局それは子どもの想像にすぎない。大人の辛さなどわかるはずはない、と。

 でも、私はそんな聞き分けのいい人間にはなれなかった。

 ビビ先輩も、大人の辛さを想像することを思いつかないほど、短絡的な人間ではないはずだ。でも、その考えすら所詮想像にすぎないと、放棄していたのかもしれない。

「だから、理解されたいとも思わない。あんな大人になるくらいなら、どこかで野垂れ死ぬ方がましよ」

 今考えれば、彼女の正しさは痛々しくもある。

 それでも当時の私は、熱心に彼女の話に耳を傾けていた。

 憧れ、とは違うかもしれない。嫌な表現をすれば毒されていたとも言えなくもないが、どこかニュアンスが合わない。

 ……そう。

 呑まれていたのだ。彼女の持つ、切なさ。儚さ。

 大人は悪だ、とはっきりと断定する純粋さに。

「野垂れ死ぬって……。私、さすがにそんな死に方はヤだな」

 私は、子どものときから死ぬことばっかり考えていた。死ぬのが怖いんじゃなくて、死んでみんなから忘れられるのが怖かった。

 こんな本音だって、恐る恐るしか言えなかった。

「じゃあ、私とは意見が合わないのね」

 先輩は淡々としていた。

 もっと怒って欲しかった。意見が合わないことを悔しがって欲しかった。

 結局彼女は孤独で、つまらない周囲の人間なんかとは、わかり合えないと思っているように見える。

 先輩。

 そのつまらない人間の中に、私を入れないでよ。

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