第12話 今、できること

 前世で抱いた苦手意識とは、簡単にはなくならないものらしい。

 エルセは待合室のモップがけをしながら、長い長いため息をついた。

 アリオ・プレーリオ。

 大商会の次男で、明るく社交的。あの頃よりも背が伸びて、大人の色気にますます磨きがかかっているようだった。

 彼には若干軽薄な面もあったが、その場にいるだけで周囲が華やぐような輝かしさもある。現在は、自分で商会を立ち上げ成功を納めているらしい。

 それでもエルシア・フォードは、なるべく彼と関わらないようにしていた。

 アリオの鋭い瞳は、いつでもエルシアを責めているようだったから。

 ほとんど話したこともないのに、なぜか当初から嫌われていた。だからますます敬遠しがちだった。

 ――たった一日出かけただけで、前世での知り合いと立て続けに会うなんて……。

 このままいけば、遠くない内にユリやフロイシスにまで遭遇するのではないか。そんな危惧さえ浮かんでくる。

 今日は午前中から来院者がないため、つい色々と考え込んでしまう。患者がいないのはいいことなので、到底愚痴など言えないが。

 何度目かのため息をついた時、医院の外から聞こえる元気な鳴き声に気付いた。

 まるで来訪を知らせるようなそれに、エルセは覚えがあった。足早に扉へと向かう。

 医院を出た先には、予想通りシアがいた。その後ろにはティルもいて、彼女はゆったりと歩いている。

「シア、ティル、いらっしゃい」

 エルセは、熊の親子を笑顔で出迎えた。彼らが訪ねて来た時用のごはんを準備する。

 シアは、ごはんなど見向きもせずにエルセに飛び付いてきた。子熊とはいえ重量があるので受け止めるのも一苦労だが、この可愛らしさとモフモフには抗えない。

「フフ。あなた、また大きくなりましたね」

 大人に近付いているのにまだまだ甘えん坊なシアがおかしく、エルセは笑みをこぼす。

 無邪気で可愛い。その上柔らかく温かな毛並みまであるのだから、悩みごとなどあっという間に吹き飛んでいってしまう。

 通常、野生動物といえばゴワゴワしがちのはずが、彼らは頻繁に水浴びをしているらしく極上の触り心地だ。最近は医院を訪ねることで食生活が向上しているのか、ますます進化を遂げている。

「森での暮らしはどうですか? 危険なことがないといいんですけど……」

 答えられないと分かっていて訊ねてしまうのは、魔物の大発生について常に心の片隅で懸念しているからだった。

 何かが起こったとして、一番に被害を受けるのは森で暮らす鳥獣達だ。

 ティリクは、近い将来魔物の大発生は必ず起きると断言していた。

 それを承知しているのだから、本来どんな手段を使ってでも彼らを保護すべきだろう。

 けれど、森に生息する全ての動物達を保護するなど不可能だし、言葉の通じない彼らを引き留めておくことも難しい。

 エルセにできるのは、大発生に備えて対策をするくらいだった。

 とはいえ、対策を立てたのはティリクだ。

 魔物の大発生が起こった瞬間、瘴気を結界に封じ込めてしまうという作戦。

 天族であった当時の力を未だに使えるらしいティリクは、結界が張れる。

 完全に封じることはできないので時間稼ぎにしかならないが、その間に動物達が逃げることは可能だろうとのことだった。

 翼を剥奪されたと言っていたのに、天族の力が使えるというのはどういうことだろう。

 ありがたいことなので事情は聞かなかったけれど、奥深い人だ。

「私にも……何かできることがあれば……」

 エルセは、いつも彼を頼ってばかり。

 不甲斐なさと無力感に苛まれ、再びため息がこぼれる。モフモフに癒やされても悩みごとが次々に湧いてくるのだから情けない。

 できることを考えよう。

 誰かを助けられる自分になれれば、少しは胸を張れるはすだ。

「大規模な浄化ができるのは聖女だけ……」

 ティリクはそうも言っていた。

 御使いの奇跡の力を以てしても、穢れた大地全体の浄化はできないのだという。

 癒やしの力が大地をも癒やすというなら、エルセにも同じ力はある。だが、それは魔力由来のものだ。

 おそらく必要なのは、聖力。

 しかも生半可な量ではなく、圧倒的な力がものを言うのだろう。だからこそ聖女にのみなし得る偉業なのだ。

 エルセにできることがあるとすれば、一つしかない。

 ユリに接触し、魔物の大発生が起こると伝えること。それだけ。

 アリオにも、ましてやフロイシスにもできることなら会いたくない。けれど相手がユリなら、まだ抵抗は少なかった。

 明るく、誰にでも分け隔てなく優しくて。純真で朗らかで。

 エルシアは、そんな少女にうっすらとした憧れを抱いていた。

 ――ユリさんには嫌われてたかもしれないけど。フロイシス様と想い合っていたなら、私なんて邪魔者だったろうし……。

 だが内心はどうあれ、彼女はエルシアにも他の人達と同様に接してくれた。

 誰にでもできることではない。その強さを、とても眩しく感じた。

 ユリは現在、王太子の婚約者として聖王宮に住んでいる。

 会えるとしたら神殿にいる時だろうが、現在は次期王妃になるための教育を受けていて、聖女の役目は停止中だという。

 だとすると、聖王宮に侵入するしかない。

「それに、エルシアだったと気付かれたら、まずいですよね……。やっぱりここは変装した方がいいでしょうか……」

「また変装が必要なのか?」

 優しい声音が降ってきて、エルセは飛び上がる。シアの毛並みに埋もれていたから、接近に気付かなかった。

「ティ、ティリク先生……」

「次の休暇にでも出かける予定か? ならばその時も同行させてほしい」

 エルセが何かを言う前に、ティリクがどんどん予定を決めていく。

 彼は過保護だ。前回一緒に出かけた時も散々助けてもらった。

 けれど、その優しさにいつまでも甘んじ続けるわけにはいかない。

「ありがたいですが、先生の休日を毎回潰してしまうのは申し訳ないので……」

「変装が必要ということは、危ない橋を渡るのではないか? 私が君を一人で行かせるはずないだろう」

 聖王宮への侵入方法など相談したいのは山々だが、まずは自分の力で頑張りたい。

「先生、私は子どもじゃありませんよ」

「そんなことは言われずとも知っている。子どもであろうとなかろうと、単に私が君から目を離したくないだけだ」

 真っ直ぐ目を見ながら宣言するティリクは、どこまでも潔かった。

 僅かも羞恥を感じていないようだが、赤くなるエルセの方が正常な反応だと思う。

 ――め、目を離したくないとか……。

 いい加減惑わすのはやめてほしい。

 このままでは本気で自惚れそうだ。

 エルセは上がりそうになる口角を必死で律しながら、何とか話を変えた。

「そ、そういえば、先生。結界で封じ込めるといっても、私達は瘴気の発生の瞬間にちゃんと気付けるんでしょうか?」

 これが気になっていたのも本当だ。

 瘴気が発生してからの対応が少しでも遅れたら、被害は拡大する。

 色々な状況を想定しておきたいところだが、訓練できるようなことでもないので、だいぶ不安だった。

 国の危機への対策がぶっつけ本番とか、小心者のエルセには荷が重い。

 ティリクは何てことなさそうな顔で、淡々と答えを返した。

「問題ない。言い伝えの通りのことが起きると聞いたから、おそらく国中が気付かざるを得ないだろう」

「言い伝え……」

 エルシアだった時に何度も暗唱させられた言い伝えの内容を思い出す。

 確か『山は枯れ川は赤く染まり、とこしえの闇夜がやって来る』という一節があった。

 本当にそのような状況になれば、確実に国中が混乱に陥るだろう。

 その辺りも怪我人が続出しそうで不安だが、それより彼は気になることを言っていなかったか。

「あの……聞いたって、誰にですか?」

 エルセの記憶が確かなら、以前の魔物の大発生までは二百年ほど遡る。話を聞こうにも不可能ではないだろうか。

「信憑性を疑っているのか? 大丈夫、魔物の大発生を収めた聖女の経験談だ」

「えぇ!?」

 そういえば、聖女は聖人として天界に迎えられると言われている。

 なるほど。人間界では聞くことができなくても、天界ならば可能だろう。

 ただの人間では想像も及ばない世界観だ。何というか、規模が違う。

「じゃあティリク先生は、初代聖女様にもお会いしたことがあるんですか?」

 代々の聖女は、初代聖女を伝説の存在として聞かされている。

 エルセもどんな人物なのか興味があった。

 それなのにティリクは、なぜかひどい渋面を作る。

「……彼女は、そのように目を輝かせて憧れるような存在ではないぞ」

「え? でも、聖人となった方ですし……」

「心を曇らせることなく天寿を全うした聖女は、誰でも天界に受け入れられる」

「でも、私は……」

 エルセは俯いた。それ以上を自分の口から語ることはできない。

 歴代の聖女は聖人として天界で暮らしているというのに、エルセは魔族に転生してしまった。一生懸命頑張ったつもりなのに、使命を全うしたと思っていたのに。

 輝かしい功績を残してきた聖女という存在に泥を塗ってしまい、偽の聖女と罵られても仕方がないような気がしていた。

 頬に指が添えられ、顔を上げさせられる。ティリクの澄んだ青い瞳は、エルセを少しも責めていなかった。

「自分を卑下する必要はない。……私からすれば、君の心映えの方が余程尊いものだ」

「先生……」

 また頬が熱くなった。

 他意はないのだろうが、彼の台詞はいちいち思わせぶりすぎる。

「そ、そんなこと言って、聖女というより子どもみたいな扱いじゃないですか」

「断じて子ども扱いではない」

 頬に触れる指先に、僅かに力が籠もる。

 ティリクはなぜか、すがるような眼差しをしていた。

「決めたんだ、二度と目を離さないと」

「え?」

「……何もできずに失うのは、もう嫌だ」

 浮かれた心が、たちまち萎んでいく。

 そうだ。彼が見ているのはエルセじゃない。昔に失ったという、エルセでもエルシアでもない誰か。

 ティリクのことをもっと知りたいと思っていた。だが今となっては、ほんの僅かな希望の芽を摘み取るようで怖い。

 ――ティリク先生が、好き、だから……。

 もう、自分を誤魔化しきれなかった。

 どんなに押し込めようとしたって、想いは消えない。ふとした拍子に顔を出す。

 貴重な笑みを向けられた時や、熊の親子と張り合う時に見せた子どもっぽい対抗心。泣きそうなエルセを抱き締めてくれた時の、優しい体温。

 彼の態度に心が踊ったり落ち込んだり、些細なことで振り回される。

 一緒にいれば膨らんでいく一方なのに、否定し続けることはできなかった。

「……では、先ほどの話ですが。折衷案ということで、出かけるまでの段取りを頼ってもいいですか? 当日は一人で行きます」

 自力だけで準備をするのは心許ないので、手伝いをしてほしい。こういう言い方をされてしまえば、さすがに頷くしかないだろう。

 案の定、彼は渋々といった体で了承する。

 エルセは胸を撫で下ろした。少しは自分も成長しているらしい。

「先生、いつもありがとうございます」

「お礼を言われるようなことではない。君を助けるのは当たり前のことだし、私自身が頼られることを望んでいるんだ」

 またも真顔で甘い言葉を放たれ、エルセは硬直する。

 彼が背中を向けてくれたので、真っ赤な頬は見られずに済んだけれど。

「休憩にしよう、エルセ。君は患者がいない時でも休んでくれないのだから」

「シア達と遊んでるんだから、今まさに休んでると思いますけど……」

「動物と戯れることを、動物病院では休憩と言わない。君は、シア達を構いすぎだ」

 また熊の親子と張り合おうとするティリクは、拗ねた顔でもしているのだろうか。

 見たいような、ますます好きになりそうだから見たくないような。

 エルセはもう、好きという感情を否定しない。高望みもしない。

 だからせめて、ティリクに気付かれないよう想うだけなら。

 ……どうか、許してほしい。



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