【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『クーラーのある青春』

 どれくらい眠ったかわからない。とりあえずまだ夜は明けていないようだ。全身がうっすら濡れているが、雨はひとまず止んだらしい。

 頭がフラフラするのは相変わらずでも、さっきよりも重くて鈍い感じは薄れている。

 自転車もだいぶまっすぐ漕げる。ぎいぎいペダルを唸らせて、坂を上がっていく。

 救急車の音が遠くから聞こえた。

 もしかしたら、どこかで誰かが死んだかもしれない。おれの知らない誰かが。

 ――どうでもいい。どこの誰が死のうが。

 おれは誰に訊かれたわけでもないのに呟いた。

 サイレンの音が消えると、間を埋めるように忙しく虫が鳴く。

 夏が本格的に始まるのだ。

 とっとと家に帰ろうと思ったが、少しだけ、遠回りしたくなった。

 湿ったコンクリートから上気する熱が、おれをそそのかすんだ。

 坂の途中で息が上がり、自転車を降りた。高いフェンスで隔てられグラウンドがあり、その奥には、打ちっぱなしのコンクリートの壁の無機質な建物が見えた。

 今おれが通っている大学であり、同じ敷地内に、おれが四年前に卒業した付属の高校もある。そういえば、肘井もこの付属高校から上がった内部生だと言っていた。おれが三年のとき、一年生だ。おれもそうだし、肘井も帰宅部だと言っていた。いくら肘井が眉毛のない目立つ女子だとしても、お互い繋がりもなく知る由もなかった。

 大学の外壁を迂回し、高校の門の前に立つ。

 高校の校舎には、ビニールシートが所々にかけられている。クーラーの取り付け工事が行われていると、こないだ実家に寄ったとき母親から聞いた。(独り暮らしこそしているが、実家は近所だ。それも「大学生は独り暮らしを経験して成長するべき」というありふれた思惑だろう)

 こんな小奇麗な建物なのに、おれが高校生のときにはクーラーはなかった。

 フェンスを掴む。ビーサンを脱ぎ、ポケットに突っ込んで、フェンスにつま先をかける。

 高校の体育祭のとき、こうやって逃げ出したのを覚えている。

 そんとき、「よくわかんねぇけど、こんなとこで玉転がしとかリレーなんかやってる場合じゃねぇ」って急に思ったんだ。フェンスのてっぺんから夢中で飛び降りたっけ。

 どうにかしたいって衝動と熱はあるのに、何をしていいのかまるでわからなかった。

 それはたかが何年か前の話だったけど、ずいぶん昔のことに思える。

 フェンスのてっぺんまで登り、おそるおそる降りていった。あのときみたいに勢いでジャンプすることはできなかった。

 未だに学生で、全然大人にはなれていないくせに、ガキっぽい無鉄砲さは消えてしまっている。今までで一番何も持っていない史上最低の「おれ」だった。

 再び、工事の青いビニールシートに目をやった。

 クーラーのある青春なんかぬるいぜ。

 自分に何かを動かす力はないのには気付いていたけど、クーラーをぶっ壊すくらいはできる。酔いはまだ醒めていなかったんだ。

 開いている窓がないか一通り見て回る。当然のように、すました顔で鍵がかかっていた。

 三階の渡り廊下を薄い光が横切っていく。警備員だろうか。

 図書室へと続く広い渡り廊下だ。両脇にはベンチや自販機もあり、窓が大きくて見晴らしがよかったのを覚えている。屋上が学生に解放されていなかったので、おれたちにとっては屋上みたいな場所だった。でも、何かが違うと、誰もが感じていた。

 おれたちは、屋上を求めていたんだ。

 渡り廊下の光が消えた。

 窓が閉まる。その間際、低い「あっあああっ」という男の甲高い唸りが聞こえた。たてつけの悪いレールを滑る音が、あえぎ声に聞こえちまったみたいだ。

 いよいよ頭がどうかしてる。

 とっさに身を隠す。今見つかったら、犯罪者にされかねない。

 急に自分の企みが幼稚で、失敗したら取り返しがつかないものだと気付く。

 酔いが一気に醒める。気付いたのが今でよかった。今なら戻れる。

 廊下の光は図書室へと消えていった。

 よし。今なら、

「ね」

 なんだ!?

 おれは声を上げそうになるが、必死に飲みこむ。

 後ろから声がした。女の声だ。おれの肩に手を置いている。

 どうする?

 あーもー、どうすんだよ。

「え、いや、実はおれ酔っぱらってて……あの……ぜんぜん、ここがどこかもよくわからないって感じで……」

 そうだ。酔っぱらいだってことをアピールするしかない。おれがクーラーを壊そうなんて考えていたことなんて、誰も気付きやしない。うっかり迷い込んだ、馬鹿な酔っぱらい。

 きちんと丁寧に説明すれば、許してもらえる。

「静かにして」

 女はおれの口を手のひらで塞ぐ。甘い花の香り。

 そして追いかけて、おれのニンニクのにおいがして、あっという間に掻き消えた。

 はは、花の命は儚いね。

「あんた、根岸?」

 は?

 女は髪を後ろで一つにまとめていて、生え際に柔らかい産毛がそよいでいた。女の子特有の、産毛。これを見たとき、「女の子って女の子なんだな」ってわけわかんねぇ感想を抱いちまう。

 ……じゃなくて。

「なんでわかるんだ?」

「同級生だから」

 女は素っ気なく言った。

 おれは女の顔をまじまじと見つめた。目は細くやや寂しい印象だが、すっきりとした鼻梁と形のいい薄い唇が、彼女を品よく美しく見せた。

 うーん、誰だかはやっぱりわからない。

 このクソ暑いのに、涼しげな顔してリクルートスーツを着ている。個性を殺すその服が、ますます彼女の正体をぼやかす。高校の同級生としての手がかりが消えてしまう。

「あと、サンダル」

 女はおれの足元に目をやった。

「サンダル?」

「そう。ピンクと黄色を色違いで履いている人、他に見たことがないから」

 なるほど。おれも見たことない。高校のときは、親にばれないようにローファーで家を出て、しばらく離れてから履き替えていた。

 誰かはともかく、同級生だと断定する材料としては、まぁ悪くなかった。

 とりあえず、根岸って名字も当てずっぽでは出ないだろうし、こいつが元クラスメイトだってのは信用しよう。

 しかし、おれが今覚えている同級生なんてせいぜい五、六人。彼女はそこにいない。

「どうして、いつも色違いで履いているの?」

 彼女の言葉は、すごく耳当たりがよかった。

 声が特別いいとか、そういうんじゃない。「履いてる」じゃなくて「履いている」、と言った彼女の唇は、たまらなく色っぽかった。

「こういう小さいことの方が、なんか懐かしいのよね」

 彼女はずいとおれに顔を寄せる。息がかかる、恋人の距離感だ。

 息。おれはラーメンを恨みに思いながら顔を逸らし、「近づくなよ、今のおれはニンニクよりニンニク臭いぞ」と意味の分からない冗談で誤魔化す。

 彼女はおれが慌てるのを静観したままで、謝意を示した。

「ニンニク食べたんでしょ? 食べたのに、においがしない方が気味が悪いけれど」

「まぁ、そうだけどさ」

「ごめん、近かったわね。昔からよく言われるの。やっぱり、日本人とは距離感が違うから」

 日本人とは違う?

 彼女は日本人ではないということか?

 その言葉で一気に回路が繋がった。

 訛りなどは一切ないが、彼女のルーツは日本じゃない。

 台湾だ。

 おれの父親は学会で台湾に行ったときのことを、度々懐かしむように話していた。

『台湾に住むじいさんやばあさんどもはさ、すごくきれいな日本語を使うんだよ』と。

 それは、現代の日本人が使う日本語より美しいのだと、父親は言うのだ。

 彼女の言葉が耳に心地いいのは、きっとそういうことなのだろう。日本育ちではあるが、両親が台湾出身だと聞いたことがある。

 本名は相変わらず出てこない。

 でも、彼女が周囲から「ビビ」と呼ばれていたことを、思い出した。

「行く?」

「は?」

「校舎に入りにきたんでしょう?」

 おれは頷いた。彼女の有無をいわさない言葉の調子が、そうさせた。

「早くいきましょうよ」

 彼女は、今度はおれの服の裾を掴み、図書室がある棟に向かった。

 職員室の隣――たしか国語の準備室か何かだ――の部屋のドアの前で、彼女は立ち止る。 

 彼女はドアを開けると、「早く」とおれを促す。

「鍵しまってないのか?」

「うん。壊れているから」

 どうしてお前がそんなことを知っているんだ?

 そう問いかける前に、彼女は先に準備室に入っていった。鍵の入った壁掛けの蓋を開け、鍵を手に取る。妙に手慣れている。

 そもそも、彼女はなんでここに来たのだろう。

 いくつもの疑問が脳内を取り巻きながらも、おれは誘われるまま、校舎の廊下を歩いていた。

 ビビは足音を殺して進んでいく。おれは後ろをついていくだけだった。

「おい、さっき中に警備員いたぞ」

「警備員? いたとしても、管理室でサボっているだけよ」

「でもいたんだよ。図書室の方に向かって行った」

「……まぁ、一応警戒はしておくわ」

 彼女があまりに落ち着いているから、さっきまでの「見つかったらどうしよう」という恐怖心は薄れ、彼女への好奇心に変わっていった。

「今日、根岸いた?」

 彼女は階段をのぼりながら、振り向かずに尋ねた。

「今日? 何の話だよ?」

「同窓会。さっきまでやっていたの」

「お前、そういうの行くんだな。あんまりつるみたがらないように見える」と、知ったような口をきいて後悔する。

 彼女は気にしていない様子で、「今日はちょっと、特別だったから」と呟いた。

 二階、三階と階段を上っていく。

 息切れしているおれに対し、ビビは息一つ乱れていない。

 階段を歩くときの独特の反響音、チョークの粉の鼻をむずむずさせる感覚が、段々と過去の彼女のことを思い起こさせていた。

「もしかして、図書室に行くのか?」とおれは勇気を持って尋ねてみた。

「ん? ううん。どうしてそう思うの?」

 そんなの勇気を持って尋ねることでもないだろう、と思うかもしれない。

 だけど、仲がいいわけでもないビビに対し思い出話をするのは、慣れなれしいように感じたし、思いきりがいることだった。

 そうだ。

 おれとビビはさしたる関係はない。

 でも、おれにとっては、人生を変える存在だったのだ。

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