【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『有害図書』
おれがさっき自分の小説を「有害図書」と称したのは、あながち出まかせだけでもない。
イメージは、ウィリアム・バロウズという作家の『裸のランチ』だった。
それは、バロウズがトんでる最中の禍々しい景色を書きだし、ひたすらに並べたナンセンスな小説だ。(かいつまんで説明すること自体が、本来はおこがましいが)
全身に注射針が刺さった女をはじめとする、明日なき中毒者。マッドな医師に、ジャンキー以上に薬物売買にのめり込む売人たち。登場人物全員が病んでいて、ストーリーも連続性も皆無。悪夢のスケッチの羅列。
人間の偽善に唾を吐きかけ、退廃的な欲望と破滅を描く。
心温まる物語やお涙ちょうだいの逸話なんかいらない。綿密なプロットもいらない。
何より、バロウズは読者を喜ばせることになんか興味なかったんじゃないかと思う。
バロウズは言うのだ。
“作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ……”
感動を誘うためではなく、自分の目の前にあることを書く。作家志望でありながら、中年になるまで芽が出ず、何物にもなれなかったバロウズの焦り。今までの自分の生活を描くことで、自分の存在そのものを叫んだ小説に思えたのだ。
読者ではなく、自分のために描いた快作。
そんな彼の想いに、強く共感した。
バロウズにシンパシーを感じるのは、きっとおれだけじゃない。
そんな気持ちを抱くおれ以外の誰かにこんな小説を届けたい。おれの自己満足のために。
この世界はきれいじゃないし、いい人間なんかである必要はない、と語りかける『裸のランチ』みたいな小説を書きたかったんだ。
だが、おれには一つ誤算があった。バロウズの「目の前のことを書く」という教えを大事にしたいのに、おれは今の自分の世界を直視することができなかった。
自分がなりたい作家は、医学部の日々でどんどん遠ざかっている。
親の目が気になり、開き直って作家を目指すこともできなければ。
そのくせ、真剣に医者を目指す周囲に対する気後れと劣等感で勉強にも集中できていない。
結果、自分の見ている世界とは関係ない、嘘をでっち上げてしまった。
説明したくもないが、おれがさっき郵便局に持っていったのは、こんな話だ。
主人公のある少女が飛び降り自殺をする。
その少女が見た、ビルから地上に到達するまでの歪んだ走馬灯――ありもしない、虚偽の記憶のコラージュ――を書いたものだった。洒落ていて小難しくて、グロテスクで悪夢的なものを目指しただけの真似事。あまりに浅いパロディに過ぎない。
この少女はどこの誰で、一体どこがおれの「感覚の目の前にある」ことなんだ?
今のおれには、手触りのない空想しか書くことができなかった。
クソ、とんだ恥をかいただけだ。
……いいんだ、小説家なんて非現実的。お遊び、最初からわかってた。
オッケー、そういうことで。
夏休みが明けたらまた大人しく、両親の期待通り医者様を目指せばいい。自分がそうさせたいだけなのに、おれのためだという言葉ですべてを正当化する、あいつらの。
傍から見れば、今挙げた悩みなど贅沢に映ってしまうだろうが。
偽善のホルマリン漬けにされ、芯までそれがしみ込んだおれの脳みそは、もう反抗の意思を失いつつあったのだ。
『小説は遊び? じゃあなんで、投稿なんてしたのさ? 私は強制してないよ』
肘井。
人の頭ん中で勝手に喋るな、質問するな。
なんでって?
んなこと言われたって、わかんねぇよ。
自分でも驚いている。
お前に言われてから、気付いたら郵便局にいたって感じなんだから。
『なんでなんでなんでなんでなんで?』
っせぇよ。
これだけは口が裂けても言えない。
……あー、なんだ。
人生で初めて、勉強以外で褒められて嬉しかったとか。
お前の言ったことが、なぜだかずっと頭から離れなかった、とかさ。
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