17:(好きなんだなぁ)



 ――翌朝。寒くて寒くて毛布にくるまったせいか、はたまた今日の天気がいいのか、やけに体がぽかぽかと温かく気持ちのよい朝を迎えることができた。

 ぐぅ、と伸びをして、早速脱出経路になりえる穴を観察する。剥き出しの土はやはり冷たく、固い。

 とりあえず固い土を掘り起こせるような“何か”がないか部屋を見渡した。がしかし、ここにあるのは本ばかり。

 私はおもむろに自分の過去の日記を手に取る。硬いカバーの表紙に、厚い背表紙。十一年間の積み重ねである日記はそれなりの数ここにある。

 ――この硬い背表紙で、ゴリゴリと削れないだろうか。

 なんて考えていたら、小さな体を穴に滑り込ませて弟――ニコラが朝食を持ってきてくれた。



「姉上、おはよう。おそめの朝食、持ってきた」


「おはよう! ありがとう!」



 パンと水。今の私にとって貴重な食糧だ。

 ゆっくり噛んで味わって、ニコラとの会話も楽しんで。食べ終わるなり、私は一冊の日記を手に立ちあがった。そして穴の前でしゃがみ込む。



「よし、お腹も満たされたしやったるぞ!」



 背表紙で土をガリガリ削っていく。手ごたえはあまりないが――時折ほんの少しだけ、土が削れる瞬間があった。



「姉上、さすがに無理じゃない……?」



 私の手元を覗き込みながらニコラは言う。

 彼の冷静な言葉は私の胸に無残にも突き刺さるが、塵も積もればなんとやら。一日中やっていれば、少しずつでも穴は広がっていくはずだ――と思いたい。



「諦めてたら何もできない! もしかしたら行けるかもしれない!」


「姉上細いけど、ドレスがボリューミーだからよごれそう」



 ニコラの言葉にはっと地面についてしまっていたドレスの裾を見る。もう既に土で汚れていた。

 あぁ、このドレス、きっと高いのに。



「うっ、それを言われるとキツイ。でもリシャールくんに申し訳ないので出来ることは頑張ります」



 無駄だとしても、足掻いたという痕跡は残しておきたい。

 リシャールくんに対しても、そして奥様に対しても。もう私は大人しく閉じ込められている小娘ではないのだ。

 奥様に連れられて舞踏会に行き、リシャールくんに拾ってもらってこの屋敷から一度は出たが、自分の足で一度戻ってきた以上、今度こそ自分の足でこの屋敷を出たい。それが本当の意味での決別になる気がして。

 必死に背表紙の角で土を削る。あっという間に一冊駄目になり、二冊目を手に取った。

 ニコラはそんな私を半ば呆れて見ていたようで、作業中にふと、背後から問いかけてきた。



「……姉上、はくしゃくってどんな人なの?」


「伯爵って、リシャールくん? んー? 素敵な人だよ」



 どうやらニコラは自分の義兄に興味を示しているようだ。

 手は動かしつつ、問いかけに素直に答える。



「やさしい?」


「うん、優しい」


「お金持ってるよね」


「……まぁ、そうだね」



 お金を持っているから今回のゴタゴタが起きたのだ。

 貴族も色々と大変だなぁ、と今世で身をもって知った。家族関係、他人からの憎悪、金銭関係、領地関係、社交界関係、エトセトラ、エトセトラ……。

 前世、「何もしたくないから令嬢になりたーい!」などと宣っていた平凡極まりない少女よ。もしかするとあなたの方がよっぽど平和で幸せな人生を送れていたかもしれないぞ、なんて今更思う。



(誰もが憧れるような立場の人にも、きっとその人にしか分からない苦労は沢山ある……)



 羨むのは悪いことじゃない。けれど勝手にその人のことを想像して、「楽をしている」などと決めつけるのはきっととても愚かなことだ。

 今更過ぎる前世の反省をしつつ、ゴリゴリと土を削っていたら、



「姉上ははくしゃくのこと、好き?」



 とんでもない質問が弟の口から発せられた。

 思わず私は手を止めて振り返る。ニコラの瞳はこちらをじっと見つめていた。

 無垢なその瞳に、なんだか適当に誤魔化すことは憚られて。



「うん、まぁ――……好きかなぁ」



 気づけばそう答えていた。

 リシャールくんは素敵な人だ。優しい。複雑な過去を持ちつつも必死に今、伯爵家当主として立派に生きている。そんな彼を私は好ましく思っており、何もできないけれど、彼が許してくれるのなら、傍に置いて欲しいと思っている。

 ――うん、そうだ。好きか好きでないかで言うと、私は間違いなくリシャールくんが好きだ。

 そう、別におかしなことじゃない。妻が夫に対して好意を持つのはいたって普通のことだろう。

 そうであるはずなのに――リシャールくんに対して「好き」と言ったことが初めてで、私の頬は一気に赤くなった。

 私は慌てて穴に向き直る。赤くなった頬をニコラに見られないよう、土にぐっと顔を近づけて再び口を開いた。



「リシャールくんはどう思ってるのかなんて分からないけどね! あはは!」



 先ほど自分が発した「好き」に被せるようにして言うと、ニコラはそれ以上何も聞いてこなかった。

 嫌われてはいないと思う。抱きしめてくれるぐらいには、好印象を持ってくれているはずだ――と思いたい。

 リシャールくんは私をどう思っているのだろう。

 何も知らない箱入り娘。トラブルに巻き込まれる年下令嬢。十一歳も離れているのだから、もしかすると妹みたいに思われてたり――



(あー、はっず。弟相手に何恋バナしてるの、私)



 ペチペチと自分の頬を叩いて気合を入れなおす。そして再び土を削る作業に全力を注いだ。

 ――朝食が遅かったこともあり、あっという間にお昼の時間だ。ニコラは一度屋敷へと戻り、その後また遅めの昼食を持ってきてくれた。

 昼食を食べる間は流石に穴掘り作業は休憩だ。

 あまりお行儀がよくないが、パンを食べながら過去の自分の日記を久しぶりに読んだ。日記には主に十一年間の恨みつらみが綴られている。



「うわぁ、ここら辺の日記、特に怨念籠ってるな……」



 雨が降っていた日の日記は特にひどい。じめっぽいこの離れは湿気がひどく、髪はうねるわ毛布はかびるわ生乾きの匂いがするわ頭が痛いわで四重苦だったのだ。

 自分でも引いてしまうほど怨念のこもった文章に苦笑していたら、横からニコラが別の日記を差し出してきた。



「ぼくはここら辺の日記が好き」



 ニコラが手にしていた日記には、今読んでたものとは打って変わって能天気な文章が綴られていた。“鳥さん”との交流日記だ。

 ぐちぐち恨みつらみを書くことに飽きた私は、心機一転、幸せを書き留めようと考えたのだ。



「あー、このときはできるだけ頭空っぽにして幸せそうな日記書こうって試してたときのやつ。頭わるそー」



 ケラケラと笑う。過去の自分を笑えることが、今幸せなことの証のように思えた。

 この沢山の日記たちには、私がここから脱出するための礎となってもらおう。日記のおかげであの穴が広がり、無事脱出できたとしたら、過去の自分も報われるというものだ。

 一通りニコラと笑い合い、数秒の沈黙が落ちたときだった。弟はしゅん、と頭を垂れて呟いた。



「ごめん、かぎ探してるんだけど、見つからなくて」



 鍵とは離れの鍵のことだろう。ニコラはニコラなりに私を助けようと動いてくれていたのだ。

 食事を届けてくれていただけじゃなく、そんなことまで。弟の健気な姿にじんと来てしまう。

 あれだけ泣き喚いたのに、あれだけ悩んだのに、会話をしてみれば驚くほどあっさりと、私は弟の存在を受け入れることができた。この特殊な状況下で唯一の味方という状況も大きいだろうが、それでも憎悪を向けている両親と全く切り離して、弟のことを好ましく思えている。

 実際に会ってみて、本人から話をきいてようやく、私はニコラが両親とは“別の人間”なのだということを実感できたのかもしれない。父や義母の口から話を聞いただけでは当人たちの影が付いて回るが、一対一で会話をすれば、他人が付け入る隙はない。

 ニコラをニコラとして、誰とも結びつけずに一個人として見ることができる。



「ううん、ありがとう。お母様にばれてない? 大丈夫?」



 私のために動いてくれるのは嬉しいが、万が一ばれてしまえばニコラはひどく叱られるだろう。それが心配だった。



「ばれてもべつに平気」



 しかし当のニコラはなんてない顔でそうのたまう。

 頼もしいような、より心配になったような。



「平気ではなくない……? でも君のおかげで退屈してない、ありがとう」


「ぼくも楽しい」


「それは光栄です」



 ふふ、と笑う。ニコラも目を細めて、十歳にしては落ち着いた笑みを見せてくれる。

 なんだか普通の姉弟みたいだ、と思って――それでいいんだ、と考え直した。異母兄弟がギクシャクしなければならない理由なんてどこにもない。リシャールくんとシャルロットさんのように、少しずつ歩み寄っていければいい。

 もはや私はニコラを唯一の家族のように思い始めていた。姉上と呼んでくれる弟を、愛おしく思い始めていた。



「ぼくも姉上みたいに、最近書いてるんだ」



 ニコラはそんなことを言う。

 驚きと共に心の内から湧いてきたのは喜びだった。姉上みたいに、という言葉が嬉しい。



「日記を? お話を?」


「どっちも」


「えー! 読みたい!」


「……それは、いやだ」



 少し恥ずかしそうに顔を背けるニコラ。

 確かに人にこっそり書いている日記や空想小説を読まれるのは恥ずかしいかもしれない。しかしニコラはこの離れに忍び込んで、私の日記を読んでいたのだ。それならおあいこということで、私にも彼の書きものを読む資格があるのではないか――なんて。



「私のは読んでるのに、不公平じゃない?」


「……それじゃあ、今度」


「うん、約束ね」



 小指を差し出す。そうすればニコラは目を丸くして、それから私の小指に自分の細く小さな小指を絡ませた。

 ――約束を交わしたところで、私は再び作業を再開する。今回はニコラが夕食のために屋敷に戻りたいと言い出すそのときまで、休みなく一心不乱に土を削り続けた。

 気を付けてはいるもののドレスは泥だらけ。顔も手も、そして多くの日記もボロボロ。それなのになぜだろう、どこか清々しい気持ちだった。



「ねぇねぇ、ちょっとは広がったと思わない?」



 屋敷へ戻るために穴に近づくニコラに問いかける。すると彼の目線は穴ではなく、その横に積み上げられた無残な姿の日記たちに向けられた。



「日記がボロボロ……」


「あはは、いいのいいの。もういらないし」



 泥まみれで背表紙が壊れ、中の紙が飛び出てしまっている。改めてみると流石にかわいそうに思えてきた。

 ニコラはじっと日記に向けていた視線を私にうつし、僅かに首を傾げた。



「待ってたら、はくしゃくが助けてくれるんじゃないの?」



 彼の疑問に「うーん」と苦笑する。

 それはきっとそうだ。ティルが屋敷から逃げることができたのが昨日の夕方頃。いくらリシャールくんが忙しい身であろうと、明日明後日あたりには彼の耳に届くだろう。

 あとは待つだけだ。きっとリシャールくんは来てくれる。そうしたらドレスを汚すこともなく、離れの扉から堂々と出ていくことができるだろう。

 ――けれど、それではリシャールくんに顔向けできない。自分で言い出したことなのに、自分の家族のことなのに、結局彼の手を借りて解決しましたなんて、あまりにお粗末すぎる。



「それは多分そうなんだけど、助けられて当たり前なんて考えはしたくないし、この離れから、今度は自分の足で出たいから」



 そう、私は病気の弟を助けるか、見捨てるか、それをしっかり決めるためにこの屋敷に帰ってきたのだ。

 ――結局弟の病気は嘘で、なんだか当初の目的を見失ってしまった感があるけれど、だからこそ、しっかりと自分の口でこの家と決別したい。さようならと、文字でしか書けなかった別れの言葉を、今度こそこの口から突きつけてやりたい。

 そして私は自分の足でデュジャルダン伯爵家に“帰る”のだ。ここでリシャールくんの手を借りてしまっては、私は一生彼に対して恩と負い目を感じ続けることになる。

 それではきっと、私は彼の傍に立ち続けることはできない。これから先も甘え助けてもらうような、愚かな妻にはなりたくない。



「夫婦なんだから、頼ってばっかりじゃきっと長続きしない」


「姉上は、はくしゃくとずっとふうふでいたいの?」



 ずっと夫婦でいたいのか。

 真っすぐな問いかけに、私は動きを止めた。しかしすぐに頷いた。

 そうだ、これからもリシャールくんと夫婦でいたいから、家族でいたいから、今後のことを考えている。長続きしない、なんて、長続きさせたい人間でなければ言わない。



「……そうだね。うん。そのためにも頑張るぞー!」



 気合を入れる。ニコラがふ、と笑った。

 ――あぁ、と思う。自覚してしまった。気づいてしまった。

 私はリシャールくんと長く一緒にいたいと思っているのだ。

 それは傍に置いてほしいなんて慎ましい願いとは違う。ただの私の我儘だ。私はリシャールくんとのこの関係を“長続き”させたいのだ。

 私は、リシャールくんのことを――



(好きなんだなぁ)



 その答えはすとん、と胸に落ちて。恥ずかしいというよりも、自分で自分に納得した。



(あぁ、どうしよう。伝えていいのかな。伝えない方がいいのかな)



 夫婦なのだから、好きと言ってもいいはずだ、と思う。

 しかし私たちは利害が一致した故に結ばれた関係だ。そこに恋愛感情を今更持ち込んで、リシャールくんは鬱陶しく思わないだろうか、とも思う。

 分からない。分かるのはただ一つ、自分はリシャールくんのことを、恋愛的な意味で“好き”だということ。



「……ここを出てから考えよう」



 ――今は悩んでいる暇はない。とにかくこの離れから自分の足で脱出して、自分の足でリシャールくんの許に行くんだ。帰るんだ。

 私はその夜、寝る間も惜しんで穴掘り作業に没頭した。


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