【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『偽善と偽悪』
ウトウトきていて、意識が混濁する中。
ふと、肘井と最初に会ったときのことを思い出していた。
初めて話をしたのは、大学の人体解剖実習のときだった。
医学部と言ってもおれたち二年生だと退屈な座学の授業ばかりだったので、解剖の授業の初回は、学生らは浮足立っていた。
やっとそれっぽいことができるな、なんて談笑しているやつもいた。
解剖室には、小ぶりなベッドくらいのスチール台がひしめきあっている。その上には、「御遺体」が一体ずつ置いてある。遺族の意向でおさめられた実習のための献体だ。
ガーゼがかかっていて、その上から青いビニールシートで覆われている。
マスク越しにも、保存液と消毒液のにおいが伝わってきた。(すっぱくて、のどがむずむずとする。慣れるまでは風呂に入っても、鼻の奥にその感覚が残り続けた)
黙祷が行われ、教授がシートとガーゼを外すように指示した。
おれの班は自分を除いて四人。肘井は同じ班だったが、その日は休んでいた。
教授から指示が出されても、誰も動かなかった。視線だけがこわごわと様子を窺っていた。
おれは無言で覆いを外した。目の前の「ご遺体」はただ静かに目を閉じているだけ。
骨と皮だけの痩せた小柄なじいさんで、片膝を曲げた状態で固まっている。
そんなことはどうでもいい。作業を始めないと。
教科書を開いた。まずは胸部の皮膚を切り、脂肪をピンセットで取り除き、神経を傷つけないように胸部の筋肉を露わにするよう書かれていた。
左手にピンセットを持って表皮をつまみ、メスをほんの触れる程度に滑らせる。厚く切ってしまったせいか皮膚は深く裂け、すぐに黄色い脂肪がのぞいた。
「!」
目の前に座っていた男子学生の岩崎が、言葉にならない短い悲鳴を上げた。
印象の薄い女顔。柔らかい雰囲気で女子からは人気があり、「ガンちゃん」と呼ばれていた。昼飯にグラノーラにヨーグルトをかけて食っているのは、さすがに驚いたが。
「どうして? 根岸さん、なんでそんな平然とできるの? きもちわるくないんですか?」
おれは怒られているんだろうか?
間違ったことは何もしていないのに?
お前も座っている時点で、この授業に参加している時点で、「これ」をやらなきゃいけないんだ。できなきゃ単位ももらえないし、帰れないだろ。
そう思ったことを、できるだけ柔らかく理性的に話した。(くだらない正しさだ)
岩崎は献体の裂けた皮膚とおれの口元を交互に見つめ、泣きだしてしまった。
もちろん、そんなやつは珍しい。大抵が恐る恐るではありながら、教科書に載っている通り、担当教授の指示に従って、作業を進めていたのだ。
「そんな風に、簡単に人の身体を傷つけられる気持ちがわからないです」
岩崎は担当教授に連れられ、部屋を後にしていった。
やんわりとおれを非難する視線が集まった。直接責める人間はいなかったが。
岩崎の言ったことは偽善的ではあるが、同時に正しいと思っていた。こういう感覚が必要なこともある。
おれは偽善的であると思われることに、怯えすぎているんだろう。
残りの二人も、ささくれだった空気に耐えかねたのか他のテーブルへ行ってしまった。
はぁ。もう、ひとりでやるしかない。
細いソーメンみたいな神経を傷つけないようにピンセットで持ちあげ、スクランブルエッグみたいな脂肪を取り除き、筋肉を表出させる。
戻ってきた担当教授を呼び、確認を取る。
彼は「最初にしてはよくできてる」と頷くが、「色んな子がいるんだから、言い方を考えないとだめだよ。君は年上なんだから」と岩崎のことについて注意をして去って行った。
放課後になり、教室に学生がいなくなっても解剖を続けた。
数人がかりの作業をひとりきりでやってるわけだから、他の班より遅れるのは当然だった。
「ね、なんであんたしかいないの?」
頭上から声をかけられた。
それが肘井だった。
顔を上げると、毛のない眉を器用に動かし、マスクの向こうでいたずらに笑う。彼女が微動だにせずじっとこっちを見つめるもんだから、なんとなく固まってしまう。
蛇女め。
肘井は白衣を着ておらず、ドラムのスティックケースを提げていた。彼女がソロでアマチュアの音楽活動をしていると、誰かが言っていたのをきいたことがある。
いい気なことに、今さっき登校したらしい。
おれが岩崎を泣かせたとか、そういう事情も知らないんだろう。
「それ、『裸のランチ』?」
彼女の唐突な指摘に驚き、ポケットにつっこんである『裸のランチ』を触って確かめた。
「なんでわかった? お前、エスパーか?」
「いや、いつも読んでるからそれかなと」
なんだよ、びびらせんな。
「お前も好きなのか?」
「……さぁ、どーかな?」
話したことはなくても、肘井の存在は知っていた。なにせ、目立つ風貌だったから。
でもそれだけ。変わり者という認識しかない。ただ、『裸のランチ』を読んでいても不思議ではない雰囲気を持ってはいた。
彼女は挑発的に笑うが、好きな本が同じというくらいではしゃいでいると思われたくなかった。笑顔は返さず作業に戻った。
「で、なんでひとりなの? 班でやるんでしょ?」
「気付いたら、誰もいなかったんだよ」
「友達いないんだね」
「いねぇよ」ちょっとグサッときたけど、それも悟られたくない。
「ふぅん」と肘井は椅子にすわり、おれの作業を物珍しそうに眺めた。
「なんだよ、ジロジロ見るな」
「いや、楽しそうだな―って」
「じゃあ手伝ってくれよ、同じ班だろ」
「じゃなくて。あんた、すごく楽しそうに解剖するね」
おれが楽しそうに?
肘井は、綺麗なそら豆型の鼻腔をひくつかせた。
「不思議なにおいだね」
「防腐剤の臭いだと。髪についたらなかなか取れないらしいし、ちゃんと帽子かぶれよ」
「いい」
「なんで」
「きらいなにおいじゃないから」
変なやつなのか、変人ぶっているだけなのかわからないが。もし二四時間三六五日変人ぶることができたら、きっとそいつは本当の変人だろう。ずっと偽善を貫けばそれは善とされ、おれみたいに偽悪だと言い張っても受け取る側に理解がなければ、もう偽りのない悪なのだ。
教授がおれのテーブルに来て、「とりあえず今日はもう帰りな。ここ閉めなきゃいけないんだ」と言った。
おれは頷き、霧吹きに入った保存液をその遺体にかけ、ビニールシートをかぶせる。
「ね、だからさ、なんでひとりなの?」
「何回きくんだよ、もういいだろ」
「他の人たちは? 押し付けられちゃったの?」
わざわざ言うまいと思ったが、おれの偽悪のスイッチが入ってしまう。(今更だが、善人でもないのに偽悪なんて滑稽だ)
いつからだろう?
こんな風に、思ってもいないことばかり言っちまうようになったのは。
「岩崎が人の身体を傷つけられないとか言うから、こんな知らないジジイどうだっていいからやるぞっつったら、泣き始めてよ。おれ今、女子全員の敵。教授達も甘いからあいつに怒りゃしないし、絶賛孤立中」
「私、女だけど別にあんたの敵じゃないよ」きょとんとした様子で言うもんだから、毒気を抜かれちまう。
「お前は岩崎の味方しないわけ?」
「嫌いってわけじゃないけどね。ナヨナヨしてるとこなんか、弟になんとなく似てるし。でも、あんた別に意味なく泣かせたりはしないでしょ?」
「わからないぞ、意味なく岩崎みたいなカワイイ男子を泣かせるのが趣味かもしれない」
どういう顔をするだろうと思ったが、彼女は表情を崩さなかった。
「あ、じゃあ私に嫉妬とかする?」
「嫉妬?」
「こないだ岩崎に告白されちゃったんだ」
「……そりゃ羨ましいね。返事はしたのか?」
「顔も頭もいいし、遺伝子的にはよさそうだから付き合っても悪くはない……けど」
「けど?」
「私、もっと男くさーいのが好きだから」
……はっきり言うと、それから肘井が気にいってしまったのだ。
このボンボンの坊ちゃん嬢ちゃんばかりの大学で、初めてまともに偽悪を愉しめるやつだったから。(ボンボン嫌いが同族嫌悪だってのは、よくわかってるけどさ)
彼女に、おれが二浪してこの大学に入ったことを説明した。もちろん、小説家になりたかったなんてのは黙っていた。
肘井はその経緯には特に食いつかず、「二十二歳? じゃあ、年上なんだね、二歳上か。見えないな」とおれが子供っぽいと笑った。
「どこがだよ。オッサンにしか見えないだろ」
「ヒゲで誤魔化しているけど、幼い顔だねー。岩崎よりうちの弟に似てるかも」
「弟の話ばっかりだな。お前ブラコン? こんな口裂け女みたいな姉貴じゃ弟も困るだろうな」と、おれは肘井のマスクの向こうの口を想像した。透視でもしたかのように、裂けた口が見えた気がした。
「あ、私、口裂けてないからね? むしろ、化粧するとすげーかわいいよ?」
「マスク外して、『私、きれい?』ってか? ありえねー」
そんな話をしていたときだけ、おれは笑っていられる気がする。
肘井と一緒にいると、周囲はますますおれとの距離をとるようになった。
それが特別な気がして気持ちよかったけど、肘井には悟られたくなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます