【第1章・根岸裕にはビタミンUが足りない】『午前三時』

「きみ、ビタミン足りてるかい?」

 郵便局の本局。

 深夜受付のじいさんが太い眉尻を下げ、おれに柔和な笑みを浮かべて尋ねた。急な問いかけにどう答えていいかわからず、面喰ってしまう。

 ビタミンね。確かに足りてないだろうな。

 今も寝不足も相まって、頭がガンガンしやがるよ。

「顔色悪いね。帰ったらすぐ寝ないとダメだよ」

 午前三時ってのは、なんとも不思議な時間だ。

 道行く他人にも、昼間にはない親近感を覚える。友情めいた連帯感と言ってもいい。きっとこのじいさんも、ふと、そんな気持ちに駆られたのだ。

 深夜の郵便だ、ちょっとしたドラマがあるかも、なんていう淡い好奇心もあるだろう。

 ま、あいにくこっちには期待されるようないきさつは全くナシ。

 じいさんは、おれが差しだした封筒を眩しそうに見つめる。

「小説の新人賞か。この時間はね、よく来るんだよ、こういうのに応募する子たちが。僕も若い頃は文学青年で、大江なんかにかぶれて作家を目指した頃もあってね」

「はぁ」

「歴史は夜つくられる、なんて言うじゃない。ついつい応援したくなってねぇ」

 偽善的な笑み。咄嗟にそう受け取ってしまったが、別に相手にする必要もない。

「そらどうも」

「いつもここに小説を書いて持ってくる女の子と顔見知りになって、連絡先を交換してねぇ。いやぁ、ハートが熱くなるよ」

 ジジイがナンパしたってことかよ、ずいぶんとお盛んだね。

 こちらが眉をひそめるのなんてお構いなしに、馴れ馴れしく「君みたいな若者がいかに世界を切り取るか、興味津々で」などと話しかけ続けてくる。

 事務的に処理をしてくれる方がマシだ。見当違いな歩み寄りをされればされるほど、こちらは醒める一方だ。

「君のはどんな小説なの?」

「……いや、そんな人に言うほどのもんでも」

「恥ずかしがってどうするの。世間に発表するんでしょ」

 正論だ。正しさってのはどこまでも不躾なもんだね。

「有害図書」おれは冗談めかして呟いた。「有害図書、目指してます。大人達がみんなして顔をしかめるような」

 言うと、じいさんは奥から誰かに急かされ、「いいね、そういう反骨精神バリバリの。ぼくもまだ気は若いんでね」なんてへらへらとして、手慣れた様子で封筒にハンコを押していく。

「特定記録郵便にしなくて大丈夫? そうすれば、向こうについたか後で確認できるよ」

 おれは首を横に振った。正直、それが届こうと届くまいと、どうでもいい。

 いくら世の中に本が溢れてるっつったって、おれみたいな思いつきで小説を書いたやつの作品が、そうそう目に留まるとは思えない。

 気の迷いだったんだ。

 三日まとも寝ずにムリヤリ話をまとめ、見直しすらロクにしてない。自分でも後半は妥協したってはっきりわかる。ちなみに賞の締め切りは今日いっぱい。

 本来、今ここに来なくても、一度寝て近所の郵便局に行けばいい。だけど、できた勢いで出さないと、出さずにお蔵入りさせてしまいそうだった。

 クソ、せっかくテストが終わって夏休みになったんだ、ダラダラ寝てればよかったな。


『根岸の小説、あたし好きだな』


 忌まわしい言葉が頭ん中に響く。

 肘井ちひろの鼻にかかった声。

 いつもマスクをしている、口裂け女みたいなやつだ。なのに、剃り落とされた眉の動きで、いたずらっぽく笑ってるのがはっきりわかる。

 女なのに、「ゆらゆら帝国」の坂本慎太郎みたいな見てくれなんだ。

『どうせなら賞に出してみたら? ジュンブンガクってかんじじゃん』

 大学の講義の暇つぶしに、落書き程度の散文を書いていた。肘井はそれを、一段高い後ろの席からずっと読んでいたらしい。

 こんなやつに褒められたくらいなんだってんだよ。

 きっとおれをからかってたんだ、そうにちげーねぇ。

 真に受けて応募したなんて言ったら、あいつはゼッタイ笑う。冗談の通じないおれを、あの眉でからかうんだ。

「大丈夫?」

 ぼやっと肘井のことを考えていると、心配そうにじいさんが窺ってきた。

「いや、ちょっと寝不足で……ボーっとして」

「ちゃんと寝なきゃダメだよ、先生」

「先生? おれが?」

 作家先生ってことかね、調子のいいことで。

「疲れた時は、ビタミンCさ」じいさんは言う。

 ビタミン?

 おれは失笑する。

 体にいいもんなんか必要ないし、じゅうぶん健康。あと一週間だって、起きてられそうな気分だ。ビタミンのことは、せいぜい腹が突き出てから考えりゃいいさ。

 毎日牛丼→豚丼→丼に飽きたら背油ギトギトラーメン→最悪「ポテチ飯」で、ぜんぜん体がもっちまう。

 おれにとって、ビタミンなんてもんは偽善的な笑顔と同じなのだ。いいものだと信じ込んで世の中の言いなりになっていると、痛い目に遭う。

 うちの親は、まさに「ビタミン」を強要するタイプだった。

 大学に入り、独り暮らしを始めてからも、栄養を気にして野菜ジュースだの胚芽米だの全粒粉のなんたらとか……食欲のわかないもんばっか送ってくる。

 一度も手をつけたことがないが。

 飯だけじゃない。おれを医者にしたいという両親の押し付けがましい考えは、こっちからすれば全てが見当違いだった。それはおれが幼い頃からずっと。

 勉強をしなさい。

 人に優しい立派な人間になりなさい。

 ビタミンを摂りなさい。

 世間でいいと思われているものを、漏れなくおれに押し付けてくるのだ。

 ……いや。こんなこと、今思い出してどうする。忘れろ。

 おれはじいさんの方を振りかえって、たぶん、今日初めて笑って見せてやった。

「ビタミンなんてクソ喰らえッすよ」

 そうさ。ビタミンなんか、いらない。

「そうか。若いね」

「……」

 じいさんが呑気に、微笑ましいとばかりにこれまた偽善的に笑いかけるもんだから、郵便局を出た後もむしゃくしゃしていた。

 あー。あっちい。

 七月はもう終わろうとしている。

 厚い雲がかかった東京の夏は、夜だって肺が重くなる湿気を孕んでいる。

 遅れた梅雨の名残りが空を覆っているのだ。

 タバコに火をつける。頭の奥が鈍くなった。昨日から腹が減ったのをタバコで誤魔化していたけど、そろそろ腹が限界だ。

 国道沿いまで出て、小汚いラーメン屋に入る。

 昼間は行列が絶えない人気店だけど、この時間はさすがにまばらだ。頭にタオルを巻いた、ガテン系のあんちゃんが二人いるだけ。

 テーブル上の調味料の脇には、女性用の髪留めゴム。おれは長い髪を後ろで括る。

 こんな小さな優しさに涙が溢れそうになるのも、午前三時さ。

 ニンニクマシマシアブラマシマシ、いつもの呪文で注文し、ハイカロリーで体に優しくない、ビタミンなんかどこ探したってありゃしないラーメンを、モヤシをかき分けて啜る。(「実際はラーメンにだってビタミンが含まれてる」なんて野暮はナシにしてくれ)

 ニンニクのたまんねぇ臭いが、脳味噌を刺激してくれる。おれの吐く息を気にするやつなんて、誰もいやしない。

 腹が膨れたのに、気分がどうも落ち着かない。気を鎮めるために、飲めもしないビールを三杯も飲んじまう。

 店を出る頃にはフラフラだった。

 チャリにまたがるが、バランスが取れない。派手に横転して、地べたに仰向けになる。

 息を切らして這いつくばり、歩道橋の階段にそのまま仰向けに寝転がる。

 車の振動が後頭部に響く。コンクリもそう寝心地は悪くない。

 小雨が降ってきやがった。もうどうだっていい。

 タン、タン、と階段を下りてくる靴音がする。足音が頭にガンガン来た。

 デカイ声で電話をしている、背の低い、いかにもという女子高生だ。

 会話はよく聞き取れないが、「ニコチンニコチン」連発しているところを見ると、高校生の風紀はだいぶ乱れてやんな。

 彼女はこちらに気付くなり、引きかえしていった。

 ホームレスじゃんヤバいヤバいつーか死んでるかもヤバッ、と、電話口に向かってヤバいと連呼していた。

 はは、たしかにヤバい。

 おれは伸ばしっぱなしの、背中まである髪の毛を振りみだす。

 ヒゲはもう今月に入って一度も剃ってない。タイダイ染めのサイケなTシャツは古着屋で八〇〇円、時代遅れのフレアデニムと、新宿の露店で買ったちゃちな丸メガネ。

 で、年中ビーサン。右は黄色、左はドピンクの左右色違い。

 イマドキの女子高生が、ヒッピーみたいですね、なんて言ってくれるはずもなく。なるほど、安いカップ酒でベロベロに酔ったホームレスと思うのがスジだ。

 こんなおれでも、医者の卵だってことを振りかざしたら、多少見る目が変わるのかね?

 ……いや、こんな発想自体みじめだね、どうしようもなく。

 二度と会わないだろう女子高生に嫌われるだけでも、意外と傷つくもんだから、おれって意外と繊細なんだ。


『根岸の小説、好きだな。シビれちゃうな』


 クソ。頭に隙間ができると、肘井の言葉が滑り込んでくる。(しかもなんか美化されてる)

 もはや呪いだ。

 我ながらなにやってんだろうな、あんなやつの言葉に振り回されてよ。

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