9.婬虐、法悦、魔性の王

 濡れた歯が肌に入りこんでいく前に、生暖かさを感じた。吐息だろうか。それとも軽く置かれた舌の触りか。


「ふっ!?」


 首筋から全身にゾクゾクと広がるむず痒い感覚は、地肌を擦る毛布よりも細やかで、それが快感の波だと気づくのにそう時間は掛からなかった。

 それは性器を吸い上げられているかのようで。しかし肉を穿っているのは相手の方で。ありとあらゆる穴を掘り返され、肌を削られるほど求められているような、


「っ!」


 それが元で死ぬことになろうとも、自分でなくなってしまっても、どうでも好いと思えるほど抗い難い、壊れるような、痺れるような、乖離の刺激。

 ――恐ろしい。


「ギリッ」


 だからこそ孝太郎は歯を食いしばった。

 ウーを突き飛ばせなくはない。拒否できなくもない。自我が壊れてしまう前に、止めようと思えば止められるはず。

 しかしこれは彼女の望みで、これは性行為ではないはずで。

 ならここで彼女を拒否してしまうことも、壊れてしまうことも、どちらも裏切りだと思えた。

 よって中庸に、ただあるがままの自己を保つのが彼の選択だった。

 たとえ下半身がガクガクと痙攣し、腸液が止めどなくこぼれ、彼女の溶けたバニラの匂いと栗の花の臭いが混じり合おうとも。


「んっんっ、んっ〜プハァ……布相手に腰振ってもデキねーぞ」


 唇が糸を引いて離れ、血濡れて光るそれをウーは手で拭った。


「声さ、素直に出しちゃえばいいのに。やっぱあんた変わった人だな」


 クマ取りの消えた紅い双眸が暗闇に灯っている。柔肌は輝きを増して、その瞳と唇とをより赤く浮かび上がらせる。夜の海に潮ついた黒髪が首筋を伝い鎖骨に落ちているのが、事を終えた娼婦のそれと酷似する。

 これが彼女の本来だろう。

 見ただけで分かる。

 なぜならその微笑みが、


「……たまらん」


 少女のなりに似合わぬ色気を帯びていたからだ。

 孝太郎は生まれて初めて少女に欲情した。



「……ぼーっとする」


 孝太郎が口から手を離し、頭を抑えて訴えた。視線はそぞろ、吐き気はないが強烈な眠気を感じる。

 ウーは笑った。いつも通りのニヤケ顔のはずなのだが、潤みのある唇がいやらしい。


「へへ。うちの魅力にまいっちまったか?」

「……そうかもな」


 膝の上に居られると困る。せめて顔だけでも向こうに向いてくれないだろうか。この距離は今は近すぎる。

 ウーは嬉しそうに笑った。歯を見せて満開に。


「えへっ。まぁ孝太郎よりお姉さんだからな! 当然だぜ!」


 それは無邪気な子どもの笑顔だった。

 孝太郎は心臓に冷水を引っ掛けられた顔をして、慌てて首を横に振る。


「いや、訂正する。やっぱりあんたはただの少女にしか……」


 ただの、ではない。


「……。とにかく、さっきのは気の迷いだ。あ、そうだクソッ」


 孝太郎は下半身の粗相に気づいた。


「はぁ。どうするんだこれ。こんなの、ちよに気づかれたらおしまいだぞ。ずつきをくらっちまう」

「気にすんのそこかよ。……うちがやらかした事だし、孝太郎が起きるまでに綺麗にしとくよ」

「なに? おきる? ――?」


 口がふにゃふにゃと呂律も回らなくなってきたことに彼は気づいた。

 そんな彼の口をウーが閉じろと言わんばかりに指で抑えた。


「気持ちよかったろ? あれは吸血時にだけ出てくる特殊な唾液がそうさせるんだ。人の血液に入ると性的な興奮と快感を引き起こす。でもこれ、ホントは麻酔なんだ」

「にゃるほろ」


 孝太郎はつま先から首まで力が抜けて、いまは濡れた雑巾のようにだらりと座席に身を預けている。もう喉の奥にも痺れが来ていた。それ以前に激しい性感の疲れもある。

 彼は目を見開き、閉じようとする目蓋に抵抗した。まだ眠るわけにいかない。

 ウーは目をそらし、髪を指で弄んだ。照れている。


「えへっ。なんだよムリしちゃって、うちに興味津々かよ」

「ちがう。……このめでみるまへは」


 この目でヤツの死を見るまでは。


「……そっか。そうだよな。舌を噛むからもう喋んな」


 ウーは振り返って水平線を望んだ。そこは光のあった場所だ。いまは闇に星落としが蠢く。


「起きてる間に終わらせてやるよ」


 ウーはパジャマの袖をめくり、細く透き通った右腕を晒した。手のひらが向いたのは敵のいる暗黒。紅玉の瞳は捉えている。

 すっ、と息を短く吐いた。手はギュッと握って、力を込める。


 ――質量は空間を歪めるという。


 孝太郎が想起したのはそんな物理の発見。一人の天才が導き出した世界法則の一つ。彼がここに居たなら、目の前の現象をどう解き明かすのだろうか。

 ウーの向こう、プロペラのすぐ先で見えない何かが集束している。肌を肉を臓腑を、体を外側から吸い取られていくかのような引力を感じる。間違いなくそこに在る、空間を歪ませる重力場、巨大な質量。海が、空が、星明りが、平衡を乱されている。

 それは自分を含む全てが一点を覗き込んでいるかのような、奇妙な感覚。何もかも全て、この世界の全宇宙が彼女の魔力に、魅入られている。


「たっぷりの魔力を固めて、硬めて、堅めて、……手にする。自由の手にする。うちの思う通り動く従順の手にする。――魔法とかじゃない、これは、つまり力任せってやつ!」


 ウーはニヤリと笑った。絶好調という感じで肩を回すと、星落としに手を突き出す。


「うちはこの手をエーテルって呼んでる!」


 それは天才によって否定された概念を指す言葉。もちろん、彼女はそれを知る。

 魔力の手、エーテルは海と空を揺らし、一直線に敵の元へ。風を切る音がプロペラ機を揺らした。

 瞬く間、エーテルが星落としの巨体を丸め込むように鷲掴むと、その感触がウーに伝わる。


「変形してんな、ボコボコしてやがる。トゲの折れたウニみてーだ。……味はどうかな」


 ウーはその手にジワジワと力を込め始めた。いたぶる気なのだ。

 星落としはキシキシとひしゃげ、やがてその中身はゆっくりと、ゼリーのようにひり出されてゆくことだろう。

 その前に、鳴き声が轟く――。


「あー、それは困るんだわ――燃えろヴェルメ


 しかし、断末魔は聞こえない。

 あとに残ったのは灼熱の炎珠、魔法の恒星。巨大質量の魔力が燃焼することで作られた煉獄の棺桶。

 悲鳴さえも呑み込む速度で燃え広がったそれは、夜を昼に変えた。

 星空を隠すかのように拡がった眩しさに、孝太郎は目を細める。


 ――敵も味方も、バケモノか。


 そして、彼の意識はついに暗転した。

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