【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『一瞬の熱』

 屋上からフェンス越しに、繁華街の明かりが見降ろせた。

 パチンコ屋やカラオケ店のネオンがきらめき、その上に、灰色の雲がかかっていた。

 空気は、生ぬるさを増していた。また一雨来るかもしれない。

 清々しい爽やかな空気を期待したが、排気ガスは上へ上へと昇っているのだ。

「たしか、ここに……」

 彼女は球体のガスタンクの下に手を突っ込んだ。

 ビビの手に握られていたのは、水を吸って波打った文庫本。

 ……『裸のランチ』だ。

 驚いたが、何も言わずに様子を見ることにした。偶然ではあっても、起こりうる範囲。

 彼女は本を開くと、その間に挟まれていた、折り畳まれているルーズリーフを取り出した。紙はよれており、端は薄汚れている。

 ビビはそれを指でしばらくなぞり、紙の下まで辿ると小さく頷いた。

「もう、帰っていいわよ」

「え?」

 いや、ちょっと待ってくれ。

「いきなり『帰れ』ってこたぁないだろ」

「帰れとは言っていない、帰ってもいいって言ったの」

「変わんないだろ。何の説明もなしかよ」

「ここにきた理由、ききたいの?」

「そらそうだよ」

 彼女はルーズリーフをおれに手渡した。

 そこに描かれていたのは、「あみだくじ」だった。たった二本の縦線。

 その間に梯子状に、たくさんの横線が引かれていた。辿るのが面倒なくらい。

 紙の下の端は折られていて、辿った先に何が書いてあるのかは分からない。

 指でそれをめくろうとすると、彼女はおれの背中に蹴りを入れた。

「って!」

 いや、何も蹴らんでも。

「勝手に見るな」

 んなこと言われると、ますます何か知りたくなる。

 彼女の乱暴な言葉遣いは初めて聞いた。人間らしくて、むしろ好感を抱いた。

「一応付き合ってもらったけれど、それだけは駄目」

 その「一応」ってのが余計だってのは、わかってんのかね。

「別にあれこれ詮索する気ねーよ。トモダチ同士のお楽しみなんだろ。おれが関わると、なんか台無しになんじゃねーの」

 彼女は答えず、深く息をついた。

「わかった、帰るよ。おれ、図書室寄ってみるわ」

「どうして?」

「これ、ポストに入れておこうかと」

 鞄から『裸のランチ』を取り出し、彼女に見せた。ビビは驚き、「どうしてそれを?」と尋ねた。この本だけが、無関係なおれたちをかろうじて結んでいた。

 昔のことを説明するのが無粋な気がして、「たまたまだよ」とぼやかした。

 そうやって彼女に謎を残したことが、自己満足だけど少しだけ気持ちいい。

「ただ、おれにとって大切な本なんだ」

 ビビは「そう」と、低く呟いただけだった。特に言葉は続かない。

 気まずい沈黙が流れる。今までよく会話が続いていたものだ。

 おれたちの心が響きあうことは、ない。

 いざ来てみたら、屋上なんて面白くもなんともなかった。

 色々と、期待はずれだ。

 図書室にこれを入れてくるってのも、そんなことをする気はさらさらない。本を見せ、ビビを少し驚かしたかっただけだ。

 久々に会った同級生に対して思うところはあるけど、別に話すことなんてほとんどない。

 一冊の本は共通点にはなっても、直接的な想い出は何もないのだと痛感した。

「じゃあな」

「うーん」とビビは不満げに唸った。

「……なんだよ」

「なんだか、このまま別れるのは釈然としないのよ。我儘だとはわかっているんだけれど」

「じゃあ、どうすりゃいい?」

「は?」

 おれがどう返答していいのか困っていると、ビビはこちらにずいと近づいた。

「ふーん。私じゃ物足りない?」

「あーっとな。なんつったらいいのか……おれら、まともに話すのすら今日が初めてだろ」

「わかったわよ。いちいち考えないで。冗談よ。私だって少しは緊張しているの。わかってよ。声かけてはみたものの、話すことなんか何もないんだから」

 もしかしたらこいつも、深夜の得体のしれない、軽薄な友情をおれに感じたのかもしれない。それが長続きしないのは、おれが一番よくわかっている。

「だから、帰るって言ってんだろ」

「なんで怒っているのよ? なんだかこのまま別れたら、ずっとモヤモヤしそう」

 あー、こいつすげぇめんどくせぇ。

 おれたちの会話はこの時点でだいぶ噛みあってない。甘い恋愛ドラマでこんなシーンあったら、きっと見ている方は、チャンネルを変えちまうだろう。

「わかった。じゃあ、一つだけ久々に会った同級生らしい会話をしよう。それで、『そいじゃ』って別れる。少しはスッキリしそうだろ?」

 そうさ。おれたちには、きっと理由が必要なんだ。

 どこかで見たような当たり前の会話があって、心のない「またね」があって、それでうまく収まるんだ。

「今、何をしているの?」おれが頭の中に一〇〇回浮かべてそのたびに消した言葉を、ビビはさらりと口に出した。「あ、まずは私が何しているか言えばいいのか。私ね、ここで教育実習していたの。今日、最終日だった」

「だから、やたら手慣れてたのか」

「そう。まぁ、屋上の鍵は盗んだんだけれど。明日の朝までには、返しておかないと。さっきのあみだくじを確認しておきたくって」

「……」

 盗んだ、なんて言葉がさらっと口から出てきたことに面食らう。ビビという人間の、1%もわかっていないのだと感じた。

「というより、そのときあの線を辿ったときの私の気持ちを」

「何のことかはわからんけど。気持ちは変わったのか?」

「ううん。あのときと、同じだった」

 彼女は寂しそうに、でも、強かに微笑んだ。

 屋上に忍び込んだ理由はこれで合点がいった。だが、肝心のあみだくじの意味がわからない分、あまり納得はできなかった。

 かわりに、ふと、さっきの疑問が解けた気がする。

 おれが彼女のことを思い出せなかったのは、もしかしたらビビの雰囲気が変わってしまったからかもしれないと。外見や喋り方は変わっていないのにもかかわらず、だ。

 高校のときの孤独な強さは感じられず、世界に溶け込んでしまった存在に見えてしまった。丸くなったというか、擦れてしまったというか。

 でも、彼女の言うとおりだ。彼女は根っこは変わっていないのだろう。

 あのとき、『裸のランチ』を推薦図書にしたビビのままなのだ。

「それで?」

 彼女は、斜に構えた視線を向け、おれを促す。

「あ、おれ?」

「もちろん」

「おれは……」

 おれは、一体何をしているんだろう?

 もちろん、医者を目指していると説明すりゃ、それこそおさまりもいい。相手によっちゃ「すごい」の一言くらいもらえるかもしれない。(こいつはまず、言わねぇだろうけど)

 だけど、そう胸を張って言えるような努力をしていないおれは、黙り込んでしまった。

 それに、おれの年齢なら、大学で就活中か就職が決まっているか、まぁそんなところだ。

 一方おれは、たとえ順調に行ってもあと四年半は学生で、いつまでたっても「大人」にはなれそうもない。

 なんとなく、気が引けた。親に金出してもらってあと何年も大学生やってるってのが、急に恥ずかしく感じたんだ。

「小説家を目指してる」

「……」

「偽善的な世の中に警鐘を鳴らす、そんな作家」

 言った途端、こっちの方が何倍もイタイって気付いた。

 肘井にそそのかされるまで賞に投稿したことはなかった。いや、まとまった一つの作品を書いたことさえなかった。

 自分の理想通りの小説を書けないと、身の程を知るのが怖かったんだ。

 そんなおれが作家を目指すのは無謀だって、よくよくわかってた。それは、作家に憧れていた高校のときから変わっていない。

 作家を目指すことは怖いのに、大学の中でずっと迷って。

 足踏みをして、どっちつかずで。

 あー、おれってどうしようもないバカじゃん。

「……」

 ビビは、黙っておれの喉元を見ていた。憐みにも似た表情に見えた。

「動かないでね。目、つむって」

「?」

 彼女はすたすたとこちらに近づく。

 おれの隣に並んで、立ちどまった。そして肩に手をまわした。

 なんだ?

 今度は花の香りが、消えずにそこにいた。

「いいわよ、目をあけて」

「は、ちょっと」

 ――てろりん。

 間抜けな電子音と、激しいフラッシュ。

「はい。これでいい?」

 彼女は、おれに携帯の画面を見せた。

 そこには、目を半開きにして間抜けに驚いているおれと、顔を寄せた無表情なビビのツーショット。見る人によっては、仲睦まじく見えるかもしれない。

「これでって?」

「送るから。友だちに」

 彼女が写真を見せたのは、「この映りでもいいか」ってことなんだな。変なとこ、律儀だね。

「別に、好きにしろよ」

「小説家のカレシできちゃいました、イエーイ、ってメールするの。最近『男のひとりもいないなんて』って説教がうるさいし。今日ね、私、誕生日なのに……連絡もこないし」

 真顔だから、ビビが冗談を言っているのかどうか、おれにはさっぱりわからない。

「それで?」彼女はとおれに問いかけた。高圧的なそれは、怒っているわけではないのだと今更理解し始めた。

「なにがだよ」

「いつ、デビューするわけ?」

「いつもなにも、できるかどうかもわかんねーよ」

「『有害図書委員会』。その言葉選び、私は悪くないと思う」

「……そらどうも」

「今年いっぱいにはできる? 私、嘘つきにはなりたくないから」

 おれがさっき送った新人賞は、発表が十二月。

 はは、たしかにそれが受賞すりゃあ、「一応」今年いっぱいだわな。

「できる。大丈夫」

 作家なんて無謀。それはわかっているはずなのに。

 あぁ。きっとこれは、深夜の無責任でなげやりな自信だ。

 おれだって、あの小説が賞を獲るなんて夢のまた夢だってのも、わかっている。

 でも、頭の奥が熱くて、かつてない全能感に支配されていた。

 雨が一滴落ちてきた。それを皮切りに雨脚は強まった。

 こんな雨なんかじゃ、熱は冷めない。

 ビビは空の向こうを仰いで顔をしかめた。薄くマスカラが滲んでいた。

 ずっと遠くの空は、明るくなっている。雲は散散に切れていた。雨粒をプリズムにして、陽の光が乱反射した。

 そんな光景がきれいであればあるほど、おれのバカっぷりが際立ってしまう気がした。

 おれたちはお互い、何か考えては、他に言うべきことがあるんじゃないかと思いながら視線を彷徨わせ、汚いはずの街の灯りを眺めた。

 やっぱり、わからない。

「帰るか」

 おれが言うと、彼女は「先に行ってて」と素っ気なく言った。

「ここに残るのか?」

「うん。まだ、やることがあるから」

「……」

 何を、とは今更訊けなかった。

「根岸のせいで、迷ってしまっているけど」

 何を?

 とやっぱり思うけど、おれは「人のせいにするな」と笑うしかできなかった。

 ビビは口元を手で抑え、あくびをかみ殺した。

「ビタミン足りてるか?」おれは冗談めかして尋ねた。

 おれにとっては、ビタミンは世に言う「いいもの」の象徴であり、憎むべき存在と思っていた。

 でもさ、そんなビタミンさえ、今はさほど悪く思わない。

 少しだけではあるけど、偽善や都合がいいことに対して、怯えなくてもいいような気がしていた。

 彼女は少し驚いた顔をした後、小さく笑った。

「有害なビタミンが欲しいわ」

「ビタミンU、ってか」

 よく考えたら、頭文字を取るなら「EVIL」の「E」、せめて「YUGAI」の「Y」だろうが、そんな馬鹿な勘違いも、きっと寝不足のせいだ。

「じゃあな」

 おれたちはきっと、二度と会うこともない。魔法はいつの間にか解け、おれとビビはもう、元クラスメイト以下の他人だ。

 それでいいんだと思う。

 しばらくしたら、今日のことを思い出しさえしなくなるかもしれない。熱は意外と早く冷めてしまうものだ。

 おれたちはいつか、熱のない世界を生きていかなくてはいけない。

 ……それでも、この熱さをずっと覚えていられたら。

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