【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『根岸五臓六腑』

 屋上には、夢中になれる青春はやっぱりなかった。

 憧れだけで想像していたものとは全然違っていた。

 けれど、これから何かを始めようって気になる、不思議な力を持っていた。

 学校を出た後、クーラーを破壊することをすっかり忘れていたことに気付いたが、もうどうでもよかった。

 そのかわり、図書室の返却ポストに『裸のランチ』を投げ込んできた。それがせいぜい今のおれにできる悪あがき。戻ってこないあのときを想うおれを差し置き、呑気に毎日を消費する高校生への愛を込めた嫌がらせだ。

 おれは今、熱に浮かされている。体を醒ます冷風を求めていたけど、頭はその温度がなくなることをぐずりながら拒んだ。

 今だけは熱っぽいまどろみに、すべてを預けていたかった。

 朝方になっていた。おれは、郵便局に自転車を走らせた。

 シャッターのしまった受付のブザーを連打すると、さっきのじいさんとは違う男が現れた。

「さっき預けた郵便。やっぱり、キャンセルしたいんです」

 今日一日かければ、少しはマシな内容にできるはずだ。

 直したからといって、内容がよくなるかはわからない。

 それでも、今できることをやりたかった。

「先ほど、収集されましたよ」男は眠い目を擦り、「ドライバーに連絡してみますか?」と尋ねた。

「……いや。いいっす」

 おれは郵便局を離れた。

 いいさ。あの作品はあの作品。

 新しくアイデアを起こすべきだ。また新しいのを書いて、別の賞に送ればいい。

 今年中に発表となると、そうとう急いで書かなきゃいけなさそうだ。

 小説家か。もちろん、おれは大学をやめる気はさらさらない。

 けど、この夏休みくらいは返上して、やりたいことをやってみてもいいんじゃないかと思う。夏ってのはおれを少しだけ、あの頃に戻してくれる時間だ。



 そんな最高に「青春」してるハイな状態で家路についたのだが、着くなり、ふと我にかえってしまう。

 小花柄のワンピースを着た、見知らぬ女がアパートのおれの部屋の前に座っていたのだ。

 艶のある髪はなめらかで、光の環ができている。雨に降られたのか、その髪はしっとりと濡れていた。

 顔を見ていないから何とも言えないが、長身だし雰囲気は美人っぽい。

 長い四肢を窮屈そうに折り畳み、体育座りで額を膝にくっつけて、ビーサンの指先だけがわきわき動いてて。とりあえず起きてるんだってことだけはわかる。

 夜を明かすんなら、正面のファミレスかなんか使ってくれりゃいいのに。

 なんでどうして、おれんちの前でうずくまってんのよ。

「あのー」

 わきわきわき。

 声をかけると、足の指が一本一本意志を持っているかのように動く。

 それ、返事のつもりか?

「どいてくれないっすかね」

「バンド、やらない?」

 そう言って、彼女はうつむいたままチラシを差し出した。

『団員募集! 君も「肉体信仰」のメンバーになろう!』

 そのバンド名は、世にあるバンドの中でも特別モテなさそうで、特別自己満チックな雰囲気を纏っている。

「えー……。無理っす」

「そういうなよ、『根岸五臓六腑』。親睦を深めるために、プールでもいこう」

「勝手に命名しないでもらえます?」

 女は顔を上げた。

 雰囲気美人どころか、きちんとしたべっぴんさんじゃないの。

 グロスのきいたピンクの唇が、たまらなくそそる。意志の強そうな眉がおれを逃さない。

「あれ、つーかなんでおれの名前……」

 あ、いや、表札でわかるか。

「なんでおれなんですか?」

 都合のいい話には落とし穴がある。悪徳宗教の勧誘員のおねーさんは、なかなかにキレイなんだって、ウワサで聞いたことも。

「ん? それはね」

 女はおれの脚にすがりつくように立ち上がると――。

「今回の夏休みは、根岸で遊ぼうと思ってさ」

 おれの耳に口を寄せ、囁いたんだ。

「……お前!」

 なるほど。

 人間、マスクを外し、髪をきれいにブローし、そしてで、ずいぶんと変わるもんだ。

 化粧ってのは、ホントたまんなくインチキだね。

「ど? 、化粧すれば結構?」

 それだけは、口が裂けても言いたくねぇよ。

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