【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『ビタミン不足』

「汚い部屋だなぁ」と肘井は、床に散らばる服をブルドーザーのように足でかき分け、「男くさーい」とくんくんと鼻先を遊ばせる。

「お前はもうちょっと女くさくてもいいんじゃねぇの」

 とかなんとか言っているが、今の肘井はたまんなく女くさい。

「つか勝手に上がんなよ。帰れ、徹夜なんだよ」

「大事な話があるの」

「話するにしても、すぐそこのファミレスかなんかでいいだろ」

「私ファミレス嫌いなんだもん」

「なんでだよ」

「男くさくないから?」

「訊くな。あのな、お前、男の部屋にホイホイ上がりこんで親が泣いてるぞ」

「親いない」

「……」

「ウッソ」

「帰れ!」

 平静を保っているフリをしてはいるが、家に女を上げるのは初めてで、おれは大層動揺している。

 だから、肘井に「てか座れば」と言われるまで、所在なく立ちつくしていた。

「何の用なんだよ。つか、おれのとこくるってどれだけお前友だちいないわけ?」

「なんだ、根岸照れてるの?」

 図星だ。あのマユナシの肘井じゃない、そこそこは整った女と二人きり。

 そこそこ、な。

「私がバンドやってるの知ってる?」

「さぁ。そうなのか?」と、おれはしらばっくれた。

「肉体信仰っていうバンド。元々二人だったんだけど、ひとりになっちゃって」

「それ、バンドっていうのか?」

「だから組も?」

 肘井はそう言って、ベッドに座るおれの横に腰かけた。彼女が座り直し、ベッドが沈むだけで、おれの心はさらに落ち着きをなくす。

「おれなんにも楽器できねぇよ。歌も下手だし」

「上手い下手なんかどうだっていいよ。ほら、一曲作ってきたから」

「楽譜なんか読めねぇって」

「いいからいいから」

 強制的に彼女の手帳を渡され、開いたページを見せられる。

 そこにはやたらと可愛らしい丸文字で(こういうのをギャップっていうなら、その言葉でクラクラきてるやつらの頭を疑うよ)こう書いてあった。


『五臓六腑にしみわたる』


「は? これ、タイトルか?」

「タイトルでもあるし、歌詞でもある」

「続きは?」

「ないよ、根岸五臓六腑の代表曲だ」

「だからそれやめろ」

「ちなみに私は『肘井四十八手』。『肘井肉便器』と悩んだけどね」

「お前、どれだけ親泣かせたいんだ」

「私、親いない」

「……」

 呆れてものが言えないとはよく言うが、ホントに何も言えなくなったのは初めてだった。

 彼女は沈黙を破らんとばかりに、急におれの胸に手を伸ばした。

「もうクタクタで、やることやったって気分で、ビール飲んだときのこと想像して」

 焦って声にならない声で止めに入るが、彼女はきかず、胸から腹にかけて上下にさすってくる。

「キクー、しみるー、って思わない?」

「ま、思うけどよ」と思わず酒が苦手なのにカッコつけてしまう。

 すると肘井は息を大きく吸いこみ。

「?」


「五臓六腑にしみわたるぅっぅぅぅうぅ!」


 突如、大声を張り上げた。

 それは歌なんかじゃない。ただの大声。

 おれは咄嗟に手で彼女の口を塞ぐ。

「何やってんだよ! ここ壁薄いんだって」

 すると彼女はおれの指を噛み、こちらがひるんだ隙に、「五臓六腑に……」と再び叫んだ。

「帰ってくれ! ここ追い出されたらこれ以上家賃安いとこなんかないんだよ」

「五臓六腑にしみわたるなぁ、って思う気持ちを叫ぶ歌」

「シュールとかパンクとか適当な詭弁で、コツコツ創作することから逃げてるようにしか思えない。勘違いバンドだ」

 どうしてここまで言ってしまったんだろう。

 それはきっと、おれ自身への言葉だ。尖った小説に拘泥し、いろんな詭弁を振りかざすだけで、いつまでたっても一人前になれない自分への。

「逃げてるつもりなんかない」

 肘井は言った。いつものヘラヘラとしている彼女とは違う調子だった。

 思わず、彼女の瞳に魅入られてしまった。

「私、夢があるの」

「夢?」

「死んだ後、残された人たちの心にずっと残りたい。私がもう死んじゃったあとの、『当たり前』になれるくらいの何かを残したいんだ。それくらい、意味がある死がいい」

「……」

 突拍子もないはずなのに、おれはその言葉に対して抵抗を覚えなかった。

 何かを残したい。

 おれも一緒だ。

 人の心にずっと残りたい。

 バロウズに憧れて、というだけじゃない。

 おれの中にずっとある気持ちを、肘井はすごく簡単な言葉で言ってくれたような気がした。

「急だよ、死ぬのなんて。よく、生きているこの一瞬、輝ければいいなんていうじゃない? でも、私は嫌だ。どうせいつか死んじゃうなら、死んだ後だってずっとこの世界にいたい」

 若者によくある、想像もつかない死への憧れと、畏怖が混ざった感情。

 おれたちにとって、「死」は一種のファンタジーだ。

 一年後に死ぬとわかれば、短く太く生きていけるような気がするのに、いつ死ぬかわからないから、こうしてだらだらと暮らしてしまうのだろう。

 ひょうひょうとしている彼女の熱意に初めて触れて、おれはその熱をたまらなく心地よく感じた。

 が、素直にそこに同調することはやはりできない。

「それをさっきの歌でやりたいっていうなら、おれは無理だと思うね」

「私も多分、そうだと思う。だから、私らが死んだ後にも残る曲を作らなくちゃ」

「そういう風に考えてもさ、明日にはもう、そういう気分は抜けてる。そんなもんだ」

「だから今日来たんじゃない。根岸、小説が書けるなら、歌詞だって書けるでしょ?」

「全然ちげーよ、書いたことねーし。第一、おれは歌なんか嫌いだ。大抵くだらねぇラブソングじゃねーか。ま、五臓六腑うんぬんよりはマシだけどさ」

「いいね、ラブソング」

「お前そういうの嫌いじゃないわけ?」

「たまにはいいかなって。根岸くらいの文章が書けて、そこに恋愛経験さえあれば、びっくりするくらいのラブソング書けちゃうと思うのにな」

「それが人にものを頼む態度か? それに小説だって、別に書けるってわけじゃ……」

「そうだ。こないだ書いてた小説は? 完成したの?」

「まぁ」

 本当は見せたくて仕方なかったのに、熱がないフリをしてしまう。

「じゃ、書けるって言っていいんじゃない。私も何度か書きかけたけど、どうしても最後まで書けなくって」

 だけど、頭の芯には確かに熱が残っていたし、ビビとの出会いが、おれに僅かな勇気を与えてくれた。

「読むか?」おれはなんでもないように努めながら、ノートパソコンを開けかけたが、彼女は「いい」とそのまま閉じた。

「だよな」

 がっかりしたけど安心もした。

 やっぱり、社交辞令に乗ったおれが馬鹿だったんだ。誰だって、知り合いに小説を見せられたら「面白かった」って言うに決まってるよな。

 彼女は気落ちしたおれを見て、「すぐに落ち込むなってば」と笑った。

「だって、いつか本屋さんに並ぶんでしょ? そのとき店の中で『この本書いた人、私が発掘したんだよ』って叫びまわるんだ」

 こいつは悪魔だ。おれを言葉で惑わせる。

 きっとこれだって社交辞令の延長で、単に今すぐ読むのが面倒だったんだ。

 そう思おうとした。でも、明らかにおれの口元は緩んでいた。

 嬉しいんだ、どうしようもなく。

 生まれて初めて、小説家になりたいって言っても、恥ずかしくないやつに出会えたから。

「おれはさ、『小説が書けるやつは歌詞も書ける』なんて小説家にも作詞家にもケンカ売ったような言葉を鵜呑みにはしない。でも」

「要は何が言いたいの?」

「歌詞、書くよ」

「え? え?」

 彼女は聞こえていただろうに、わざと聞こえないふりをして笑った。

「書く。書きゃいいんだろ!」

 耳まで熱くなるのを感じながら叫んだ。

 おれはこいつに感謝している。もう一度、小説家を目指そうって思わせてくれたから。

 ま、これも口が裂けても言えないけどさ。

「かわりに、おれに恋愛経験積ませろ」

 おれは冗談めかして――でも、実は本気で。彼女の手を握った。

「セックスは、恋愛に入るわけ?」

 顔でも赤らめりゃかわいいものの、彼女は悠々と冗談で返してくる。

「でもダメ。歌詞書いてから」

 ということは、歌詞書いたら……っていや、誰がこんなやつと。

「はぁー……。どっか行くか」

 なんか疲れた。

 今手を握ったのはタチの悪い気の迷い。

 こんなとこで二人きりだから変な考えになっちまうんだ。おれは必死に、あの眉のない、「ゆら帝」の坂本慎太郎紛いの肘井を思い出していた。

「じゃ、プールは?」

「プール?」

「根岸いつもビーサン履いてるから、好きなのかと。見てるとまずプール思い出すし」

「別に好きってわけじゃねーけど。つうか、あれ履いてプールなんか行ったことねぇよ。プール自体、もう何年も行ってない」

「嫌なの?」

「……どっちかっつうとな。泳げないんだ」

 おれが言うなり、彼女は馬鹿にしたように目を細めて微笑んだ。おれが嫌そうにしているのが、そんなに嬉しいかね。

「じゃ、プールに決定!」

 肘井は勢いよく立ちあがった。

 そして、おれを見下ろし、とんでもないことを言ってのけた。

「あ、歌詞は今日中にこしらえてね。ライブの出番、今晩だから」

「……おれは出ないぞ。歌詞を書くだけだ」

「その前に、一か所付き合ってね」

「つうか、プールだって行くとは言ってないだろ。勝手に追加するな」

「いいからいいから」

「なんでもそうやって勢いで押しきれると思うなよ」

「ご褒美あげるから、ね? ちょっと、目閉じてよ」

 彼女はわざとらしくしなを作り、おれの目を大きな手で覆った。

「……おれはお前なんかに」

 と不平をこぼしつつ、目を閉じる。男ってのはご褒美と言われたら、子犬のごとく尻尾を振ってしまうものだ。

 男と女が二人きりで、目を閉じると言えば、アレだろ?

 さっきみたいな写真撮るなんてオチは……。

 じょりっ。

 濁った音がして、はらはらと、短い毛がTシャツに落ちる。

 触って確かめる。

 ない。眉毛が、ない。

「はぁぁぁ!? マジで何やってんだよ、ふざけんな!」

「これでメンバーの一員だよ、根岸五臓六腑!」

「だからその名前やめろ! つうか、『肉体信仰』なんて名前自体変えろ」

「じゃあ、なんて名前がいいわけ?」

「……『有害図書委員会』」

 ボソッとつぶやき、激しく後悔した。肘井が、またあのバカにするような顔をしているんだ。

 でもさ、おれはそれを見て、つられて笑っちまった。

 ビタミン不足も考えもんだ。

 だってさ、こんなやつがかわいく見えちまうんだから。



【第1章・終】

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