05:「私の妻はかっこいいですね」
――夜、リシャールくんと二人で招かれた夜会に出席した。こうした華やかな場はリシャールくんと出会った舞踏会以来だ。
緊張する私を優雅にエスコートするリシャールくんは普段以上に輝いて見える。私はというと高いヒールに重いドレスという二重苦で、笑みを浮かべるだけで精一杯だ。
会場に足を踏み入れるなり、メディーレ子爵が胡散臭い笑顔で近づいてくる。彼だけじゃない、たくさんの人々が一斉にリシャールくんに群がってきた。
「デュジャルダン伯爵、ご出席ありがとうございます」
「毎年お招きいただきありがとうございます」
リシャールくんは笑顔で彼らと挨拶をかわす。
「なんとデュジャルダン伯爵は先日ご結婚なされたのだとか!」
大げさな口調で言ったメディーレ子爵に、わざと注目を集めるような真似をしやがって、とお行儀のよくないことを思いつつ、向けられた多くの視線に固い笑顔で答えた。
リシャールくんが私を安心させるように腰を抱く手にぐっと力を籠める。彼の腕はもはや私にとって命綱だった。
令嬢として最低限の教育はされている。しかし実践経験はほぼ皆無の状態で、伯爵夫人として相応しい立ち振る舞いができるかどうかは怪しかった。
「妻のジゼルです」
「まぁ、お若い奥様ですこと」
若い、という言葉が未熟という嫌味に聞こえてしまうのは私の過剰反応だろう。実際そうなのだから。ただ事実を口にしただけだ。
次から次へとたくさんの人が挨拶をしてきたが、私はひたすら笑顔を顔に張り付けて、リシャールくんの隣で背筋を伸ばすことに集中していた。下手に口を開けばボロが出る。
――と、会話の途中で曲が始まった。
「おや、ワルツが始まりましたな。ぜひ一曲踊っていただけませんか?」
メディーレ子爵が私に向かって手を差し伸べてくる。
――ワルツなんて絶対に無理! 習ったことはあるけれど、いきなり他人と踊るなんてハードルが高すぎる!
「い、いえ、その、私は……」
どうにかうまい断りの言葉を探す。しかし咄嗟に何も出てこない。
するとメディーレ子爵は嫌らしく笑った。
「踊ってくださらないのですか? まさか踊れない、なんてことは――」
彼の言葉にぐっと押し黙る。ここで断ってはデュジャルダン伯爵家の名前に傷が――リシャールくんが恥をかいてしまう。
差し伸べられたしわがれた手をじっと見つめる。そしてその手を取ろうとして――横から現われた美しい男性の手に攫われた。
「え」
目の前の子爵の目が見開かれる。瞬間、強く腰を抱かれ、どん、と思いの外厚い胸板に頭突きしてしまった。
私は慌てて顔を上げる。するとそこには、悪戯っ子のような笑みを浮かべたリシャールくんがいた。
彼は私の髪に唇を寄せて呟く。
「こう見えて、私は嫉妬深い男でしてね。妻に自分以外の男と踊って欲しくないんですよ」
――助けてくれたのだ、と思った。嫉妬深い愚かな夫を演じて、ワルツを踊れないどんくさい妻を。
腰に回っていたリシャールくんの手が離れたと思いきや、彼はそのままその場に傅いた。その姿のなんとまぁ様になること!
銀髪の王子様ならぬ伯爵様は私に再び手を差し伸べて、懇願するような声音で問いかけてくる。
「私と踊っていただけますか、ジゼル」
「え、えぇ……」
気づけばその手を取っていた。
リシャールくんにホール中央までエスコートされる。彼の容姿のせいか、はたまた彼の立場のせいか――おそらくはその両方――人々は道を開け、会場のどセンターを陣取ってしまった。
「リシャールくん、私、ほとんど踊れないけど」
助けてもらった身で情けないことこの上ないが、怖気づいてこっそり囁けば、彼は私の手を自分の体に誘導しながらそっと耳元で呟く。
「私に合わせて」
合わせるのも技術がいるじゃん!
心の中で叫びながら、リシャールくんがステップを踏み始めてしまったため私もどうにかそれに付いていく。足元を見ながら必死に、とにかく高いヒールで彼の足を踏まないように、脳裏で昔習ったワルツのステップを必死に思い出して――あれ、案外踊れてる。
思わずリシャールくんを見やる。すると彼はバチン、とウインクしてきた。何それ初めて見た!
「ジゼルさん、踊れないと言っておきながらお上手じゃないですか」
「リシャールくんのリードがうまいんだって」
くすくす笑いながら会話を交わす。気づけば、足元を見ずにステップを踏めていた。
――やがて曲が終わり、最後はお互いお辞儀でワルツを終える。ちらりと見上げた彼は、どこか満足げに微笑んでいた。
あぁ、ほっとした。リシャールくんに感謝しなければ。
それにしても緊張したせいか今更足が震えてきた。どこか、誰の目もない場所でちょっとだけでも休憩したい。というか、座りたい。
プルプルする足をどうにか踏ん張って、隣のリシャールくんにこっそりと尋ねた。
「あの、リシャールくん。どこかで人目のないところで一回座ってきてもいいですか……」
「はい、もちろん。ただ私はこの後挨拶があるのでご一緒できませんが……入口にティルが控えています。彼女に案内してもらってください」
その後、彼の言葉通り会場入口で控えていたティルに案内してもらい、彼女の計らいで近くの小さなテラスにやって来た。設置されている椅子に、リシャールくんからもらったドレスが皺にならないよう気を付けて座る。
「あー! 空気美味しいー!」
外に出るなり思わずそんな言葉が口を突いて出る。夜会の場は人が多すぎて絶対酸素薄い。それに様々な思惑や野望が渦巻くあの場所は、夜会経験の少ないひよっこ令嬢からしてみれば目が回りそうだ。
くすくすと後ろでティルが笑う。伯爵夫人らしからぬ言葉を聞かせてしまった、と頬を赤らめながら振り返った。
「ティル、今の言葉はよくなかった?」
「いいえ。旦那様とのワルツ、とっても素敵でした」
「見てたの?」
「はい、もちろん」
ふふふ、と笑うティルに私は心の中で頭を抱えた。がしかし、彼女が私のだめだめワルツを見てくれていたということは、アドバイスをもらえるかもしれない。
長年伯爵家にメイドとして仕えてきた家の出身であるティルは、おそらく幼い頃から厳しく躾けられたのだろう、私なんかよりよっぽど立ち振る舞いが美しいのだ。彼女ならワルツを美しく踊ることだってできるかもしれない。
「ティル。あなた、ワルツ――」
踊れる? と振り返った瞬間。テラスに見知らぬ女性が現れた。
ブロンドの髪に青い瞳。その容姿的特徴に見覚えがあったが、それが誰かは分からない。ただ美しくボリューミーなドレスを着ているのを見るに、どこかの貴族のご令嬢なのは間違いないだろう。
(……誰?)
私の表情が固まったのを見てティルもすかさず振り返る。彼女が息を飲んだのが分かった。
ティルはすかさず私の後ろへと回る。そしてやってきたご令嬢に頭を下げつつ、間抜け顔の私にそっと囁いた。
「奥様、メディーレ子爵のお嬢様です」
(うげっ)
ティルのファインプレーに私はすかさず椅子から立ち上がり、身なりを整えた。もしかすると夜会で挨拶ぐらいはしたかもしれないが、リシャールくんの隣で美しく立つことに必死で何も覚えていない。マルチタスクが出来ないポンコツ頭め!
私は自分の脳みそを呪いながら挨拶をしようとして――
「先ほどのワルツ、素晴らしかったです」
かけられた言葉に固まった。
言葉だけなら褒めてくれたように聞こえるが、声からは棘を感じて。一声かけられただけでこのご令嬢は私にいい印象を持っていないのだと分かった。
そこで思い出す。そういえばメディーレ子爵は自分の娘をリシャールくんの妻にしようとしていたのではなかったか。
修羅場の予感をひしひしと感じつつ、私はどうにか笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます」
そう答えれば、子爵令嬢ははぁ、と大きなため息をついた。
「リシャール様はこんな子どものどこがよかったのかしら」
――あからさまに喧嘩売られてる!
ぴき、と笑顔が引き攣ったのが自分でも分かったが、売られた喧嘩を買ってしまえばリシャールくんに迷惑がかかる。それに出合い頭に突然喧嘩を売ってくるような人と同じところまで落ちたくない。
社交界の闇を垣間見つつも、私はあくまで平静を保って答えた。
「さ、さぁ……それは本人に聞かないとなんとも……あの、私、これで失礼しますね」
こういうときはとっとと逃げてしまうに限る。後ろに控えているティルを振り返れば、彼女は素早い動きでテラスの扉を開けてくれた。
退室する前にもう一度挨拶をしようと振り返って、
「貴方もどうせ捨てられるわよ」
なんとも恐ろしい言葉に動きを止めた。
「……捨てられる?」
「あら、ご存知ないの? リシャール様のお噂を」
思わず反応してしまった私に、子爵令嬢は勝ち誇ったような笑みを浮かべて続ける。
噂って、リシャールくんが元ヤンだったって噂?
「あの方は誰も愛することはないのです。どれだけ彼に心を捧げても、数か月すれば彼の心は呆気なく離れていく。そしてすぐに新しい女性の許へ行かれるのですわ」
(よ、よくあるやつー……)
女をとっかえひっかえして、誰も愛することのない色男。そんなキャラクター、前世でごまんと見た!
――なんておふざけは置いておいて、本人曰く昔は中々やんちゃしていたようだし、あり得ない話ではないな、と冷静に思う。しかし昔馴染みのディオンさんは、前世でいうヤンキーのような暴れ方をしていたと言っていたが、女性関係については何も言っていなかった。
妻である私の前では流石に言えなかったのだろうか。その可能性は十分あるが、彼は私とリシャールくんの結婚をあまりよく思っていなかったようだし、リシャールくんの悪印象を植え付けるならば、女性関係の話は真っ先に持ってきそうなものだが――
なにはともあれ、このまま黙っておくわけにもいかないだろう、と素直な気持ちを口にする。
「そんな人には見えませんが……」
「あら、人を疑うことを知らないお方ですのね。羨ましいわ」
(めちゃめちゃ嫌味言われてる……)
流石に腹が立ってきた。仏の顔も三度までというだろう。私は仏ではないが、もう一回嫌味でも言われれば流石に喧嘩を買ってしまいそうだ。そうなる前にここを離れてしまおう。
――しかしまぁ、彼女の言うことも一理あるだろう。前世はこういった華やかな場とは全く無縁の、平和極まりない毎日を過ごしていて、今世では離れに十一年間監禁されていた。人を疑うことを知らないのはその通りだ。いつか痛い目を見るかもしれない。
もしかしたら現在進行形で、私が気づかないだけで痛い目を見ているかもしれない。子爵令嬢が言う通りリシャールくんは本当は悪人で、私は騙されている可能性だってある。けれど――今日花祭りで見た笑顔は本物だったと、そう思うのだ。
リシャールくんが本当はどんな人であったとしても、彼が私を救ってくれたことに変わりはない。だから捨てられたとしても、文句はない――訳はない! 捨てられたら恨む。けれど。
(会ったばかりの他人から聞かされた噂話を信じて、自分の夫を疑うなんて愚かな真似はしない)
確かにリシャールくんとは出会って日が浅いけれど、今目の前にいる子爵令嬢は今出会ったばかり。ならどちらを信じるかと言えば――リシャールくんに決まっている。
リシャールくんの好きなものは何も知らない。教えてくれない。けれど彼が優しいのも、元ヤンらしいのも、実は一人称が「俺」なのも――優しく腰を抱いてくれる手があたたかいのも、知っている。
だから私は、私の知っているリシャールくんを信じよう。それが何も持たない私にできる唯一のことだ。
「私は確かに何も知らない小娘ですが、だからこそ、その変な噂とやらに惑わされず自分が見た彼を信じています。彼はそんな人じゃありません」
――だと、思いたいです。
口に出すと恰好が付かないので、心の中でそう付け加えた。
ちらりと子爵令嬢の表情を見る。彼女は苦虫を噛み潰したような顔で、ぐっと下唇を噛み締めていた。
正直言って自信は全くない。こんな自信満々に言ったくせに数か月後呆気なく捨てられて、「ほら見たことか」と嘲笑わられでもしたら恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
途端に怖気づき、予防線を張るために再び口を開いた。
「もしかしたら、貴女の方が正しいと思う日が来るかもしれませんが、それはただ、私の見る目がなかったというだけの話です。……失礼します」
小賢しい予防線を張り終えて、私はこれ以上突っ込まれる前にと早々にテラスから退散した――瞬間。柱の隅から人影が飛び出してくる。
「ジゼルさん」
「うわぁ!」
声をかけられて思わず飛び上がる。後ろをついてきていたティルに支えられつつ、突然現れた人物の正体を確かめようと顔を上げた。
――まぁ、薄々分かっていたのだ。私のことをジゼルさんと呼ぶ人物なんて今のところ一人しかいない。
私の目の前に立っていたのは、笑顔の旦那様。
「リシャールくん、いたの!?」
「お帰りが遅かったので、心配で」
確かに予想外に時間を取られてしまった。リシャールくんの心配はもっともだし、気持ちとしては嬉しい。が、しかし、テラスのすぐ近くで待機していたということは、もしかして。
「……聞いてた?」
恐る恐る尋ねる。そうするとリシャールくんは一瞬視線を逸らして、それから「はは」と笑った。いつもの穏やかな笑みとは違う、どこか照れを含んだ笑みだった。
「私の妻はかっこいいですね」
――それは即ち、私の先ほどの答えを聞いていたと言っているようなもので。
私は周りも気にせず思わず頭を抱える。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。本人に聞かれていたなんて!
「あぁあ~~~忘れてください」
「今日の日記に書いておきます」
「やめて~~~」
情けない声で懇願する。しかしリシャールくんは笑うばかりで、私の願いを聞き入れてくれそうにはなかった。
恨めし気にリシャールくんを見上げる。すると彼は「ははっ」と再び笑って、こちらに手を差し伸べてきた。その手をじっと見つめると、リシャールくんは優しい声で言う。
「もう一曲、踊りませんか?」
「……ワルツを?」
「ええ。パーティーを抜けだして」
「抜け出すって、どこに?」
問いかければ、リシャールくんは悪戯っ子のように笑う。その笑顔を見たのは二回目だった。
彼はなにも答えずに私の手を引く。屋敷を出て、連れていかれたのは夜の庭園だった。
美しく整えられた夜の庭園に、リシャールくんと出会った始まりの日を思い出す。
「なんだか夜の庭園って、リシャールくんと出会ったときのことを思い出すよ」
「そうですね。ジゼルさんに拾われてよかった」
確かにリシャールくんは物理的に“落ちていた”けれど、リシャールくんの屋敷に私が転がり込んでいるあたり、私の方が拾われたという表現が当てはまる気がする。
「拾われたのはどっちかというと私じゃない?」
「そうでしょうか」
リシャールくんはさらりと流して、ワルツを踊るべく私の腕を自分の体に回させた。
組むと、自然とリシャールくんの顔をすぐ近くで見つめることになる。その綺麗な顔に、どうしてあの日庭園で倒れていたのだろうと今更なことを疑問に思った。
「ねぇ、なんであの夜庭園に倒れてたの?」
「人生に絶望していたので」
「……えぇ?」
思わぬ答えに戸惑いの声が出る。しかしそれ以上私が問いかける前に、ぐいと手を引かれた。
リシャールくんの足を踏むわけにはいかないので、私も慌ててステップを踏む。リシャールくんは歌うような口調で言った。
「ほら、踊りましょう」
――何やら誤魔化されたような気もするが、そう言ったリシャールくんの表情があまりに無邪気だったから。まぁいいか、と、私もまた本日二度目のワルツを楽しんだ。
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