13:「私は弟と会ったことなんて一度もない!」
父であるアルヴィエ男爵が突然伯爵家を訪ねてきたという。
「ジゼルさん、どうしますか。会わずに帰っていただくこともできますが」
リシャールくんは心配するように私の顔を覗き込んだ。
――彼には実家のことを薄ぼんやりとしか伝えていない。離れに監禁されていたこともはっきりと言ったことはない。しかし結婚の際に身辺調査でもしたのか、おそらく私が実家でされていたことを知っている。そうでなければ「会わずに帰ってもらう」という選択肢なんて提示してこないはずだ。
頷きかけて――首を振った。いつかは向き合わなければならないことだ。いつまでも逃げていてはリシャールくんにも迷惑がかかる。
「いいえ、会います。いつかは会って話さないとと思っていたから」
ぎゅ、とリシャールくんの眉根に皺が寄った。
「私も同席しますか?」
「……とりあえずは、私だけで」
「しかし――」
「大丈夫。ティルもいてくれるし」
リシャールくんが同席してくれれば心強いだろう。しかしお父様がわざわざここまで来た理由が気がかりなのだ。結婚の報告にすら返事を寄こさなかった彼が、なぜ今になって伯爵家を訪れたのか――
お父様はきっと、私ではなくデュジャルダン伯爵家に用がある。であるならば、いきなり当主のリシャールくんがお父様と対面するのは避けた方がいい気がした。
リシャールくんは明らかに納得していない表情を浮かべていたが、強引についてくるつもりはないのだろう。あくまで私の意思を尊重してくれるようだった。
「……分かりました。何かあれば呼んでください。すぐに行きますから」
その言葉にすっと心が軽くなる。
大丈夫。彼が許してくれる限り、私の居場所はこの家だ。
そう、ただ父と久しぶりに会うだけ。思えば二人きりで会話するなんて初めてかもしれない。家族同士の交友。それだけだ。
私とティルはカールハンイツの案内で大広間の前へと案内される。扉の前で大きく深呼吸を一回。そして――開けた。
(……あぁ)
扉が開いた音に反応したのか、ソファに座っていた一人の男が立ってこちらを振り返った。その男は間違いなく、私の実父ヤニク・アルヴィエ男爵だった。
私は父の許にゆっくりと近づく。落ち着きのない父に対し、私の心は凪いでいた。
「お久しぶりです、お父様」
「ジ、ジゼル。突然すまない」
座るように勧める。そうすればお父様はゆっくりとソファに腰かけた。
「いいえ、こちらこそ。手紙一つで家を出てすみませんでした」
「いや。手紙をもらったときは驚いたが……本当に伯爵家に嫁いだんだな」
もしかするとお父様は私の手紙が嘘ではないかと疑っていたのかもしれない。しかしそれも当然の疑いと言えた。十一年間離れに閉じ込めていた娘が、舞踏会のその夜に、名家に嫁いだと手紙で知らされても簡単には信じられないだろう。
初めて見るお父様のぎこちない表情がなんだかおかしく思えてしまって、気づけば微笑を浮かべていた。
「はい。良くして頂いています」
「それは……安心した」
それは本心なのだろうか。
ぎこちない会話に、居心地の悪さを感じてしまう。こうして会話するのは十一年ぶりだし、一対一での会話はほぼ初めてだ。血が繋がっているだけの他人のような距離感だった。
――実際、私は頭でこそ目の前の彼を“父親”と認識しているが、彼に娘らしい感情を向けたことは一度もない。今この瞬間もだ。
「どうだ、その、毎日楽しいか」
「はい」
「この立派な屋敷で毎日何をしているんだ」
「そうですね……本を読んでいます」
「そうか、はは、羨ましい限りだな」
取り留めのない会話。お父様の目的が一向に見えない。
次第に私はもどかしさを感じ始め、
「そちらのメイドは――」
「お父様、今日はどうしてこちらに?」
彼の言葉を遮り、切りこんだ。
お父様は問いかけられて一度ぐっと押し黙る。しかしすぐに穏やかだった表情を一変させ、険しい表情を浮かべた。
「娘の顔を父が見に来てはいけないのか」
なるほど普通の親子関係であれば何も悪いことではないだろう。しかし私たちは“普通”とは違うのだ。
一変させた表情も、硬くなった声音も、痛いところを突かれた結果にしか思えなかった。
「でしたら事前にご連絡を頂ければ、お迎えする準備も出来ましたのに」
もっともらしいことを言い連ねる。実際アポイントなしで訪れて、万が一私が外出していたらどうするつもりだったのだろう。それにいくら娘の実家といえど、自分よりも身分が上である伯爵家――しかも当主と一度も会ったことがない――に突然押し掛けるなんて、無礼ではないだろうか。
だからこそ思う。そんな段取りを踏んでいる暇がないほど、お父様は――アルヴィエ男爵家は何か緊急の問題を抱えているのではないか、と。
「何か緊急の用があったのではありませんか?」
再び問いを重ねる。
お父様は深く俯いて、その体勢のままぼそりと独り言のように答えた。
「アルヴィエ家に資金を援助してくれないか」
――資金の援助。そうではないかと思っていたからこそ、驚きはしなかった。
アルヴィエ男爵家は確かに貴族ではあるが、決して裕福な家ではない。領地は小さな街一つ。街の人々から税を取り立てて何とか小ぶりの屋敷を構えられている。
しかし資金の援助が必要なほど、ひっ迫している訳でもなかったはずだ。
「息子が病を患い、その治療費に莫大な金がいるんだ。とてもうちでは用意できない」
バッと顔を上げたお父様は先ほどとは打って変わって大きな声で言った。
彼が言う息子とは本妻との息子――つまり跡継ぎのことだ。私の異母兄弟になる。――私は一度も会ったことがないが。
「だから夫に治療費を出して欲しいと?」
「……あぁ、そうだ」
ぐっと下唇を噛み締めたお父様は、ひどく悔し気な表情に見えて。
――その表情を見て、ふつふつと腹の底から湧いてきたのは怒りだった。
捨てずに家に置いてくれたことに感謝はしている。十一年間、一人の人間を育てるのはそれなりにお金がいるだろう。けれど離れに閉じ込められていた間、お父様は一度も私に会いにこなかった。本を届けるだけ届けて、手紙の一つも寄こさなかった。ずっと見て見ぬ振りをし続けた。
私が結婚したときも、祝いの手紙一つ送ってこない。全くの無関心だ。きっと厄介払いできたと安心していたに違いない。
それなのに。
(お金だけこうしてせびりにくるなんて!)
資金を援助してくれと、妻の嫁ぎ先に突然訪ねてきた。あまりにも恥知らずだ。
自分で切り捨てておいて、いざ自分たちが窮地に陥るとこちらに縋るなんて。何を今更。どんな気持ちでお父様はここまでやって来たのだろう。
こんな人たちのことなんて、リシャールくんに相談できるはずもない。
「息子の命がかかっているんだ、頼む――」
「私からリシャールくんにそんなことお願いできません!」
ぴしゃりと言い放つ。
お父様は断られたことが予想外だったのか、目を丸くしてこちらを見た。そして再び頭を下げる。
「お前以外に頼れる相手がいないんだ、頼む!」
「他を当たってください」
これ以上話すこともない、と私は席を立った。そうすればティルが無言で大広間の扉へと駆け寄る。
その背を追うように踵を返し、
「息子を、弟を見殺しにするのか!」
――背後からかけられた言葉に、指先が震えた。
弟を見殺しにするのか。
私は弟なんて知らない。一度も会ったことがない。だって監禁されていたのだから。会ってはいけないと言われていたのだから。そんな彼を弟だなんて思えない。
じわり、と涙が滲んだ。
「十一年間、見て見ぬ振りを続けた貴方がそれを言いますか!? 私は弟と会ったことなんて一度もない!」
振り返り、叫ぶ。ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝った。
どうして私が責められなくてはならないんだ。勝手を言っているのはそっちじゃないか。
確かに幼い子どもが病を患ったのは気の毒だ。しかし私に今までしてきた仕打ちをすべて忘れて、弟を見捨てる私をまるで悪女のように罵るなんて。そんなの不公平だ。
ずるい。ひどい。悔しい。
「帰って!」
力の限り叫ぶ。父の顔は涙で視界が歪んで全く見えなかった。
ふと肩にあたたかな手が添えられた。ティルだ。
「奥様、お部屋に戻りましょう」
こくん、と頷く。ティルに肩を支えられながら、私はどうにか自室へと辿り着いた。
自室の椅子に座ったときには少しずつ落ち着きを取り戻していた。涙も止まり、ほうっと息をつく。ぼんやりと自室の天井を見上げながら、父の言っていた言葉を思い出していた。
『息子の命がかかっているんだ、頼む――』
そう言った父の顔が思い出せない。思い出さないように脳がロックをかけているのだろうか。
あんな“父親”をしている彼の姿は初めて見た。私が知っている父はいつもこちらから目を背けて、最小限の言葉しか言わない不愛想な男だった。今日見た父との違いに、やはり自分は愛されていなかったのだ、と思い知らされたようで。
(弟……)
会ったことのない弟。病に伏せっているという弟。
いっそこのことを知らなければ、私は心乱されることなく平和な日々を過ごしていたはずだ。しかし知ってしまったからには――ふとしたときに、私の胸に仄暗い影を落とすかもしれない。
朝目覚めたとき。美味しい食事を頂いているとき。リシャールくんと話しているとき。眠るとき。
私が“見捨てた”弟は苦しんでいるかもしれない、もしかすると命を落としているかもしれない、と、脳裏をよぎる瞬間がきっとある。
気にしなければいい。聞かなかったことにすればいい。それは分かっているが、きっと私にはできない。
(でも、リシャールくんに相談するのも……)
なんて言えばいい? 見知らぬ弟が病に倒れたそうなので、治療費を出してくれませんか?
男爵家がとても払えないというほどの額だ。伯爵家からしてみれば出せない額ではないだろうが、決して少ない額でもないような気がする。
そんな我儘は言えない。それに、私が心からそれを望めない。
「――……ジゼルさん?」
不意に自室の扉がノックされた。そして聞こえてきたのはリシャールくんの窺うような声。
私は思わず立ち上がる。そしてこちらを見ているティルに首を振った。今リシャールくんと会いたくない。
ティルは眉を潜めて、扉の向こうに立っているであろうリシャールくんに聞こえないような小声で囁いた。
「奥様、失礼を承知で申し上げますが、旦那様にご相談されては……?」
ティルの言うことは正しい。きっと相談した方がいいのだろう。しかし家族のことで苦しんだリシャールくんに、今回のような家族のゴタゴタを相談するのはあまり気が進まなかった。
どうすればいいか分からず、俯く。――すると扉が開いた音がした。
慌てて顔を上げる。そうすれば申し訳なさそうに眉尻を下げているリシャールくんと目が合った。
「すみません、許可もなく……ただ、心配だったので」
父と会った妻が自室に引きこもっていると知れば、何かあったのかと心配になるのも当然かもしれない。
私は驚きつつも、心配をかけまいと笑ってみせた。
相談するにしろしないにしろ、今この場ですぐに話すことはできない。自分の中でもう少し整理してからでないと。
「心配かけてごめん。でも大丈夫。父とはただ話しただけで――」
「目が赤い」
そっと頬にリシャールくんの手が添えられる。彼の親指が私の目尻を拭った。
――泣いていたことなんて、彼にはお見通しのようだ。
それでも私はどうにか誤魔化そうと口角を上げて――失敗した。
あまりに切ない表情でリシャールくんが見つめてくるものだから。あまりに頬に触れた手が温かかったから。
ぐっと抱き寄せられて、呆気なく涙腺が決壊する。リシャールくんは何も言わず、私が泣き止むまで抱きしめてくれた。
――なんだか彼の腕の中で、泣いてばかりいるような気がする。
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