11:「俺のために泣いてくれてありがとう」
――シャルロットさんの部屋から出た後、私はリシャールくんに連れられて彼の執務室へとやってきた。部屋にはいるなりぶわ、と花の香りが鼻孔をくすぐる。見れば、机の上に一際立派な花束が置かれていた。
彼はその花束を持って、改めて私に頭を下げてくる。
「ジゼルさん、今回の件について、本当に申し訳ございませんでした」
「ううん。落ち着くところに落ち着いてよかった」
笑えば、リシャールくんは眉尻を下げて複雑そうに微笑む。彼は随分今回の件で私に負い目を感じているようだ。
確かに私は完全に巻き込まれた形になったが、そもそも悪いのは悪事を企む側であってリシャールくんも被害者だろう。――まぁ、過去のあれこれが原因となったようだから、完全な被害者とは言えないかもしれないが。
リシャールくんは私の手を取る。そして何かを確かめるようにぎゅっと握った。
「怪我は?」
「どこも跡残ってないし大丈夫。そもそもそんな大きな怪我してたわけじゃないし」
努めて明るく笑えば、更にリシャールくんの眉尻は下がる。
「貴女に怖い思いをさせてしまった。私のせいです」
心配してくれるのはありがたいし、反省してくれるのも妻として安心だ。しかしここまで思い詰められては私としてもなんて言葉をかけていいか分からなくなってしまう。
更に、
「誓約書……」
直接の言葉はなしに違約金の存在を匂わされるものだから私は慌てる。なんで彼は事あるごとに違約金を払いたがるんだろう。
「それはいいから! そんなことより、リシャールくんの方は平気なの?」
話題を変えるためにも、リシャールくんに問いかけた。
かなり強力な魔法を使っていたようだし、後始末で随分忙しそうにしていたから、純粋に体調が気になっていたのだ。
「……貴女にも、私の過去のことを話しておくべきですね」
私の問いには答えずに、ぽつり、と彼は呟く。そして先ほどから握っていた私の手を引いてどこかへとエスコートし始めた。
リシャールくんが持っていた大きな花束はティルへと渡される。彼女はその花を活けるためか、礼をして私たちの許から離れていった。
二人で向かった先は――書斎だった。
「こちらへ」
リシャールくんに手を引かれるまま書斎に足を踏み入れた。
書斎には天井につくほどの大きな本棚が所せましと並んでいる。リシャールくんはその中の一つ、壁際の本棚の前に立つと、本を数冊抜き取った。そしてそのまま本棚を手で押すと――なんと本棚は扉のように奥へと開いた。
隠し扉だ! 私が驚きに目を丸くしていると、リシャールくんは言う。
「父の隠し部屋があるんです」
その言葉通り、本棚が開いた先には短い廊下があり、更にその先には小さな執務室が広がっていた。一つの机と一つの椅子。そして大きな本棚に三方を囲まれた執務室はとてもシンプルな作りではあったものの、いいや、シンプルな作りであったからこそ――“その異様さ”に圧倒されてしまった。
部屋は、シャルロットさんと見知らぬ女性が映った写真で埋め尽くされていたのだ。
「これ、全部……」
「シャルロットとその母君の写真です」
うわ、という困惑の声を飲み込むので精一杯だった。
近くに置かれていた写真立てを見やる。小さなシャルロットさんを抱く儚げな茶髪の女性がこちらに向かって微笑んでいた。彼女がシャルロットさんのお母様なのだろう。
こう見ると、とても伯爵を奪ってやったと高笑いするような悪女には見えない。とても美しい
(強烈……)
本棚には本はほとんど並んでおらず、所狭しと写真立てが並んでいる。その写真は全てシャルロットさんとそのお母様のものだ。
ディオンさんの言葉を思い出す。大旦那様の入れ込み具合は異常だった、と。その言葉を身をもって思い知らされたような気分だ。
リシャールくんは近くにあった写真立てを手に取り、ゆっくりと問いかけてくる。
「辛気臭い昔話にお付き合いいただけますか?」
躊躇いがちに、しかし確かに頷く。そうすれば彼は過去を語り始めた。
「父は伯爵家の嫡男として生まれ、公爵家の末娘であった私の母を妻に向かえました。母の実家は当時ある事件がきっかけで王家からの信用を失っており、王家からの信頼が厚く古い歴史を持つデュジャルダン伯爵家に目をつけたようです」
リシャールくんの声には全く感情がのっていない。事実を淡々と話している。
それにしても伯爵家の血と公爵家の血がその体に流れているとは、なるほど強力な魔法を使えるわけだ、と彼の魔力の強さに改めて納得した。
「母は多額の持参金と一緒にデュジャルダン伯爵家に嫁ぎました。……誰の目から見ても、政略結婚であることは明らかでした」
この世界では、貴族の世界ではよくある話だ。私の父だって正妻である奥様とは政略結婚。彼らは愛し合っているのかは知らないが、夫婦の形は崩さずに今日までやってきているようだ。
そこで自分たちの異様さを改めて思い知る。私とリシャールくんは政略結婚ではない。けれど恋愛結婚でもない。この関係は一体なんと呼べばいいのだろう。
「父は優秀な魔術師であり剣士であり、忠実な僕でした。彼が国に害成す者を排除すれば、王家からデュジャルダン伯爵家、そして母の実家である公爵家への評価は上がる。それを望まれての結婚でしたから、父は功績さえ上げればいいのだろうと、公務に出るばかりで家に全く寄り付かなくなった」
聞くだけで胸が苦しくなってくる。しかしリシャールくんの口は止まらない。
「実際、母方の実家は父の手柄で信頼を多少取り戻したようです。それだけに、父が家を開けがちなことにも文句を言えなかった」
リシャールくんは別の写真立てを手にとった。そしてそれをじっと見つめる。その写真立てに飾られていた写真には、シャルロットさんとそのお母様、そしてもう一人、銀髪の男性が映っていた。
直感的に思う。その男性はリシャールくんの父親だ。
「公爵家との繋がりはデュジャルダン伯爵家に大きな富をもたらしましたが、同時に父にとっては忌まわしい楔にもなった。妻と生まれた世継ぎはその最たるものです。ですからまぁ、父が他に愛する女性を見つけたのも、当然だったのかもしれません」
当然だというリシャールくんが切なくて、しかし彼はどこまでも普段通りで、それだけに余計胸が締め付けられるような思いだ。
「何をするにも母方の実家の目があります。そしてその後ろには王家の目が。彼は息苦しくてたまらなかったことでしょう」
お父様の気持ちも理解できた。自分の功績目当てで結婚させられ、その動きを常に見張られては息苦しかっただろう。そんな息苦しい日常から逃げるための何かを求めてしまっても責められない。
お父様にとって、シャルロットさんたちは息苦しい日々の中で唯一呼吸ができる、安らげる場所だったのかもしれない。だからこそここまで異常に入れ込んでしまったのではないか。
理解できるだけに、苦しい。妻を、息子を、顧みることは彼に出来なかったのだろうか――
「だから伯爵家には帰らず、本当に愛する家族たちがいる家に帰った。彼にとってはそれが当たり前だったのでしょう。私と母は彼の家族ですらなかった」
家族ですらなかった。その一言はあまりに辛くて、それと同時にリシャールくんはお父様のことを家族と思っていないのだと知る。
分からない。私は前世では至って平凡な一般家庭に生まれたし、今世も監禁されていたせいで貴族の“当たり前”を知らない。これは貴族の当たり前なのだろうか。こんな切なく苦しい家族の形が、リシャールくんにとっての“当然”なのだろうか。
「私もなんとなしに悟ってはいました。しかし伯爵夫人として懸命に生きる母に、滅多なことは言えません。良き跡継ぎになれるよう努力して――勉強のために書斎に入り浸った結果、この部屋を見つけてしまった」
それはリシャールくんが努力家であったが故の悲劇だ。彼が書斎に訪れるようなことをしなければ、この部屋の存在も知らなかったはず。
リシャールくんは幼い頃の自分を嘲笑うかのように、少しだけその口角を歪に上げた。
「当時の部屋は今ほど写真に溢れていませんでしたが、箱入り息子な私に衝撃を与えるには十分なもので。ここには見たこともない父の笑顔があった」
はは、とリシャールくんは自嘲的に声をあげて笑う。笑わないで欲しい。そんな笑い方は自分を傷つけるだけだ。
「次第に父の家族に対する入れ込み具合は異常なものになっていきました。公の場でもその存在を口にすることを憚らなくなったのです。その結果私と母は後ろ指を指されるようになり、心無い人々の言葉に傷ついた母は体調を崩しがちになりました」
リシャールくんはそこで一旦言葉を切る。そして私に向き直った。
「父への怒りと、そんな父に何も言わない母、そして母方の公爵家への不信感を爆発させ――俺は見事に荒れてしまったという訳です」
リシャールくんはやれやれ、と肩を竦めてみせる。私は何も言えなかった。
彼は手に持っていた写真立てを元の場所に戻すと、こちらに数歩歩み寄ってくる。そして私を真剣な表情で見下ろし、再び口を開いた。
「流石に人をこの手にかけたことはありませんが、逆にそれ以外でしたらなんでも好き勝手やりました。自暴自棄になって酒を飲み散らかし、父に対する怒りを盗賊どもをいたぶることで発散した。荒れた伯爵家の息子としてちょっとした有名人でしたから、ちょっかいを出してくる輩も多く、喧嘩も数えきれないほどしました」
ディオンさんから聞いたときは元ヤンじゃん、なんて軽く思ってしまったものの、今改めて本人の口から聞くと涙が出そうで。
リシャールくんは自分のことを「放蕩息子」だと言った。そして「放蕩息子」のことを「人生に絶望した者の成れの果て」と語った。そのときの彼の笑顔が重く心にのしかかる。
荒れていた時代の彼の行為を全て肯定することはできない。きっと彼の行為のせいで迷惑を被った人はいる。けれど――今の私は、彼にそうさせてしまった環境に対するやるせなさを感じていた。
「私の存在は社交界で、悪い意味で有名になっていきました。これでいっそのこと父が困ればいいと思いましたが彼はそんな私を叱ることもせず、母が心労のあまり倒れてしまった」
リシャールくんはそこでようやく自嘲以外の感情を表情に乗せた。眉間に皺をよせ、口を引き結ぶ。過去の出来事をひどく後悔しているのだと一目見て分かった。
「自分の妻が病に伏していても尚、父は見舞いに来ませんでした。夫と息子のことで胸を痛めた母は……衰弱しきって亡くなりました」
――想像できた言葉ではあった。リシャールのお母様はもう亡くなっていると聞いていた。けれど、こんな形で亡くなってしまわれていたなんて。
いつの間にか私はドレスの裾をぎゅう、と手で握りしめていた。
「公爵家は娘を死なせた父に怒り、デュジャルダン伯爵家と縁を切りました。今も疎遠のままです」
それもあんまりじゃないか、と思う。
今まで大旦那様の功績を食い物にしてきたくせに、そしてその功績を欲しがるあまり旦那様に強く出られず末娘に辛い思いをさせていると分かっていただろうに、亡くなったら今更手を切るなんて。何より――彼らは血の繋がった孫であるリシャールくんを見捨てたのか。
父は家に帰らず、母は死に、母方の実家からは見捨てられ。そんなのあんまりだ。リシャールくんが一体何をしたというのか。どうして彼だけ。どうして。
視界が涙で滲む。喉が締まる。しかし話を聞いただけの部外者である私が泣いてもリシャールくんは困るだけだ。
必死に涙を流すまい、と下唇を噛んで堪えた。
「それでも父は忠実な僕であり続けた。そのおかげで公爵家に離縁された今も、何とかデュジャルダン伯爵家は持っています」
公爵家の娘を死なせて更には離縁されたとなると、世間からの目はかなり厳しいものになるだろう。しかしそれでもデュジャルダン伯爵家がどうにか体面を保てているのは、皮肉ことにも全ての始まりであったお父様の功績であったという。
さぞかし強く有能な方だったのだろう。少しでも道が違えば、今もお父様はデュジャルダン伯爵家のご当主として、立派にご活躍されていたに違いない。
リシャールくんはきっちりと整えた前髪を崩すようにぐしゃり、と髪をかき上げた。
「母が亡くなった後、後を追うように父も亡くなりました。生前はあれだけ仲が悪かったのに、命日が近いというのは不思議な話ですね」
奥様が亡くなられた後、後を追うように旦那様も亡くなられる――というのは前世でもよく聞いた話だ。今世でもその通説が、よりにもよってすれ違いにすれ違った夫婦に当てはまるなんて、と思わずにはいられない。
「その後はまぁ、前当主が亡くなった訳ですから息子である私が当主に繰り上がり、私はリシャール・デュジャルダン伯爵になったという訳です」
リシャールくんはそこで一度口を閉じて俯く。そして大きく息を吐いた。ため息とは少し違う、気持ちを落ち着けるための行動に私の目には映った。
数秒の後、彼はぱっと顔を上げる。その顔はいつもの、私が舞踏会の夜に出会った“リシャール・デュジャルダン伯爵”だった。
「以上で、辛気臭い昔話はおしまいです」
なんでそんな風に笑うんだろう。なんで笑えるんだろう。
切なくて、悲しくて、やりきれなくて――悔しくて。
リシャールくんはもっと自分を大切にするべきだ。褒めてあげるべきだ。そんな風に、過去を悔やむように笑うのではなく、己を蔑むように笑うのではなく。
確かに荒れていた時代もあったのだろう。彼にも悪い点はあった。実際その過去が今回のことに繋がってしまった。
けれど彼は今、立派なデュジャルダン伯爵家当主だ。若くしてここまで伯爵家当主を務めあげることができているのも、一重にリシャールくんの頑張り故だ。
このままではきっと、身も心もすり減らしてしまう。命を削ってしまう。そんなリシャールくんの姿は見たくなかった。
「当主になってからはこれでも必死に励みましたから、周りも少しずつ認識を改めてくれています。でもそのせいで、最近は少し気を抜いていました。……私の過去が、こんな形で貴女に迷惑をかけてしまうなんて。本当に申し訳ございません」
もう一度大きく頭を下げるリシャールくん。その姿はすっかり涙で滲んでしまっていた。
一度涙腺が決壊してしまうと駄目だった。こちらに頭を下げるリシャールくんの姿がろくに見えない。止めようとしても勝手に大粒の涙が零れ落ち、頬を、そしてドレスを濡らしていった。
「今後もこういったことがないとは言い切れません。そのときはきっと妻であるジゼルさんを巻き込んでしまう。ですから――」
リシャールくんは顔を上げる。そしてぎょっと目を見開いた。――私がボロボロと、それはもう見るに堪えない顔で泣いていたからだ。
リシャールくんは慌てて内ポケットからハンカチを取り出す。そしてそれをこちらに差し出すかと思いきや、再びそれをしまい込み、自分の指の腹で私の涙を拭ってくれた。
その表情は優しく、しかしどこか困惑したような笑みだった。
「……どうして君が泣いているんだ」
問いかけられる。しかしその問いには答えずに、私もまた彼に問いかけた。
「どうしてリシャールくんは笑ってるの」
リシャールくんは拭っても拭っても溢れてくる私の涙を根気よく拭いながら、考えるように視線を宙に彷徨わせた。そして答えを見つけたのか、再び私と目を合わせて言う。
「泣いても何も変わらないんだ」
だから笑っているのだ、と彼はまた“笑った”。
その答えはきっと、昔のリシャールくんが辿り着いてしまった答えなのだ。もしかすると昔の彼は泣いていたのかもしれない。けれど何も変わらなかった。父も母も自分も、泣いているだけでは何も。
それはきっと正しい。実際泣いてその場にしゃがみ込んでいては何も変わらない。涙を拭いて立ち上がって、歩き出さなければいけない。
けれど、泣いて気持ちが落ち着くことはある。すっきりする。悲しみと向き合い、立ち上がるための力の源になることだってあるだろう。
しかし彼に泣いて欲しいと願うのは私のエゴだ。実際悲しいことがあったとして、全員が全員泣きたいと思う訳でもない。
だからこそ、私はこれ以上何も言えなかった。笑みをたたえて私を見つめるリシャールくんに「泣いていいんだよ」なんて、自己満足の塊でしかない言葉はかけられない。ぬくぬくと生きてきた小娘の言葉は、きっと彼には届かない。
(私は彼に、何も言ってあげられない)
妻なのに。彼は私をあの場所から救ってくれたのに。気の利いた言葉一つかけることはできず、それどころか涙を拭わせてしまっている。
情けない。恥ずかしい。けれど涙は止まらない。
そんな私の涙をずっと拭い続けてくれたリシャールくんは、一向に止まらない涙になぜか破顔した。滲む視界の中でそれを見て首を傾げた私を、彼はなんとぎゅっと抱きしめる。
涙と鼻水で彼の高価な服を汚してしまう。そう思い咄嗟に胸板に手をついたが、彼はそんな私を胸元に抱き込むように、腕に強く力を込めた。
リシャールくんの服に私の涙が吸い込まれていく。あぁ、と青ざめる私の耳元で、彼は囁いた。
「俺のために泣いてくれてありがとう」
――その声音は優しくて、何かを噛み締めるかのように感慨深げで。
私はリシャールくんに気の利いた言葉をかけてあげることはできない。けれど寄り添うことはできるだろうか。傍にいるだけだ。何の役にもたたない。けれど、リシャールくんがそれを許してくれるなら――
そう思い、彼の腕の中でそっと目を閉じた。
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