【第3章・心(シン)ちゃんはビタミンが手放せない】『サプリ』

 屋上の扉には「立ち入り禁止」の黄色いテープが張られ、物々しい雰囲気だった。おっくんはそれを気にもせずテープをはがし取り、鍵を開けた。

 屋上。

 その響きは、激しく青春の香りがする。

 でも、実際は違った。

 湿っぽい夏の空気が溜り、薄汚い水たまりと煤けたタンクがなんとも退廃的。こんなものをありがたがるのは、青春に想い残しのある中年たち。

 なにより、ビビ先生が死んだ場所だと思うと、気は沈むばかりだ。

「で、どっから手をつける?」

 おっくんはあたりを見渡し、途方もないと言わんばかりに息をついた。おっくんも、僕と同じ屋上への失望を抱いたのかもしれない。

「うーん……」

 思った以上に、調べようもないというのが正直なところ。なにか落ちているわけでもなく、うろうろと歩きまわるが、これといった手掛かりもなく。

「タンク、登ってみるか?」

 おっくんはブルーグレーのタンクの梯子を指さす。僕もそれしかないだろうと頷いた。

 そこで、屋上の下から階段を上る音と、人の話し声が聞こえた。

 警察か?

 さてはアスカが僕らの目的地をゲロったな!

「ど、どうしよう、シン!」あたふたとするおっくん。意外と肝っ玉が小さいのね。僕と同じくらい慌てるなんて。

「どうするって……」

 僕は辺りを見回す。タンクか。これしかない。

「早く!」

 僕は身を屈め、タンクの下に体を滑り込ませる。おっくんもそれに続くが、時間がなく仰向けになってしまったようだ。寝返りを打つ高さはない。結局、うつぶせの僕が、扉の方を見張ることにした。

「あ」おっくんが小さく声を上げた。「おい、シン」

「なに」

「……これ。さっき話した本だわ。なんでここに」

「ドラッグがなんとかってやつ?」

「本の間に何か挟まってる。読めるか? こっち暗くて見えねぇんだ」とおっくんが窮屈そうに僕に何かを握らせた。

 それは、四つ折りになったルーズリーフ。開けると、そこにはあみだくじが書かれていた。

「……?」

 2本のあみだくじ。梯子の上にそれぞれ「V」「H」と書かれている。僕はあみだくじを辿ることなく、下の結果の部分を見た。

 そこには。

 信じられない言葉が、書かれていた。

「なんだよ、これ! だって……」

 僕は言いかけ、咄嗟に黙った。

 屋上の入り口が開いたのだ。

 入ってきたのは、アスカと……警察官……?

 じゃない。ワンピース姿の若い女と、髪の長い男。

 てか、あれ、姉ちゃん?

「シン? どうした?」

「どうしたって言われても」

 姉がこちらに近づき、徐々に脚だけしか見えなくなってくる。なんで迷いなくこっちに来るんだ。

 姉ちゃんがしゃがみ、タンクの下を覗き込む。

 僕と視線がモロに合った。

「誰?」姉ちゃんは警戒心をむき出しにした声を上げる。

「今日はよく会うね、姉ちゃん」と僕は這いつくばったままおどけて見せる。

「シン? なんで?」

 僕はタンクの下から出る。姉とは目を合わせず、空を見上げ、呟いた。

「なんででしょ?」

 そうだよ、この世の中は「なんで」ばっかりだ。

 なんで僕はビビ先生にこだわるのか?

 なんでこんな「あみだくじ」なんかがここにあるのか?

 ……なんでビビ先生は死んでしまったのか?

「どうしているのかわからないけど。帰りなさい」

 姉ちゃんは冷たく言い放つ。いつもなら尻尾を巻いて逃げ出すところだけど、今日だけは引くことはできない。

「嫌だ」

 ビビ先生は、大人になりたくないと、実習のスピーチで言っていた。

 彼女は大人になりたくなかった。

 だから、死んだ?

 そんなはずはない。そう思いたかった。

 いくらビビ先生に強い信念があったとしても、さすがに死を選ぶなんて。

 むしろ、そこまで強い心があるなら、自分が忌み嫌う大人とは違う人間になればよかったんだ。彼女が言っていたような偽善的な大人とは違う人間になれたはずなのに。

 頭が激しく混乱する。僕は縋るように、ピルケースに手を伸ばしていた。いつも僕を支えているサプリに。

 なのに、それを口にしようとも思えなかった。

 僕はいつもサプリを飲んでいる。ビタミンや補酵素、あらゆる栄養素で体を健やかに保つことが、いいことだと信じているから。でもそんな「正しさ」みたいなものが、今はすべて恐ろしく思えた。信じることの怖さ。

 ときに人間は、自分の信念に飲み込まれてしまうのではないか。

 先生は「大人は悪だ、偽善は悪だ」という、

「シン?」

 サプリを手に、静止している僕におっくんが声をかけた。

「僕は、やっぱり先生がどうして死んだのかを知りたい」

 ケースの蓋を開け、中のサプリを、屋上の柵の向こうにばらまいた。

 僕はエスパーだ。何の役にも、誰の役にも立たない、無意味な能力者。

 でも、それでよかったんだ。

 人の心なんか読めたら、今のこの気持ちにはなれなかっただろう。読めないから、誰かに対して必死になれるのだろう。

 ビビ先生に近づくために、正しさを捨てたかった。

 今までの自分を変える決意でもしないと、ビビ先生の気持ちに踏み込めなかった。

 おっくんも姉ちゃんも、そしてなぜかここにいるネギシも呆気にとられていたけど、僕が何も言わないから、全員が黙っていた。

 宙に舞う、色とりどりの錠剤は場違いなくらい綺麗だった。僕の体に吸収されるよりもいい終末を迎えたように思えた。

 ビタミンを必要としていたのと同じくらい、僕はそうじゃないものを求めていたんだ。

 それは、正しささえ踏みにじれる勇気だったのかもしれない。


 

【第3章・終】

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