【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『有害図書委員会』

 彼女とおれは、高校のとき図書委員だった。おれは単に「楽そうだったから」という理由だけで選んだだけではあるが。事務的な連絡事項以外、話したことはない。

 月に一回、図書室で委員会が行われた。いつもはサボっていたが、あまりにしつこく担任に叱られ、仕方なく初めて出席した。

 退屈退屈退屈だ。欠伸が止まらない。

 どうやら、「図書委員が選ぶ推薦図書」を数冊決めるらしいのだが、そこで隣に座っていたビビが、静かに手を挙げた。国語の教師で司書教諭をしている中年の女が、少し険のある表情をしたように見えた。

「『裸のランチ』」

 ビビが言うなり、後ろの方から、「またか」という嘲笑交じりの声が聞こえた。

 その本がなにかはわからなかったけど、眠気が飛んだ。

 そのタイトルは、おれが今まで読んだ本とは何かが違った。

 暴力的で、なにより孤独な響きだった。

 司書がそれをボードに書き、だるそうに「他にありませんか」と促した。すると、ビビは強い調子で口を挟む。

「いけない理由がわかりません。私は、この本をみんなに読んでもらいたいんです」

 今考えてみれば、あの本を高校の推薦図書にできるわけない。

 だけどそのときのおれは、司書のおざなりにするような態度に苛立った。

 司書はわざとらしく咳払いをし、図書室中に目をやった。

「この本だけ、まず多数決を取りましょうか。読んだことがない人のために説明しますと、『裸のランチ』は、ウィリアム・バロウズという作家が書いた小説です。彼はドラッグ中毒者で、その幻覚を描いた小説です。グロテスクな描写も度々見られます」

「幻覚と一言で片づけてしまうのは、いかがなものかと思いますが」とビビは言った。

「……すみません。ですが、今は時間がありませんので」と司書は露骨に苛立った。「高校の図書室にふさわしいとみなさんは思いますか? ふと手にとって読んだ人が傷つく可能性だってあります。有害図書とされてもいいくらいです。それでも、推薦されるべきですか? そう思う人は、手を挙げて下さい。みなさん、顔は伏せて下さい」

 だからおれは、顔を伏せると同時にすぐに手を挙げた。そんな本ごときで傷つくやつのことなんかどうでもいい。弱者に合わせるやり方より、刺激的で面白い本を推薦すりゃいい、と。

 だが、もちろんビビの意見が通ることはなかった。

 帰り道、書店に寄り、『裸のランチ』を手に入れた。

 黄色とピンクがけばけばしい表紙。ずっと付き合うことになる、その本。(ビーサンの色は、この本に合わせている)

 小説の内容だけじゃない。

 そのビビにまつわる記憶が、大人に、体制に屈服してはいけないという象徴となっている。『裸のランチ』を、おれにとってのバイブルに押し上げているのだ。

 不浄なものを過剰に忌み嫌い、綺麗なもの、ためになるものだけを与えるのは何かが違うんじゃないかと思う。

 ビタミンだけじゃない。ジャンクフードだって駄菓子だって体は欲しがる。

 おれの体は――脳味噌は、求めている。

『裸のランチ』のような、心を落ち着かせる「有害」なものを。



 そんな記憶をどう伝えていいかわからず、ただ曖昧に「ほら、お前図書委員だっただろ」とだけ言った。

「図書室ね。違うけれど、ある意味では惜しいかな」彼女がおれの言葉に対し、どんな感情を抱いたのか。察することはできなかった。

 三階を過ぎても彼女の足は止まらず、さらに上がっていく。

 おれの中にはずっとわだかまりがあった。

 どうして、彼女のことをすぐに思い出せなかったのだろう?

 親しく喋ったことはなくても、『裸のランチ』を知るきっかけになった、おれにとっては大きな存在のはずなのに。

「じゃあどこに向かってんだよ?」

 無言。

「おいって」

 ドンドン、と彼女はスチールの壁をノックする。「ここだ」ということだろう。三階建ての校舎だから、この上は狭い踊り場になっていて、行き止まりになっている。

「屋上」

「屋上? 入れるのか?」

 彼女は細い指先で鍵を弄んだ。なぜかわからないが、屋上の鍵をもっているらしい。

「図書室じゃ置いてくれなかった本を、屋上で読んでいたの。居合わせた後輩の子に勧めてね」

 屋上。なるほど、そうか。

 おれたちの青春に足りなかった、屋上様だ。

「『有害図書委員会』って感じだな」

「……まぁ、そんなところ」と、ビビは歯切れ悪く呟く。

 高校生か。毎日ただ本を読んでて、ほとんど誰とも話さず、周りのことも自分のことも見てなかったとき。

 未来がなにもわからなくて、怖くなかったとき。

『根岸の小説、私は好きかな』

 あー、うるせぇってば。

 なんで今、肘井の声が。

 自分の脳内からあいつを追いだしたくて、頭を強く振った。

「どうしたの?」

「……頭の中からマユナシ女を追いだそうとしている」

「私の中にもいるけれど」

「え?」

 鏡に映った化粧前の自分だというジョークだろうか。

 彼女はばつが悪そうに黙り、扉を開け放った。

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