03:「ですから、ジゼルさんのことを書きます」



 屋敷を一回りし、使用人たちとも挨拶をして、さて少しゆっくりさせてもらおうと思い――身一つで嫁いできてしまったため、私物を何も持ってきていないことに気が付いた。

 しかし正直言って、特に持ち出したいものはない。離れにある本はとっくのとうに読み尽くしてしまったし、過去の日記も昔書いた空想小説も惜しくはない。ただ、やはり今後も日記はつけたかったし、空想小説ももしかするとふとしたときに書きたくなるかもしれない。

 そう考えると紙とペンだけでも確保しておきたくて、お願いするためにリシャールくんの執務室を改めて訪ねていいものかと、メイドのティルに聞いてみた。



「ねぇ、ティル。リシャールくんって日中は忙しそうにしている? 執務室にいったら迷惑かな」


「奥様でしたら旦那様も歓迎しますわ」



 使用人として満点の答えに苦笑しつつも、追い払われることはないだろうと判断し、執務室の扉をノックする。「どうぞ」との返事に、素早く用事を終わらせようと開口一番に用件を伝えた。



「リシャールくん、紙とペンをもらえないでしょうか」



 執務室に入るなりそう言えば、彼は少し不思議そうな表情で、胸ポケットに入れていた万年筆を差し出してくる。それと一緒に、机の上に積まれた紙も気持ち私の方へと押し出してきた。



「何かに使われるんですか?」


「日記を書きたくて……。私には紙とペンだけ与えてくれればそれで十分! 安上がりな奥様でしょ?」



 冗談めかしてふふ、と笑えばリシャールくんは「でしたら」と目を輝かせる。



「職人に作らせますよ。世界に一つだけのペンを――」


「いいっていいって。そんな高いペンだと逆に書きにくいし」


「ですが……」



 なぜか食い下がるリシャールくんの話を遮るように、私は話題を変える。

 書ければどんなペンでもいいし、どんな紙でもいい。それよりも私はこの屋敷の中の書斎に興味があるのだ。



「ねぇ、書斎って入ってもいい?」


「書斎?」


「そう。地図に載ってた……」



 数秒逡巡するように視線を床に落とすリシャールくん。その様子を見るに、彼は書斎を使っていないのだろう。普段使っている部屋であればすぐに思い至るはずだ。

 だとすると以前の当主――お義父様が使っていたのだろうか。書斎とは名ばかりで、本がほとんどない、なんてことがなければいいが。

 書斎の存在をようやく思い出したのか、リシャールくんは眉尻を下げて言った。



「あぁ……すみません、掃除をさせていないんです。掃除をするようにに言っておきますから」



 やはり長らく使っていないようだ。

 掃除をさせる、とは言うがこの屋敷の使用人は七人だけ。日常業務だけでも相当忙しいだろうに、私の気まぐれで仕事を増やしてしまうのは申し訳ない。



「だったら私も一緒にやるよ。一日優雅にお茶飲んでるなんて柄じゃないし」


「妻にそんなことをさせる訳には……」



 リシャールくんはますます眉尻を下げる。しかし私としても折れる気はなかった。

 前世ではぐうたら令嬢生活に憧れていたが、十一年間閉じ込められていた私は、とにかく体を動かしたいのだ。自由を謳歌したい――今までになくアクティブな思考になっているという自覚があった。

 私は入口付近で控えていたティルを振り返る。そして、



「いいっていいって! ペンと紙ありがとう。ティル、行こう」



 リシャールくんにお礼を言って執務室を後にした。

 ティルの案内で書斎へと向かう。重厚な両開きの扉を開けた先には、想像以上に広い空間が広がっていた。



「うわぁ……広いな……」



 ゆっくりと書斎の中へ足を踏み入れる。もはやこの大きさは図書館と言っていいかもしれない。

 リシャールくんが言っていた通り、長らく掃除はされていないようだった。かなり埃っぽく、息を吸ったらむせてしまった。掃除するのは中々骨が折れそうだ。



「すっごい沢山あるね。リシャールくんが本好きな訳ではないの?」


「いえ。大旦那様が読書家でした」


「ふぅん。お話聞いてみたかったな」



 大旦那様。つまりはリシャールくんのお父様。一体どんな方だったんだろう。

 ――なんて思いを馳せている場合ではない。早速掃除に取り掛からなければ。きっと一日二日では終わらないだろう。

 箒と濡れ雑巾を用意してもらい、ティルと二人、ひたすら地道に掃除をはじめる。

 髪を結び、口元は布で覆い、汚れてもいいようにティルのメイド服を借りた。



「ごめんね、巻き込んじゃって」


「いえ、掃除のし甲斐があります。旦那様は特定のお部屋しか掃除することを許してくださらなかったので」


「へぇ、そうなの」


「えぇ。ですから私、前から書斎の掃除がしたくてしたくて……! 本が腐ってしまったらもったいないですもの」



 私に気を遣わせないための嘘かもしれないが、どうやらティルは綺麗好きらしかった。巻き込んでしまったことを申し訳なく思う私の横で、目を輝かせながら掃除をしている。



「ティルは昔からデュジャルダン伯爵家に仕えてるの?」


「はい。祖母がここのメイドで、母も私も雇ってくださったんです」



 ティル一族は思っていた以上にデュジャルダン伯爵家と古い付き合いのようだ。だとすると、彼女はやんちゃしていた頃のリシャールくんのことを知っているかもしれない。もっとも主人の不名誉な話は教えてくれないだろうが。



「リシャールくんが当主になったとき、多くの使用人に暇を出したって聞いたけど……」


「はい。旦那様は付き合いの長い使用人以外解雇してしまわれて……祖母と母は長く勤めていましたが、私は当時働き出してすぐの頃でしたから、解雇されるんじゃないかとびくびくしていました」


「おばあ様とお母様はもう働いていらっしゃらないの?」


「メイド長のグンネルが私の母です。祖母は数年前に退職しています」



 ティルから告げられた事実にメイド長の顔を思い描こうとして――失敗した。まだ一度しか、それも数分しか顔を合わせていない彼女の顔をしっかりと覚えられていない。

 密かに自分の記憶力に絶望しつつ、会話を続ける。彼女とはこれからきっと長い付き合いになる。



「私よりずっとデュジャルダン伯爵家について詳しいだろうから、何かあったら頼ってしまうこともあると思うけど……よろしくお願いします」



 掃除をする手を止めて、ティルの目を見つめながら言った。そうすれば彼女は驚きに目を見開いて――それからはにかむ。



「私でお力になれることでしたら、なんなりとお申し付けください、奥様」



 奥様、という呼ばれ方に相変わらずむず痒さを感じつつも、ティルとはうまくやっていけそうだとほっと安堵した。

 それから私とティルは二人で掃除を続けて――集中するあまり、書斎を訪れた人影に気づかなかった。



「すごい埃ですね」



 背後から声をかけられて慌てて振り返る。するとそこには、口元を手で覆うリシャールくんが立っていた。



「リシャールくん! どうしたの?」


「取り寄せた茶葉が届いたんです。私の一休みに付き合っていただけませんか?」



 リシャールくんはそう言って汚れた私の手をなんの躊躇いもなく取る。気づけば私は頷いていた。



 ***



 美しい庭が見えるテラスに椅子とテーブル、そして紅茶を用意してもらい、何とも優雅なお茶会が開かれた。

 リシャールくんが取り寄せたという紅茶を一口飲む。悲しいことに知識のない私には紅茶の種類やらその高価さはまるで分からなかったが、純粋に美味しい。



「おいしい!」


「よかった。……ジゼルさんは本がお好きなんですか?」



 リシャールくんは紅茶に口つけることなく問いかけてくる。

 取り寄せたのだから飲みたい紅茶だっただろうに冷めちゃわないだろうか、と勝手に心配しつつ、問いかけられた以上は頷いた。



「うん。外に出してもらえなかったから、本を読んであれこれ空想したりするのが唯一の楽しみだったの。書斎には見たことない本が沢山あって、わくわくする」


「それは良かった。私はあまり本を読まないので処分しようか悩んでいたんですが、手をつけないでよかった。貴女を退屈させてしまうところでした」



 歌うように軽やかに言うリシャールくんの台詞に、むず痒さを覚える。しかしそのむず痒さは喜びを伴ったものではなく、どちらかというと呆れが含まれていた。

 リシャールくんは度々私を口説くようなことを言う。確かに夫婦となった身ではあるが、出会って二日目の赤の他人が、夫婦という呼び名で縛り付けて無理やり一緒にいるようなものだ。そこに恋や愛といった感情は未だ何もない。――今後どうなるかは分からないが。

 リシャールくんが無理に甘い言葉を使う度、自分に「この人が妻だ」と言い聞かせているような気がして、私としては素直に受け取ることができなかった。



「ねぇ、それ、やめない?」


「それ、とは?」


「無理に口説こうとしてない? やけに妻、って言葉を使ったり……」



 リシャールくんは苦笑する。図星だったのかもしれない。



「夫婦ですからこういった睦言も必要ではないかと……」


「それって義務感みたいなものでしょう? あんまり嬉しくないな」



 正直に言えば、リシャールくんは苦笑を更に深めた。そして紅茶を一口飲んでから再び口を開く。



「申し訳ありません。私としては嘘を言っているつもりはなかったのですが、ご不快なようでしたら今後はやめます」


「もっと自然体でいいよ」


「努力します」



 ――その敬語が自然体ではないのではないか。ディオンさんもそう言っていたのに。

 そう思いじとっと睨みつけて見るが、



「…………」


「睨まないでくださいよ」



 ははは、と笑顔で躱されてしまった。

 一体リシャールくんはどんな人なんだろう。どうやら元ヤンらしいが、今は落ち着いている伯爵家当主、ということしか知らない。

 彼も彼とて、私のことはろくに知らないだろう。アルヴィエ男爵令嬢で、家を離れるために自分のプロポーズに頷いた小娘。あとは本が好き、ぐらいだろうか。

 今後のためにも、もっとお互いへの理解を深めるべきだ。



「リシャールくんは好きなものないの?」


「生憎と娯楽とは程遠い人生でしてね」


「……放蕩息子だったのに?」


「放蕩息子は人生に不満しかない愚か者がなる成れの果てですよ。娯楽もクソもありません」



 自分を放蕩息子だと称した彼が、放蕩息子という単語についてそう言うのならば、きっと過去のリシャールくんは人生に不満しかなかったのだろう。

 伯爵家の嫡男という将来が約束された環境に生まれた彼が、そこまで不満を募らせた理由は何なのだろう。その理由は今は解消されたのだろうか。それとも――塗り固めた伯爵家当主の仮面の下に、依然燻る何かがあるのだろうか。

 いつの間にかリシャールくんの顔をじっと見つめてしまっていたらしい、彼は私に問いかけてきた。



「……なんです? 何か顔についていますか?」


「ううん、リシャールくんが放蕩息子やってる姿って想像つかないなって」


「それは光栄ですね」



 飄々としている。彼はやはり自分の過去について、多くは語りたくないようだ。

 本人が触れたくない話題を強引に続けることはできない。私は大人しくリシャールくんの過去への追及はやめて、“今”の彼について質問を重ねた。



「リシャールくんの好きな食べ物は?」


「腹が膨れれば何でも」


「好きな飲み物は?」


「喉が潤えば何でも」


「好きな動物……」


「強いて言えば移動手段になる馬でしょうか」


「好きな本……」


「生憎と本は読みませんので」



 暖簾に腕押し――とは少し違うかもしれないが、とにかく投げかけた質問に対して得られる情報が少なすぎる。

 この調子では好きなものをプレゼントする、といった原始的かつ着実な好感度アップイベントが狙えない。



「好きな……好きなものって何かないの!?」


「ないですね」


「…………」



 ないと言い切られてしまってはもうどうしようもない。私は大きなため息を、紅茶と共に飲み込んだ。

 私が黙った後、今度はこちらの番だとばかりにリシャールくんが口を開く。



「でしたら次は私がお聞きしても良いですか? お好きな食べ物は?」


「スープかな」



 離れは寒かったから、食事に温かなスープが出ると嬉しかった。



「お好きな飲み物は?」


「ホットミルク」



 私を置いてどこかへと消えた母に、何度かいれてもらった記憶がある。



「お好きな動物は?」


「鳥」



 離れで触れ合えた動物は、空を飛んで窓の場所まで来られた鳥だけだ。



「お好きな本は?」


「冒険譚」



 どこにも行けなかったから、読めばどこへだって行ける冒険譚に心躍らせた。



「なるほど。そういえば、日記を書かれると仰ってましたね」


「小さな発見を見逃さないように。小さなことにも感謝できるように、ね」



 毎日同じことの繰り返しだった日々の中で、少しでも変化を見つけるためにと、そしてその変化を書き留めておくためにと、気づけば日記を書くようになっていた。書き続ければ次第に日課になった。

 そういえば昨日は紙もペンも手元になかったから書けていない。二日分の日記を今日書こうか。



「私と出会ったときの日記には何と書かれたんですか?」


「まだ書いてないけど、書くとしたら……中庭で伯爵様を拾っちゃった、運いいなー! 玉の輿!」



 揶揄うように言えば、リシャールくんは驚いたのか目を丸くした。その表情はいつもより幼く見える。



「……本当にそう書くんですか?」


「うそうそ、ちゃんと出逢いに感謝しますって書くよ。日記に書いたことを知られるのって、恥ずかしいじゃない?」



 同意を求めれば、彼は首を傾げる。どうやらピンと来ていないようだった。



「そういうものでしょうか……誰かに読ませたくて書いているのではないのですか?」


「人によってはそうかもしれないけど、私は違いますー。自分でこっそり読み返すことはあるけど」



 そうなんですね、と相槌を打つリシャールくんは日記を書かないのだろうか。

 思い切って尋ねてみる。



「リシャールくんは日記書くの?」


「いえ。書こうという発想すらありませんでしたね」


「書いてみたら? 案外楽しいかも」



 提案すれば、ううん、と腕を組む。そして難しそうな顔をした。あまり乗り気ではないようだ。

 無理しなくていいよ、と笑い交じりに言えば、リシャールくんは組んでいた腕を解いた。



「……今日、ジゼルさんとお茶をしたことを書いておきましょうか。貴方の好きな食べ物も」



 それは日記というより記録では――と思いつつ、口には出さずにアドバイスをする。



「好きなこと書いていいんだって」


「えぇ。ですから、ジゼルさんのことを書きます」



 ――不覚にも、少しだけときめいてしまった。

 私は赤らんだ頬を隠すように紅茶を飲む。穏やかなお茶会の中で、ほんの僅かではあるものの、リシャールくんと距離を縮められたように思った。


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