第11話 未来と向き合う時

 慌ただしくグレンダと別れたあと。

 エルセとティリクは、しばらく無言で街道を歩き続けた。

 行きがけは目に映る全てが鮮やかに見えていたのに、街の喧騒がどこか遠い。

 けれど、それでよかった。

 呼び込みや売り子の笑顔に、今はうまく答えられる自信がない。

 もう、ティリクから事前に聞かされていた情報など頭から消し飛んでいた。

 魔物の大発生の方が重要な問題のはずなのに、グレンダの涙が、誠実な態度がいつまでも頭から離れてくれない。

 なぜ、出会ってしまったのだろう。

 いつかはエルシア・フォード時代の知り合いに会うかもしれないと思っていたけれど、こんなにも早いなんて想定外だった。

 まだ全く心の準備ができていないのだと思い知っただけ。

 彼に渡した白い手巾は、返してもらっていない。

 生真面目なグレンダらしく、きちんと洗ってからと拒まれてしまったのだが、まるで再会を約束しているようでエルセはさらに複雑な気持ちになる。

「すみません、ティリク先生。ご迷惑をおかけしました……またあんなに、取り乱してしまって……」

 エルセはようやく、のろのろと口を開いた。前を歩いていたティリクが振り返る。

 あの時彼が連れ出してくれなかったら、エルセは何を言っていただろう。

 グレンダを口汚く罵ったのだろうか。

 誰かを苦しめたいわけではないのに、憎しみというものは際限がない。

 俯き歩みを止めかけるエルセの手を、ティリクが促すように引いた。顔を上げると、彼の静かな眼差しにぶつかる。

「私のことは気にしなくていい。……それだけ、君が辛かった証拠だ」

「そうでしょうか……」

 優しい言葉をつい否定してしまうくらいには、自己嫌悪に陥っている。

 聖女と認められて、知人の後悔を聞いて。

 偽の聖女と国中から蔑まれているのではという予想より、はるかにましな状況だったにもかかわらず……エルセの胸中は、晴々しいとはほど遠い。

 嫌われても親しまれても苦しいだなんて、ひどく我が儘を言っているような気がした。

 他人を恨んでばかりで、醜い。

 それなのに、彼はエルセを否定しない。

 ティリクには、エルセ自身言い表すことのできない感情のわだかまりを、見透かされているようだった。

 彼の澄んだ青い瞳が、軒を連ねる商店へと向いた。

「……どんな自分になりたいのかを、考えてみるといいかもしれない」

 彼の横顔からは、感情が窺い知れない。

 人々の営みを、生気に満ち溢れた笑顔を、どんな思いで見つめているのだろう。

「過去に囚われず生きよと、言うだけならば簡単だ。その方法が分からないから、人は迷うし思い悩む。だが、漠然とであっても理想の自分を描くことができれば、きっとそこに向かって邁進していけるだろう?」

 彼が口にしたのは、元天族らしい助言だ。

 確かに、死の瞬間の静かな失望には、自分に向けられた感情もあった。

 なぜもっと、誰かに分かってもらおうとしなかったのだろう。

 なぜ不満を全て呑み込み、弱いままで諦めた。どうせ愛されていない自分は、庇ってもらえるはずがないと。

 誰よりエルシア・フォードという人間を嫌っているから、エルセはあんなにも取り乱してしまったのかもしれない。

 もう傷付きたくないという思いは、裏返せば誰にも傷付けられたくないということだ。

 傷付くほど弱いままでいたくない。

 いつだって、もっと強くなりたいと願っているのに。

 ティリクが立ち止まるのに合わせ、エルセもまた足を止めた。

 誰にも話したことがないため、たくさんの勇気が必要だったけれど、彼にこの決意を聞いてほしかった。

 紫色の瞳で真っ直ぐにティリクを見つめる。淡い色合いなのに、そこには確固とした覚悟がみなぎっていた。

「私は……強くなりたいです。そして、自分をもっと好きになりたい」

 エルシア・フォードであった頃の弱い自分さえ、胸を張って誇れるようになりたい。

 自分を認められれば、心はもっと解放されるはずだ。その時はきっと、今より思うままに笑って、楽しんで生きられる。

 夢を膨らませていたエルセは、ティリクの視線に気付き我に返った。

「あっ! す、すみません! 私、いつも自分のことばかりで、煩わせてしまって……」

 冷静に考えてみれば、他人の決意表明など聞かされても迷惑なだけだ。

 ティリクはあくまで、部下に対しちょっとした助言をしたまでなのに。

 慌てて頭を下げようとしたところで、エルセはふと考えた。

 今まで通り謝罪をしているだけでは何も変わらない。こういう時、一般的には感謝を伝えるという選択肢もあったはずだ。

 エルセは、ぎこちなく口角を引きつらせながらも笑みを作った。

「その、それと……いつも話を聞いてくれたり、こんなことにまでお付き合いしてくださったり、本当にありがとうございます」

 何となく、卑屈じゃない対応ができたような気がする。

 内心ドキドキしていると、ティリクもほんの少しだけ笑みを見せた。

「私にとっては大したことではないから、気にしなくていい。君の気分を晴らす一助となれたなら、よかった」

 いつも助けられている。支えられている。

 そう口にするのは気が引ける。ただの同僚にしては、あまりに重すぎるだろう。

 ――たぶん、人間界に一人も友人がいないから、気にかけてくれるんだろうな。先生は優しいから……。

 しっかり自分に言い聞かせないと、また勘違いしてしまいそうだ。ティリクの優しさは心臓に悪い。

「そ、そんなに心配しないで大丈夫ですよ。落ち込んでも、シアやティルを撫でれば元気になれますから」

 元気になった熊の親子は、退院した今も時々遊びに来てくれていた。

 考えごとの時などモフモフするのが癖になっていたので、いつもごはんを用意して歓迎している。特にシアは、治癒を施したからかとても懐いていた。

 陽だまりのような匂いのする毛並みを思い出していると、ティリクに再び手を引かれた。彼は迷いのない足取りで目の前の店舗に入っていく。

「せ、先生?」

 エルセが戸惑ったのも一瞬だった。

 それなりに大きな店舗の中は、可愛らしい雑貨で溢れていた。

 ビーズや硝子で作られた、比較的安価な装飾品。木彫りの髪飾りやブローチ、鮮やかな色味のストール。

 どこからか漂う花の香りを辿れば、奥には香水が並んでいた。頬や唇を彩る紅や、美しい容器に入った白粉、石鹸。これらはおそらく高級品だ。

 夢のような空間に気後れすることさえ忘れ、エルセは呆然としてしまう。

「何か気に入るものがあれば、私が買おう」

「へっ!? いえそんな、もらえません!」

 突然、理由もなく贈りものを提案されれば、誰だって驚く。

 勢いよく首を振って固辞しようとするが、ティリクはなぜか不満げだ。彼の思考回路が分からない。

「……あの、急にどうしたんですか?」

「エルセにとって、私はシアやティルに劣るのか。私だって君に頼られたい」

 真顔で告げられた言葉に、目を見開く。

 次いで頬がじわじわと熱くなってきた。なぜ彼は、勘違いを悪化させようとするのか。

『特別』じゃないと心の中で唱えるのも、これで何度目だろう。

「た、頼ってます。もう本当に、十分すぎるほどです」

「いいや、足りない。君は控えめすぎる」

「本当ですってば。先ほどの、グレンダ様と話している時だってそうです。どこかから、見守ってくれていたんでしょう?」

 突然姿がなくなったことを、当初は少し恨めしく思った。けれど、あれもエルセのためだったのだと今なら分かる。

 誰かの陰に隠れたままでは、過去と真正面から向き合えない。

 きっと突き放したのではなく、背中を押してくれたのだ。

 むしろ少々ふらついたくらいで姿を見せたので、彼は過保護な部類だろう。

「十分、もらってます。過去と向き合う勇気をくれて、本当にありがとうございました」

 これ以上は何もいらないと頷いてみせる。それなのに、彼は難しい表情を崩さない。

「……未練は、あるのか?」

「はい?」

 囁き程度の声音に、思わず訊き返す。

 ティリクは珍しく視線を彷徨わせた。

「…………元婚約者に、未練はあるのか?」

「フロイシス様ですか? 未練というか、恨みは若干ありますけど」

 とはいえ、直接恨み言を吐きに行くほどの関心ももはやない。

 そこまで信頼していなかったため、裏切られたとも思っていなかった。

 というか、なぜ急に彼の名前が出たのだろう。過去と向き合う上で素通りできない相手だからか。

 不思議に思って見守るエルセに、ティリクはかすかな笑みを浮かべた。そこに宿るのは、明らかな安堵。

 ――え、一体何に? 私の中に、フロイシス様に対する未練が全くないことに……?

 エルセは目を見開いたまま、悶えそうになる衝動を必死に堪えた。

 何て人だ。何て、心を揺さぶる。

 ――もうこれ、たとえ勘違いだとしても、私は悪くないと思う……。

 よろけかけたエルセは壁に手を付いた。

 早く呼吸を整えなければ、心臓が家出したまま帰って来なくなる。

 そこだけ商品棚がなく、空白になっていた。壁には、頭が三つあるカラスが羽を広げている図案。

 それは、どこかで見覚えがあった。

「――おい親父。用件がそれだけなら、俺は自分の店に戻るぞ」

 突然、店舗奥のスイングドアが開いた。

 乱暴な口調と足取り、不機嫌そうにしかめられた顔を確認するなり、エルセはティリクの陰に隠れる。

 ほとんど条件反射だった。

 系列店の印であるカラスの商標に、道理で見覚えがあるはずだ。

 きつい癖のあるダークブロンドと、夕焼け色の鋭い瞳の青年。

 なめらかな褐色の肌はこの国には珍しく、どこにいても視線を惹き付けてやまない。

 ロアーヌ聖国内に知らぬ者はいないだろう屈指の大商会、プレーリオ商会。青年は、そこの次男だった。

 アリオ・プレーリオ。

 ほとんど言葉を交わしたことはないけれど、彼もまたフロイシスの友人だった。



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