02:(元ヤンじゃん……)
肌触りの良い寝巻。柔らかすぎず固すぎず寝心地の良い大きなベッド。目が覚めて視界に飛び込んできたのは高い天井。
十一年間閉じ込められた暗く狭い離れではない。ここはデュジャルダン伯爵家の一室――昨日からの新しい家だ。
(……夢じゃなかった)
初対面の男性――リシャール・デュジャルダン伯爵にプロポーズされたことも、そのプロポーズを受けたことも、そしてジゼル・デュジャルダンになったことも。すべてすべて、現実だったのだ。
もうあの離れに閉じ込められることもない。新しい日々が私を待っている!
私はゆっくりとベッドから起き上がる。――と、タイミング良く扉がノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは若いメイドだった。赤茶の髪をお団子に結い、クラシカルな裾の長いメイド服をきっちり着ている。
彼女は私に微笑むと、手に持っていた着替えのドレスを差し出してきた。
「お手伝いします」
人好きのする笑顔に私はすっかり警戒心をといて頷く。どうやら彼女は優秀なメイドのようで、あっという間にドレスに着替えることができた。
ドレスは絹でできた上等なものだ。落ち着いたブルーのそれは、華美な装飾こそないものの一目見て高価なものだと分かる。
私はメイドに連れられて、昨晩婚姻届を書いた執務室へと足を踏み入れた。
「おはようございます、ジゼルさん。そのドレス、よくお似合いですよ」
にっこり笑顔で挨拶をしてくる旦那様――リシャールくん。銀の髪は日の光をうけてキラキラと輝いており、物理的に眩しい。
眩しさに目を細めて、同時に口角も上げて私もまた笑顔を浮かべた。
「おはよう、リシャールくん。素敵なドレスをありがとう」
彼は私を手招きすると、机の上に広げた地図を見せてくれた。その地図は――
「これが屋敷の地図です」
感嘆の声を漏らしつつ地図を隅から隅まで見る。彼は私の視線を辿り、一室一室丁寧に解説してくれた。
気になった場所は二つ。
一つはとても大きな書斎。きっと沢山の本があるのだろう。閉じ込められていた私にとって唯一の娯楽であった読書は、自然と趣味になっていた。ぜひとも時間があるときに訪れてみたいものだ。
もう一つは庭園。とても美しい花々が咲いているというリシャールくんの説明に、単純に見てみたい、と心惹かれた。
広いお屋敷は地図を見るだけでもそれなりの時間がかかって――もう少しで終わる、といったそのときに、執務室の扉が乱暴に叩かれた。リシャールくんが驚いた私を守るようにバッと前へ出る。そして、
「おい、リシャール!」
扉の向こうから聞こえた男性の声に、彼の体から力が抜けたのが見て取れた。
リシャールくんは安心させるように私に「知人です」と微笑みかけてから扉を開ける。そして、扉の向こうの人物に些か乱暴に言い放った。
「随分な朝の挨拶ですね、ディオン」
大きく開いた扉の先、立っていたのは赤髪の男性。
ディオンと呼ばれた彼はリシャールくんの言葉に眉尻を下げた。
「あ、悪りぃ……ってお前! 結婚したんだって!?」
――と思いきや、すごい勢いでリシャールくんに詰め寄る。
耳元で叫ばれたせいか、リシャールくんは眉間に皺を寄せて低い声で指摘した。
「声が大きい」
今度こそ赤髪の男性は申し訳なさそうに頭を垂れる。感情表現が豊かな彼は、なんだか大型犬のようで微笑ましい。
リシャールくんははぁ、と大きくため息をつくと、赤の瞳を私に向けてきた。首を傾げれば彼は苦笑しつつも頷く。どうやら呼ばれているのだと気づき、リシャールくんの近くに歩み寄った。
自然な動作で腰を抱かれる。ディオンと呼ばれた男性の緑の瞳に射抜かれて、居心地の悪さを感じた。
「彼女が私の妻です」
「えっと、これはどうも。って若いな!?」
大声で驚かれてしまって私は苦笑することしかできない。十一歳離れているから、前世でいう“年の差婚”だ。
リシャールくんは男性の言葉には返事をせず、私の顔を覗き込むようにして口を開いた。
「ジゼルさん、こちらはディオン・レスコー。レスコー子爵の嫡男です」
「初めまして、ジゼルと申します」
伯爵とこうも気安く会話をしているのだからそれなりの身分なのだろうとは察していたが、未来の子爵様とは。私はドレスの裾を持って深々とお辞儀をした。
ディオンさんは私に合わせるようにお辞儀をしてから、にっこりと笑う。研ぎ澄まされた美しさのリシャールくんとは少し違うタイプの美形だ。甘いマスクというか、親しみを覚えるというか。
それにしても情報を掴むのが早い。昨日の今日だというのに、一体彼はどこから私たちの結婚を聞きつけたのだろう。
「よろしく、ディオン・レスコーだ。で? 本当に結婚したのか?」
彼はリシャールくんと私の結婚に興味津々のようで。
はぁ、と再びため息をついてから、リシャールくんは頷いた。
「はい」
「どこで、いつ、出会った!?」
「昨晩の舞踏会で私が一目惚れしました」
ディオンさんの瞳がこちらに向く。私はにっこりと微笑んで言った。
「私も一目惚れしました」
隣でリシャールくんがくすりと笑った気配がする。しかしまぁ、出会って即結婚となるとお互い一目惚れした、というのが一番無理のない理由付けになるだろう。
「一目惚れ同士の結婚という訳ですね。運命を感じてしまいます。ははは」
「絶対嘘だろ!? その笑顔が嘘くさすぎる!」
ディオンさんは鋭く突っ込む。
しかしなぜこうも彼はリシャールくんの結婚に驚き、疑問視しているのだろう。友人であれば突然の結婚に驚いたとしても、祝福してくれるのではないか、と思うのだが――
激しいツッコミに息を切らしたディオンさんが私を見た。
「えっとー、ジゼルちゃん?」
「はい?」
「ちょ、ちょっといいか? 廊下で少し話をしよう」
もしかしてお前はリシャールに相応しくない、とか言われるのだろうか。結婚早々修羅場!?
私はリシャールくんを振り返る。彼はディオンさんに対して呆れつつも、私を止めることはなかった。
「妻に変なことを吹き込まないでくださいよ」
リシャールくんの声を背に、私はディオンさんと一緒に廊下に出る。そして扉が閉まった瞬間、彼は私に詰め寄ってきた。
「ジゼルちゃん、君は自分が結婚した相手が誰か分かってるか!?」
「……デュジャルダン家の若き当主ですよね?」
「それはそうなんだけど! あいつ、とんでもない野郎だぞ!? 君みたいな純粋無垢な少女が騙されてるのを見過ごすことなんて、俺にはできない!」
どうやらディオンさんは私の心配をしてくれているようだった。
そして昨晩のリシャールくんの言葉を思い出す。彼は自分のことを「放蕩息子」と称していた。その言葉から昔はそれなりにやんちゃしていたのだろう、と想像はついていたが――
しかし、今のリシャールくんからはそんな様子は微塵も感じられない。至って穏やかで、年下の妻にすら敬語を崩さないのだから。
「……そんな方には見えませんでしたよ?」
「今でこそ多少落ち着いてるが、若い時はそりゃあ酷かったもんだ! 人間そうそう変われねぇ!」
ディオンさんは力説する。
「酒場の酒を飲み尽くす、売られた喧嘩は必ず買う、盗んだ馬を乗りまわす、魔術を使って遊びで盗賊の
(放蕩息子というか、元ヤンじゃん……それにやっぱり魔法使えるんだ)
ディオンさんの口から飛び出てきたリシャールくんの過去に一人そんなことを思う。彼の言っていることが事実なら、中々に荒れた生活を送っていたようだ。その上ご先祖様から魔法を受け継いでいるなんて、簡単に止められずかなり厄介だ。
しかし“現在”落ち着いているのであれば、私としてはそこまで気にすることでもない。そう答えようとした瞬間、執務室へ続く扉が開いた。
そこから顔をのぞかせたのは当然リシャールくんだ。
「確かに若い頃はやんちゃしていたときもありましたが、今は真面目に当主をやってますよ」
はぁ、とため息交じりにリシャールくんは言う。ディオンさんは私の心配をしてくれたのだろうが、リシャールくんとしてはいつまでも過去のことを引っ掻き回されては気分も良くないだろう。
ディオンさんはじろりとリシャールくんを睨む。そしてゆっくりと口を開いた。
「……まぁ、確かに? 当主になってからのお前は品行方正とご令嬢たちの間で評判だが? でも俺は当主になる前の、放蕩息子リシャールを知ってるんだよ! 知ってるだけにお前の変わりようが怖くて怯えてるんだ!」
「心を入れ替えたってことじゃないですか。褒められることで、怖がられることではないと思いますが?」
「その気色悪い敬語もやめろ! 寒気がする!」
ぶるぶると大げさに身を震わせるディオンさん。古くからの付き合いなのだろうが、その彼からしてみれば今の穏やかなリシャールくんは信じられないようだ。
ここまで言わしめる昔の夫に対して純粋な興味が湧いてきた。私が結婚した元ヤン伯爵様は一体どんな人だったのだろう。
不意にディオンさんが俯く。そして今までとは明らかにトーンの違う、真剣な声音で言い聞かせるように言った。
「なぁ、結婚するってことは、お前の人生にこの子を巻き込むってことだぞ? 一人で好き勝手やれたときとは違うんだからな? 中途半端にだけはするなよ」
リシャールくんはすぐに答えなかった。彼もまた俯き、数秒間何かを考え込むように押し黙る。
そして、
「……分かっている」
――初めて聞く低い声。初めて聞く口調。私の知らないリシャールくんが一瞬だけ顔をのぞかせた瞬間だった。
彼の横顔を見上げたときには、すっかり私が知るリシャールくんに戻っていて、彼はため息交じりにディオンさんを手でしっしと追い払う。
「さぁさぁ、帰ってください。新婚夫婦の時間を邪魔する気ですか」
ディオンさんは「分かったよ」と諦めたように頷いてその場から踵を返す――その前に、最後に再び私に声をかけてきた。
「ジゼルちゃん、何かあったら連絡してくれて構わないからな! いやむしろ連絡してくれ!」
そう言葉を残してディオンさんは今度こそ足早に去っていく。
彼があそこまで心配するほど、過去のリシャールくんは荒れていたのだろうか。心配してくれるのはありがたいが、私からしてみれば些か過剰ではないかと思ってしまう。しかしまぁ、警告は警告としてありがたく受け取っておこう。
なんてことを考えつつどんどん遠ざかっていくディオンさんの背中を見つめていたら、隣から咳払いが聞こえてきた。そちらを見れば、何とも形容し難い複雑そうな表情をしたリシャールくんと目が合う。
「……確かに若い頃の私はクソ野郎でした。しかし今は心を入れ替えた――いえ、元来の性格が不真面目ですから、きっと不真面目さが滲み出ることもあるかと思います。けれど、結婚したからには家族に不自由がないよう努めますし、不貞は犯しません」
そう言い切るリシャールくんを私は信じるしかないし、信頼に足る人物だと思っている。
彼は一旦そこで言葉を切ると、胸ポケットから丁寧に折りたたまれた一枚の紙を取り出した。そしてそれを開いて見せてくる。
「私の過去が過去なだけに貴女に不安な思いをさせないよう、誓約書を作成しました」
――開かれた紙はリシャールくんの言う通り誓約書であった。
内容にざっと目を通したところ、全て夫側の不貞を縛る文書だ。早い話が外に女を作らない、家族を巻き込むような悪事に手を出さない、といったリシャールくんの私に対する“誓い”だ。
確かに盗んだ馬で走り出されては困る。けれどここまでしなくてもいいだろうに、と思わずにはいられない。
「……本気?」
「はい。ここにお好きな額を書いてください。私がこの誓いを破ったときにはお支払いしますよ」
彼が示した場所は空欄だった。違約金の額を私が自由に決めていいという。
「全財産って書いても?」
「もちろん。破りませんから」
ここまでされて本来なら安心するべきなのだろうが、逆にその笑顔が怪しく見えてくるのは人を疑いすぎだろうか。
私はリシャールくんの笑顔を見上げつつ、気づけばため息をついていた。
「……そう自信満々に言われると逆に怪しいね」
「我が妻は難しいですね」
ははは、と苦笑するリシャールくんはやはり悪い人には思えない。
私たちはまだ出会って二日目。お互いの好きな食べ物すら知らないのだ。であるからして、突然夫の昔からの知り合いに過去を暴露されようと、想像がつかないのは当然といえた。
とにかく私はリシャールくんのことを知らなくてはならない。夫婦として仲を深めなければ。
私は改めて誓約書をじっと見て、それから問いかけた。
「うーん、ちょっと考えてもいい?」
「はい。持っていてください」
リシャールくんは再び誓約書を丁寧に折ると私に預けた。どこかに大切にしまっておかなければ。
さて、嵐のような訪問者が去った後、私はリシャールくんに連れられて屋敷ツアーへと繰り出した。
地図で一通り説明を受けた後だったが、実際に自分の足で歩いてみるとあまりにも広すぎる。十一年間閉じ込められていた私には、屋敷を散歩するだけで十分な運動になりそうだ。
ツアーを楽しむ中で、一つ気になったことがあった。それは――使用人の姿が全く見つからないのだ。朝、私はメイドに起こしてもらったし、これだけ広いお屋敷だ、大勢の使用人がいるものだとばかり思っていたが――
思い切って尋ねてみることにした。
「ねぇ、気になったこと聞いてもいい?」
「なんなりと」
「使用人の方はいらっしゃらないの?」
「煩わしいので数名をのぞいて暇を出しました。ご希望でしたら雇いますが」
リシャールくんはさらっとそんなことを宣う。しかし使用人の数が少ないというのは私にとってもありがたい話だった。閉じ込められていたときは食事を運んでくる使用人一人しかいなかったから、今更大勢のメイドに囲まれて――というのはあまり考えられないし、正直疲れる。
「ううん、むしろそっちの方がありがたい。挨拶してもいい?」
「もちろん。食堂に集めますね」
リシャールくんは微笑んで、食堂に使用人全員を集めてくれた。
集まった使用人は七人。仕える主人は一人とはいえ、この広いお屋敷を七人で回すのはとんでもなく大変だろう。
「右から執事長のカールハンイツ、メイド長のグンネル、料理長のサンドロ、庭師のエウス、執事のティポーとトミー、メイドのティルです」
流れるような紹介に私の頭は追いついていかない。一人一人に頭は下げたものの、正直全員の顔と名前を覚えられた自信はなかった。
しかし朝、私の着替えを手伝ってくれた、赤茶の髪をお団子にしたメイドの名前がティルであるということはしっかりと覚えた。ぱっと見た印象ではあるが、七人の使用人たちの中でティルが一番年が近そうだ。
「ジゼルさんにはティルについてもらおうと考えていますが……よろしいですか?」
「もちろん! よろしくお願いします」
リシャールくんの言葉に頷いて、私はティルに歩み寄る。そうすれば彼女はメイド服の裾を持って優雅に礼をした。私なんかよりよっぽど身のこなしが美しい。
「よろしくお願いします、奥様」
「奥様……」
「奥様」という呼びかけられて、私は反応できずにその場に立ち尽くした。
そうか、私は奥様なのか。
「えっと、あの……?」
「ごめんなさい、奥様ってピンとこなくて」
戸惑うティルに苦笑して謝る。昨晩結婚したばかりなのだから当然だが、奥様と呼びかけられたのは初めてだ。なんだかむず痒い気持ちになる。
いつの間にやら隣に並んでいたリシャールくんが顔を覗き込んで、どこか揶揄うような口調で言う。
「今後は奥様、デュジャルダン夫人などと呼ばれる機会が増えると思いますよ。慣れてくださいね」
「ど、努力します」
そう返せば、リシャールくんは声をあげて笑った。
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