第16話 期待してはいけない
「ガーゼ」
「はい」
「それとすまないが、動脈の損傷を癒やしの力で塞いでほしい。処置を後回しにすれば、取り返しのつかない出血量になる」
「はい。先生は、肺に刺さった異物を取り除くのに集中していて大丈夫です」
最近、傷付いた野生動物が増えている。
ティリクが森の近辺の散策で発見し、その度に保護しているのだが、取りこぼしが絶対ないとは断言できない。……保護した動物達も、全てが救えているわけではない。
手術を終えたばかりのエルセは、つい休憩室で塞ぎ込んでしまう。
今回保護した狐は何とか一命を取り留めたけれど、かなりひどい怪我を負っていた。
もう少し発見が遅ければ間に合わなかったかもしれない。
元天族とはいえ、ティリクが万能でないことは重々承知している。
自分自身の無力さを棚に上げて全ての命を救いたいだなんて、傲慢なのだろう。
「また、君にそんな顔をさせてしまったな」
手術着から白衣に着替えたティリクが、入口から顔を出す。
エルセは慌てて立ち上がった。
「ティリク先生、お疲れさまでした」
「楽にしていていい。手術後で疲れているのはお互い様だ」
彼は用意してあった水差しから水を注ぐと、一息にあおった。喉仏の動きをぼんやりと見つめる。
「今日の患者は命を繋ぎ止めた。……といっても、君は気にしてしまうのだろうな」
「……手術が成功しても、回復して元通り動けるようになるかは分かりませんから」
助かった命も、助けられなかった命も。
全ての生きものの魂に安寧が訪れることを、そして健やかであることを願う。
聖女ではなくなったけれど、それくらいは許されるだろう。
ティリクは、静かに目を伏せた。
「自分の不甲斐なさに嫌気がさすな。全ての命を救う力があれば、君の笑顔を曇らせずに済むのに」
「そんな、先生はいつも手を尽くしてます」
無力さを落ち込むべきはエルセなのに、彼を悲しませてしまった。
「私の方こそ、何もできなくて。あまりに先生に頼ってばかりで申し訳ないです……」
魔物の大発生をユリに伝えることだって、失敗に終わってしまった。
彼女はエルセの正体について、きっと何かしら勘付いていた。
それならばいっそ、はっきりと予告しておけばよかったのだ。
苦しい別れ方をしてしまった。もう、二度と会えないのだろうか。
後悔から俯くエルセの頭を、ティリクが優しい手付きで撫でた。
「何もできていない、なんてことはないさ。君は魔王陛下の命令を優先すればいいのに、こうして人間の国のために心をくだいているじゃないか」
「私は、心配することしかできません。どんなに心をくだいたって、力がなければ何の意味もない……」
「そんなことはない。現に君が働くようになってから、動物の死亡率が格段に下がった」
「――え?」
思いがけない言葉に、ティリクの手を頭に載せたまま顔を上げる。
彼の眼差しには嘘がなく、エルセを慰めるための方便というわけでもなさそうだ。
「手術中も助かっているが、何より術後の経過がいいんだ。手術というのは、患者の体に負担がかかる。合併症にかかることも少なからずあったのに、君のおかげでほぼなくなった。あの狐も、おそらく三日もすれば回復するだろうな」
回顧している間も、ティリクの手は頭を撫でるのをやめない。
エルセがシアをモフモフする時のようで、色恋というより毛並みを楽しんでいるという方が近い感じだ。
けれど今は、それがとても心地よかった。
「……本当ですか? 私、少しは先生の役に立ててますか?」
「あぁ、十分すぎるほどに。癒やしの力はあらゆる状況に有用だ。君がいてくれるから、よりたくさんの命を救えるようになった」
温かな言葉が染み渡っていく。
ティリクはいつも、エルセの心の重荷を簡単に取り払ってくれる。
同じような優しさを返したいと思うのは、当然の心の動きだった。
「私も、ティリク先生がいてくれてよかったです。こんなに親身になってくれる先生の下で働けて、私はとても幸運ですね」
一瞬嬉しそうにしたティリクだったが、彼はそっと視線を逸らした。どこか後ろめたいような仕草。
「君が思うほど優しくないさ。……私はずっと、人間を憎んでいた」
エルセの心臓が、ドクリと大きく動く。
彼が過去について吐露するのは、これが初めてだった。
おこがましいと願望を押し込めつつ、何度も知りたいと思ってきた。想いを自覚しはじめてからは、聞くことすら恐ろしく感じるようになった。
相反する感情に心が乱れる。それでも、訊きたいと願ってしまうのだ。
「……なぜ、憎んでいたんですか?」
内心とは裏腹に、やけに平坦な声が出た。
ティリクはエルセをじっと見つめると、僅かに笑った。片頬を吊り上げた皮肉げな笑みと、悲しいほど荒んだ眼差し。
胸が痛い。彼の中には、エルセでは到底埋められない穴がある。
「大切な人を失い、絶望したんだ。なのにどれほど憎くても、元天族の性質で他者を救わずにいられないのだから、皮肉な話だろう? ――だから私は獣医になることを選んだ。動物には、罪がないから」
どんな業種であれ、人間を救う仕事はしたくない。だから動物を救うのだと。
王都の外れに居を構えているのも、森を見張る以前に人と離れていたいという理由があるのかもしれない。心に負った傷の深さの表れなのだろう。
頭の中が黒く塗り潰されていく。
穏やかな日々を共に過ごした場所さえ、過去の誰かへの愛情のかたちなのか。
少しずつ築き上げた大事な城が、足下から脆く崩れ去っていくように心許ない。
――期待なんかしないって、決めてたのに……本当に馬鹿だ……。
馬鹿馬鹿しすぎて涙さえ出ない。
みじめで、ちっぽけだ。
何の反応もしないエルセに何を思ったのか、彼は気持ちを切り替えるように笑った。
「すまない、嫌な気分にさせたな。君に報告があって来たんだ」
ティリクは休憩室にやって来た時から携えていたものを、エルセの前に置いた。
銀色のトレイに載せられているのは、緑色の棘だ。ただの棘なのにエルセの手の平よりも少し長い。
綺麗に血は流されているけれど、先ほど狐の体から摘出したもので間違いなかった。
「先ほどの手術で、この大きさの棘が胴体部から三本、前肢から一本摘出された。おそらく植物のものだろうが……ただの棘が肺に到達することなど、本来ならあり得ない」
エルセはゆるゆると目を見開いた。
荒れ狂う思考をねじ伏せるように、頭が冴え渡っていく。
手術中から、見たことのない植物だとは思っていた。
まさか、植物型の魔物ということなのか。
「シアとティルの時は、魔物の仕業という確証がなかったですけど……」
「あぁ。――そろそろかもしれない」
もう他のことを考えるような余裕はない。
はっきり口にせずとも、彼の鋭い眼差しが告げている。
魔物の大発生が起こる日は、近いのだと。
◇ ◆ ◇
それから五日後。
休日を使い、エルセは神殿に来ていた。
魔物に襲われ負傷した狐も、ティリクの予想通り無事回復した。
毎日治癒を注いだおかげで体力の戻りも早く、起きていられる時間が多くなっていた。
ティリクの過去については、今は考えないことにしている。
魔物の大発生に備えて心を乱したくないという理由もあるし、単純に考えたくないと拒む気持ちもある。
好きという気持ちを否定できないなら、せめてこっそり想っていようと決めたはずなのに。いつの間にか高望みをしていたようだ。
――想いが通じたからって、ずっと一緒にいられるわけじゃないしね……。
あんな話を聞いたからか、つい終わりが来ることを考えてしまう。
魔物の大発生を乗り切り、エルシア・フォードの死の真相を調べ終えたら、エルセは魔界に帰るのだから。
人間界に留まれたらという、ささやかな願いがあったのは本当だ。
彼が助手としてのエルセを役に立つと褒めてくれたから、もしかしたら引き留めてくれるかもしれないと。
今思えば大それた願いだった。
魔界には、五年の間に得た居場所がある。
魔王城の医務室を束ねる立場だし、慕ってくれる双子がいる。彼らはきっとエルセの帰りを待っていることだろう。
誰にも必要とされないのに人間界に残ったって、どうしようもない。
だからエルセは、もう何も考えない。
抱いてしまった不相応な想いも全て封じ込めて、魔界へ帰る。
そのために今日、聖堂に来たのだ。
「日差しが強いな。もっと深く帽子をかぶった方がいい」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
エルセのすぐ隣には、日光を遮るようにティリクが歩いている。
できれば、彼の同行も断りたかった。
一緒にいれば辛くなるだけだ。これ以上優しくされたら、忘れられなくなってしまう。
「……先生は、無理に来なくてよかったんですよ? 聖堂までなら絶対迷わないし、それにあの狐さんだって心配でしょう?」
「君と出かけることは、無理の内に入らない。それに容態が急変する可能性は少ないだろうし、ゾフを置いてきたから心配ない」
急変の心配が薄いのはエルセの力のおかげだと聞いているけれど、ゾフに関しては完全にただの嫌がらせだと思う。
フラリと遊びに来ただけなのに留守役を押し付けられた彼の心境を思うと、少し不憫だ。今頃戦々恐々としていることだろう。
ティリクを横目で見上げると、彼はすぐに気付いて帽子の位置を直す。
――ちょっとなら、許されるかな……。
きっと、残された時間は少ない。
だから今だけは、彼に甘えていたい。
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