14:「一度、弟に会ってみようかな」



 リシャールくんの腕の中で思う存分泣いてすっきりした後、先ほどの父との会話を包み隠さず彼に伝えた。泣いたばかりの頭では綺麗な嘘で誤魔化すことなんてできそうになかったし、隠して後から何かあった方がリシャールくんに余計迷惑をかけそうだと思ったからだ。

 私の手を握って、決して急かすことなく話を聞いてくれたリシャールくんは、話が終わるなりほぅ、と息を吐いた。



「そうでしたか。そんなことが……」


「ごめんね。シャルロットさんのことが解決したばっかりなのに……」


「いいえ、あのときはジゼルさんに助けて頂きましたから、今回は私が」



 手をぎゅっと握られる。正直助けた覚えはないが、そう言ってくれるのは心強かった。

 ――しかし、彼に助けを求めようにも自分の気持ちがまだ定まっていない。

 私は弟を助けたいのか、アルヴィエ家と縁を切りたいのか。それが決まらなければリシャールくんに助けを求めることもできない。



「でも……私、どうしたらいいのか、どうしたいのか、分からなくて」



 素直な心情を吐露する。



「正直父や義母のことは許せないし、今後も許すつもりはないけど……弟のことが気がかりなの」


「このまま見捨てるというのも、寝覚めが悪いですしね」



 リシャールくんの言葉に緩慢な動きで頷く。

 どちらにせよ、私は腹を決めなければならない。救う決意か、見捨てる決意か。



「そう。正直弟として愛せるかと言えば微妙だけど、聞いてしまった以上は……でも多分、治療費もそこまで安くないと思うし、そうなるとリシャールくんに迷惑が……」



 ちらりとリシャールくんを見る。すると彼は笑って首を振った。



「私のことは気にしないでください。こう見えても貯蓄はありますので、はした金ですよ」


「はした金って……」



 あまりにさらっと「はした金」などと宣うものだから、呆気に取られてしまう。しかしリシャールくんがこんな場面で嘘をつくとも思えないので、私が思っている以上にデュジャルダン伯爵家は貯蓄があるのかもしれない。

 きっとリシャールくんは私が弟を助けたいと言えば治療費を出してくれるだろう。しかし一度援助してしまえば、そのままずるずると何度も金をせびられるような気がしてならない。

 やはりここは気を強く持って断るべきだろうか――と思い始めて、ふと脳裏にシャルロットさんの顔が浮かんだ。リシャールくんは今でこそ彼女のことを大切に思っているようだったが、その存在を知ったとき、どう思ったのだろう。

 彼にとって、あまり聞かれたくないことであるのは分かっていた。だから恐る恐る問いかける。



「リシャールくん、あの、シャルロットさんのこと、聞いてもいい?」


「えぇ」



 淀みなく頷くリシャールくん。

 私は彼を上目遣いに見た。



「シャルロットさんのことを初めて知ったとき……どう思った?」


「憎みました。心の底から」



 帰ってきた答えは予想していた答えより重く、私は思わず言葉を失ってしまう。

 しかしそう言うリシャールくんの声音はとても優しくて、内容とのギャップに眩暈がしそうだ。



「彼女とその母君のせいで全てが崩れ去ったのだと思ってましたよ。でも今思えば、何かを憎んでその憎しみを力にしなければ立っていられなかっただけです」



 憎しみが自分の動力になっていたと、彼は言う。寂しそうな横顔に思わず繋いだままだったリシャールくんの手を私の方から握った。

 するとリシャールくんは嬉しそうに笑う。そして続けた。



「父が死んで、母が死んで、シャルロットの母君が亡くなって、初めてシャルロットと会いました。そうしたら……あまりいい言葉ではありませんが、哀れみを覚えました」


「哀れみ?」



 首を傾げる。そうすればリシャールくんは小さく頷いた。

 目を眇めてどこか遠くを、虚空をぼんやりと眺める彼の目には、初めて出会ったときのシャルロットさんの姿が映っているのだろうか。



「彼女も父によって人生をめちゃくちゃにされた人間なんだと。そう思ったら、シャルロットを恨むのは筋違いだと思うようになった」


「筋違い……」



 リシャールくんの言う通り、親に憎しみを抱いていたからといって、その子まで憎しむのは筋違いだ。子はこちらに直接何をしてきた訳でもないのだから。実際私がその立場だったら、憤っていたに違いない。

 親の責任を子が負う必要はないはず。シャルロットさんに似たようなことを言った覚えがある。

 自分が過去に言った言葉と矛盾している、そう分かっていて――それでも制御しきれないというのが感情という厄介なやつだ。父と義母にされたことを水に流し、顔も知らぬ弟のために大金を夫に出して欲しいと頼むことに、どうしても躊躇いを覚えてしまう。



「あくまでこれは私の場合の話です。ジゼルさんが弟君をどう思うかはご自身の心に従うべきですし、私はそれを受け入れます」



 リシャールくんは全ての判断を私に任せてくれたようだった。

 彼を見る。彼は笑みを絶やさず、私を見つめ続けていた。



「シャルロットちゃんのこと、好き?」


「そうですね。複雑な思いは依然燻ったまま、きっと墓場まで持っていくのでしょうが……妹として、唯一血の繋がった肉親として、大事に思っていますよ」


「そっか……」



 彼の話を聞いて、弟に会ってみたい、と思った。リシャールくんのように自分の気持ちをうまく整理できるかは分からないが、それでも会えばこのモヤモヤとした気持ちにケリをつけられるかもしれない。

 私はぽつり、と呟いた。



「一度、弟に会ってみようかな」



 リシャールくんは何も言わない。彼は自分の言葉が私の判断を左右しないよう、黙って聞いているようだった。

 どこまでも私の意思を尊重してくれる旦那様に、感謝の気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいだ。



「まだ一度も会ったことないの。名前も知らない。だから弟がどんな存在か分からない。でも、この不確かな弟という存在に、名前がついたなら……形がついたなら……」


「えぇ。ジゼルさんがそれを望むのでしたら」



 心地よいリシャールくんの声に、ようやく体から力が抜けた。ぐるぐる悩んでは落ちていくばかりだ。目的が明確になると動きやすい。

 そこであ、と思い出す。先ほどあんな形で父を追い払ってしまったが、弟に会わせてもらえるだろうか。



「でもさっき、父を突っぱねちゃった」


「大丈夫、また手紙でもなんでも来ますよ。少し待ってみましょう」



 リシャールくんはアルヴィエ家から再び連絡がくるのを確信しているような口調だった。なぜそうも断言できるのだろう、と不思議に思いつつ、彼の言う通り数日待っていると――私宛に、今度は義母から手紙が送られてきたのだ。



「本当に来た……」



 手紙を開封しつつ思わず呟く。実際私もこのまま彼らが引きさがるとは思えなかったが、父や義母と交流のないはずの彼がなぜあそこまで確信していたのだろう。

 しかし考えても分かることではない。「もう一度話を聞いて欲しい」と表向きは下に出てきた手紙に、「弟に会うために一度家に帰ります」と返信を書いた。そうすれば帰ってきたのは「お待ちしています」という手紙。

 私はティルを連れて、一度実家へと帰ることになった。

 その報告をするために、執務室で忙しくしているリシャールくんの許を訪れる。



「リシャールくん、私、実家に帰るね」


「……その言葉はドキッとしますね」



 リシャールくんは苦笑して言う。確かに実家に帰ります、という言葉は些か適していなかったか。

 謝る私に、リシャールくんは椅子から立ちあがってすぐ傍までやって来た。



「私もご一緒できたらよかったのですが……申し訳ございません」



 心底申し訳ないといった表情で謝ってくる彼に苦笑する。

 最初はリシャールくんも同席してくれると言っていたのだが、やはり仕事が忙しく難しくなってしまったのだ。そもそも弟に会いに行くだけなのだから忙しい彼に無理を言ってついてきてもらうのは憚られたし、できるだけリシャールくんと父・義母を会わせたくはない。

 護衛をつけるか、と言う話も出たが、私から断った。護衛を連れていけば義母たちも身構えるだろうと考えてのことだ。

 その代わりといってはなんだが、馬車の行者は少々腕に覚えのある者を雇ってくれたらしい。

 それに今回もティルがついてきてくれる。きっと大丈夫だ。



「大丈夫。ただ弟に会いに行くだけだし」


「弟君には会わせてくださると?」


「それが、何も書いてないんだよね。返事はただお待ちしてますってだけで」



 ――そう、気になることと言えば、「弟に会わせて欲しい」と手紙を送ったのに、その話題には全く触れず「お待ちしています」と返事が帰ってきた点だ。病に伏せっているから会うのは難しいのだろうか。しかしそれならそうと書きそうなものだが。

 不可解な点はあるが、私は遅かれ早かれ一度実家に帰るべきだったのだろう、と今は思う。手紙一つであの家と決別したつもりになっていたが、きちんと自分の口で告げなくては。きっといつまでも過去の仄暗い思い出が影のように付きまとってくる。



「ジゼルさん、これを。お守りです」



 リシャールくんは内ポケットからネックレスを取り出した。真っ赤な宝石が埋め込まれた金のネックレスだった。

 私が断るよりも先に、彼は流れるような動作で私の首に腕を回しネックレスをつける。胸元に輝く赤の宝石はリシャールくんの瞳を思わせて、それだけで心強かった。



「あ、ありがとう」



 しかしこうも美しい宝石が埋め込まれたネックレスとなると、それなりにお値段がするのではないだろうか。

 リシャールくんは定期的に新しいドレスを買ってくれているようだし――毎朝それなりの確立でティルが新しいドレスを着替えとして持ってくる――私は彼に散財させてしまっているような気がする。今回のネックレスのような宝飾品だってそうだ。ティルがさも当然といった顔で持ってくるので、買ってもらっているという自覚があまりないのが更に危険だ。

 改めて散々迷惑をかけているのではないかと恐ろしくなって、それだけに、今回の件もなるべく早く結論を出そうと気合を入れる。弟の顔を見て、そのとき胸底から湧いてきた感情と向き合って――きちんと自分の答えを出そう。



「お気をつけて」


「うん、いってきます」



 ぎゅ、と抱きしめられる。最近はこういったスキンシップも増えてきて、恥ずかしいやら嬉しいやら、安心するやら。

 リシャールくんも一緒に外に出て、馬車に乗る私たちを見送ってくれた。彼は私たちが乗った馬車が遠く離れても、ずっと門の前に立ってくれていたようだった。



(……久しぶりの、実家だ)



 私が閉じ込められていた離れはどうなっているだろう。もう中のものは処分しつくされてしまっただろうか。私の怨念がこもった日記も、現実逃避するために書いていた空想話も。



「奥様、大丈夫ですか?」



 隣に座るティルがそっと聞いてくる。私は彼女に微笑みかけた。

 大丈夫、笑える。まだ余裕があることの証だ。



「大丈夫。ティル、私のせいで何か嫌なことを言われたらごめんね」



 私の幸せを心の底から憎んでいた義母が、ティルに何かしないか、それが心配だった。

 ティルはいいえ、と首を振る。そして内緒話をするように私の耳元で笑い交じりに囁いた。



「母という存在に叱られるのは慣れています。私の母も祖母も、それはもう恐ろしいひとですから」



 きっと私に気を遣わせまいとしての冗談だったのだろう。しかし、現メイド長であるティルのお母様、そして前メイド長であったおばあ様は厳格な人だ。ティルの振る舞いを見ても、さぞや厳しく躾けられたのだろうと分かる。

 ティルなら義母にいびられたとしても何てことない顔でかわせそうだ。

 思わず私は笑う。そうすればティルはほっとしたように優しい笑みで私を見た。



(ティルもいてくれる。リシャールくんからもらったお守りもある。きっと、大丈夫)



 ぎゅう、とリシャールくんが先ほど贈ってくれたネックレスを握りしめる。それだけで勇気が湧いてくるような気がした。

 ――休憩を挟み、途中の街で一晩過ごし、やがて馬車は動きを止める。窓の外に広がっていたのは、見覚えがある屋敷だった。

 アルヴィエ男爵家。

 自分が生まれた家に、ジゼル・デュジャルダンとして帰ってきたのだ。


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