【第2章・七瀬奈々子にはビタミンJKが足りない】『ビビ先生』

 ドアが開き、柔らかい雰囲気の女の人が顔を出し、あたしの顔を覗き込んだ。

「ニコちゃんのピンチヒッター?」

 ニコちゃんとは、ニコチンのことだろうか。

「は、はい」

 うわ、声震えてんじゃん。ダッサい、あたし。

「とりあえずどうぞー」

 気の抜けた声。女の人ってだけでも、少し安心する。

「メロ」と名乗ったその人に続き、廊下を歩く。

 全体的におっきめではあるけど、お店感はなくて、ホントに人んちって感じの部屋。

 部屋数は多くて、それぞれにファンシーな名札がかかっている。その中にはメロさんの札もあった。

 メロさんに、これまた普通の家のリビングっぽい場所に通される。テーブルの上に何台かデスクトップのパソコンが置いてあるくらいで、あとはうちのリビングと大して変わらない。

「座ってね」

 優しく言われて従ってしまうが、いやいや、これで心開ききっちゃいかんでしょ、いつでもこう、逃げられる準備だけは忘れるな、あたし。と自分に言い聞かせて、浅くソファに座る。

「ニコちゃんからどれくらい聞いてる?」

「いや、オッサンに膝枕して耳かきするってことくらいしか」

 あたしが言うと、メロさんはおっとりした調子に合わない豪快な笑い声を上げた。

「え?」

「あーいや、我が妹ながらホントに意地が悪いなと思って」

「……妹?」

「それも聞いてないの!? 私、ニコちゃんの姉です。最近お店始めたけど人手足りなくて、手伝ってもらってんの」

「はぁー、なんだそういうことか」

 ようやく納得。

 自分のお姉ちゃんのお店なら、そりゃ働くのも怖くないわな。

 あ、いや、でも。

「自分の妹をこんな店で……あ、いや、こんなってのはそういう意味じゃなく」

 妹を知らないオッサンと二人きりで閉じ込めて耳かきさせるのは、十分おかしい。

「妹でも、使えるものは使わないとね」

 嬉しそうに言うメロさん。

 さすが、ニコチンのお姉ちゃん、やっぱどっかネジとんでるわ。そもそも妹のことニコチンの「ニコ」で呼んでいる時点で。

「お仕事としては、とにかく耳かきをするだけでOK。そのコスプレは自前?」

「コスプレって……ただのジャージですけど」

「イモジャージは立派なコスプレじゃない!」

 まぁ、妙なキワドい衣装を着せられるよりはマシか。

「ちなみに……膝枕は?」

「するする」

「……」

 やっぱ無理かも。

「あの」

「ここは女の人だけしか利用できないお店なんだけど……それでも無理かな?」

「は?」

 ちょっと待て、わけわかんなくなってきたって。

 相手がオッサンじゃないってわかったのはいい。

 でも、安心するより、不可解な気持ちでむしろいっぱいになる。

「女の人だけなんですよね? だったら、コスプレも膝枕もおかしいじゃないですか」

「おかしくない!」

 メロさんは、どこからその自信が溢れるのか、目を輝かせて断定。

「知らない? 最近は女の人がキャバクラ行ったりするの。女はね、予想以上にもてなされたいイキモノなのよ。女同士で下心がないってわかるぶん、ホストクラブとかより緊張感なく楽しめるし。ま、一応監視カメラは全部屋完備だけども」

「はぁ」

「どう、この商売、うまくいく気しかしない! 今日も既に三件も予約が!」

 たしかに、あたしもここに来たとき、オッサンの店長とかではなくメロさんが出てきて、めちゃ安心したし、実際になにか危害を加えられるってこと以前に、男の人ならではのプレッシャーってあるもんな。

 だからこそ、ナヨってるシンちゃんが好きなのかも。

 え、そんな理由かよ、あたし。

「女は意外と、かわいい女の子が好きなのよ。だからコスプレも膝枕も必要なの!」

 結局あんたの趣味じゃないのかそれは、と思いつつ、あたしは早速いつもはニコチンが使っているという個室に行かされ、ぽつんと座っている。

『いい、「新人です」って言ったら、後は向こうにリードさせちゃっていいから』

 メロさんのイカガワシきアドバイスが蘇る。

 ホントに、耳かきだけだよね?

 あたしの部屋とそう変わらない大きさの四畳半のフローリングの部屋、小さなテレビと、耳かきの道具が入っている引き出しとホテルにあるような冷蔵庫。大量のもちもちクッション。

 ドアがノックされる。なんとなく正座になって姿勢を正してしまう。

 大きなメガネをかけた、古いソバージュ風のパーマのおばさんとお姉さんの間くらいの人が入ってきて、笑いかけてきた。ザ・メガネって感じの眼鏡で、あたしの中で「メガネ」って名前で登録されちゃうくらい。

 いらっしゃいませ、もおかしいし、何と言えばいいのかと迷っていたところで、「見たことない子ね」とおっとりとした感じで話しかけてきた。

「ニコチ……あ、いや、ニコちゃんは今日ショヨー(おぉ、あたしこんな言葉知ってるんだ)でいないので、代打であたしが」

「そうなんだ」と、メガネは不慣れなあたしに嫌な顔一つせずカーペットの上に座り、クッションをお腹のあたりに抱えた。

 あたしはいつでもこいってな気分で膝枕の準備をしていたけど、とりあえずまずは軽くご歓談? みたいなかんじ?

「ニコちゃんって面白い子よねぇ」とメガネ。

「は、はい」友だちなんです、とかこういう場合言っていいのかわからないから、曖昧に返事をした。

「よくさぁ、風俗とかで、お爺さんなんかが来て、パンツも脱がず女の子と話だけして帰ってくって話きくじゃない? 私とニコちゃんもそんな感じでさ、正直耳かきがどうってより、お話しして、そのまま帰るって感じなんだけど」

「あのー」

「なに?」

「じゃあ、膝枕、しなくていいんですか?」

「それは別」

 メガネは眼鏡を外して(外したらあんた何もなくなるよ)、あたしの太ももにそっと頭を預けてきた。

 なんかへんなかんじ。髪の毛がくすぐったい。

 今まで膝枕ってしたことないけど、人の頭がお腹のあたりにあるって、ふしぎだな。思ったより重たくて、そのくせ安定しなくて頼りない。

「み、耳かきは」

「しなくていいよ。怖いから」メガネは笑いながら、きっぱり元も子もないことを言った。

 耳かき屋さんなのに耳かきしない、あたしこれ、職務怠慢じゃね?

「少しくらい、しないと」

「真面目ねぇ。ニコちゃんなんか、しなくていいって言ったらやっぴーって」

「やっぴーとは?」

「やんなくていいんだ、やったーってことでしょ」

 あのフマジメニコチン中毒め。いや、現・禁煙パイポ中毒め。

 はぁー、こんなことでお金がもらえるなら、正式にここに雇ってもらおうかな。

 メガネはそのまま寝がえりを打ち、今度はあたしの太ももに顔を押しつける状態になる。

「はぁー」

 まて、なんか「すーはー」してないか、肺をあたしの太もものにおいでいっぱいに……って、自意識過剰だよね、女同士だし?

 あたしはなんだか妙な間が怖くなってきて、テレビをつけ、適当にチャンネルを回し、ニュースにする。

「あなたはなんて言うの?」

「えー……」

 本名言うわけにもいかないけど、パッと源氏名的なやつが思いつかない。

「ビビ、です」

 だからとっさに、ビビ先生の名前が出てしまった。

「かわいい名前ねぇ。ビビちゃん」

「そ、そーすかね」

「こんなところで働くのって大変でしょう」

 あんたはその「こんなところ」に金を落としているクセに、「こんなことをやってるとオヤゴさん悲しむぞ」とエンコー親父に説教されている気分になる。

 結局みんな、それこそこんなところに来る人間でさえ、身勝手に「正しいこと」を求めているのだ。

 ビビ先生が言いたかった大人への違和感は、こういうもの?

 あたしはテレビの方を見ながら、メガネの説教に怒りをどうにか隠し、相づち。

 テレビでは、芸能人の不倫のワイドショーの後、最新のニュースを放送していた。

 早朝、女子大生が母校の高校で飛び降り自殺をしたというニュースだった。

 ……

 右下に、顔写真が映る。

 その顔を見て、あたしは息を呑んだ。

「ビビせんせい?」

 そこに映っていたのは、ビビ先生だった。間違いなかった。

 ニュースは「大したことは起きなかった」といわんばかりに終わってすぐに切り替わった。混乱とショックで頭が真っ白だった。

「なに? どうしたの?」

 メガネが声をかけてくる。やめて。話しかけないで。

 どうして膝の上なんかに、こんなおばさんを乗せてるんだろう?

 すべてが気持ち悪い、このおばさんも、あたしも。

 あたしはビビ先生が嫌いだと、そうはっきり思っていたのに。

 あーもうなんだよ、なぜだが、一粒、涙がこぼれてしまったのだ。

「どうしたの!? 泣いてるの?」

 よく考えたら、あたしは物心ついてから、知っている人が死んだことが一度もない。

 本当に小さいときに、おばあちゃんや親せきが死んでしまったが、まだ人の死がピンとこない年齢だった。

 大した理由もなく嫌ってしまっていたことを、後悔した。

 ビビ先生が死ぬことと、あたしが先生を嫌っていたことは関係ないし、死ぬってわかってたら好きでいるってのは、なにか違うとも思う。

 でも、死人にムチを打ってしまったような、そんな罪悪感に駆られてしまったのだ。

 ビビ先生が死ぬ直前に話したのは、もしかしたらあたしだろうか。

 ビビ先生の死を止められたのは、あたしだったんだろうか?

 だとしたら、あんな受け答えでよかったのか?

 指先が冷たくなる。

 いや、死ぬなんてちょっと話しただけでわかるわけない。

 止めるなら、もっと仲のいい誰かが止めるよ。

 ……と思いたいけど、迷いで頭がぐるぐるとしてしまった。

「あ、いえ、目にホコリが入っちゃって」

「大丈夫? 見てあげようか?」

 メガネは起き上り、あたしの頭を断りなく持ち、顔を近づけてきた。

 ビタミン12不足の肌荒れが不快。

 目を覗きこんできた。

 やめて。

 きもちわるい。

 払いのけたい気持ちでいっぱいになるけど、でも、お客さんなんだし、ここであたしがなにかやらかしたら迷惑かかるし……。

 てか、ニコチンのせいじゃん、どうしたらいいの、つか助けろ!

『あっはっは』

 SOSを出すも、聞きとれなかったのか愛想笑い。想像の中ですら、ニコチンはこんなにいいかげん。

「もぉぉぉぉ!」

 あたしは気付いたら、メガネを突き飛ばしてしまっていて、気持ち悪くて仕方がなくて、部屋を飛び出た。

 最初にメガネを見たときから嫌悪はじわじわと育ってて、ただただ、我慢の限界。

 頭がぐちゃぐちゃだった。

 ちょうど廊下にはメロさんがいて、「どうしたの?」と声をかけてきたような気がしたけど、もうそれどこじゃなく、玄関から飛び出て、追いかけてくるメガネ、及びメロさんを振り切って、非常階段を駆け降りた。

 そのときふと、ニコチンには同じことを(触られて、目をじいっとのぞきこまれても)されても嫌じゃなかったな、とあたふた階段を降りながらも、どこか冷静に思った。

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