第10話 誰が聖女のために祈るの
グレンダ・ドルカとの会話で印象に残っているのは、エルシアとの定期交流にフロイシスが大幅に遅刻していた、ある日のもの。
聖王宮の庭園でゆっくりと紅茶を飲みながらも、エルシア・フォードは気詰まりな時間を過ごしていた。
婚約者となってから、仲を深めるためという名目でフロイシスとの定期交流が設けられているけれど、彼は頻繁に遅刻する。
原因は分かっている。
好きでもない相手に時間を使いたくない。そんな、利己的で幼稚なもの。
愛がないのはエルシアも同じだから、気持ちは理解できる。
けれどこれは聖王陛下の命令の下で行われているのだ。私的な感情など許されない。
フロイシスが到着するまでの時間繋ぎに選ばれてしまったグレンダも、さぞ困っているに違いない。
対面にちらりと視線を送るも、彼は完璧な無表情を保っている。正直、困っているのか腹を立てているのかさえ分からない。
「……あの、本当にすみません。忙しいでしょうに、お付き合いさせてしまって」
いつもの臆病なくせで、エルシアは何かを言われたわけじゃないのに謝ってしまった。
じっとテーブルを見つめていたグレンダが、しかつめらしい顔のまま視線を上げる。
「これも任務の内ですので、謝っていただく必要はございません。むしろ、殿下がいつもご迷惑をおかけして、こちらこそたいへん申し訳ございません」
丁重に謝り返されたエルシアは、ますます居心地が悪くなった。
相手は伯爵家の四男。
逞しくやや無骨な容姿であるにもかかわらず、洗練された高貴さがにじみ出ている。
エルシアの付け焼き刃な敬語とは比べるべくもないが、まるで自らの至らなさを遠回しに指摘されているようだった。そもそも貴族に謝罪をされる方が肩身が狭い。
再び、気まずい沈黙が落ちた。
田舎の貧しい農村で生まれ育ったエルシアは、昼下がりに紅茶を嗜むという習慣に馴染みがない。
紅茶が庶民の手に届かない嗜好品だからというだけでなく、農村ではどんなに幼くても労働力として換算されるからだ。大人も子どもも一日中働くのが当然だった。
非力な上、指示をもらえないと動けないエルシアは、対して役に立てなかったけれど。
貴族というのは男女問わず、きっと紅茶を飲むという行為が習慣化しているのだろう。
そう思ってグレンダをこっそり観察していたのだが、何だか少しずつ様子がおかしくなってきた。
一切手の付けられない紅茶に、落ち着きなく彷徨いだす視線。そして何より、無音で行われる高速の貧乏揺すり。
はじめは、平民にすぎないエルシアとテーブルを共にしたくないからだと思っていた。命令ゆえ従っているだけで、不本意であるのだぞと示すように。
けれどグレンダは、彼の傲慢な主人とは少々違っているようだった。
それらはエルシアへの主張ではなく、むしろ無意識に行われているように思う。
なぜなら、何度も口を開こうとし、失敗しているからだ。ただの平民であるエルシア相手に、まるで言葉を選んでいるかのように。
――な、何を言おうとしてるのかな……。何だかものすごく気になってきた……。
気詰まりなだけだった茶会の場が、互いに無言のまま白熱していた。
異様な緊張の高まりを感じて、エルシアもつい固唾を呑んだ。
グレンダが、ようやく言葉を発した。
「……その、気が利かない人間で申し訳ございません。いつも稽古ばかりしているので、こんな時どんな話をすればいいのか、分からないのです」
謝罪に意表を突かれ、目が点になった。
もしやこちらも、つまらないから黙っていると誤解されていたのだろうか。
「あああの、私こそ失礼があってはいけないと何も喋らず、逆に失礼でした! 気が利かないなんて、そんな滅相もないです!」
「いえ本当に、こちらこそ逆にお気を遣わせてしまい申し訳ございません。鍛練のことしか考えていないと、家族にも呆れられているくらいなので……」
「ひ、一つのことに夢中になれるのは、素晴らしいことだと思います!」
謎の謝罪合戦は、エルシアの薄っぺらい褒め言葉によって終結した。
今までずっと無表情だったグレンダが、暗い表情で俯いてしまったからだ。
人の顔色ばかり窺って生きてきたエルシアは、すぐに察した。自分は、彼の地雷を踏んでしまった。
さぁっと顔色を変えるエルシアに気付き、グレンダは申し訳なさそうに笑った。
「本当に、気にしないでください。褒められるに値しないと感じてしまうのも、結局は俺自身の問題ですから。……グレンダという名前、おかしいとは思いませんか?」
エルシアは何とも答えようがなかった。
グレンダというのは、女性名だ。
「俺の両親は、娘が欲しかったそうです。ですが男ばかり立て続けに生まれ、最後の望みを託した四人目の俺までもが男。大層がっかりしたそうです。そして、せめてもとこの名前を付けた」
愛くるしい容姿で生まれたグレンダは、両親にとても可愛がられたという。
だが成長するに従い、それが娘扱いだと分かるようになっていく。
自分は男なのに。
グレンダは両親への反発心から、男らしさを追求するようになった。
両親が悲しそうに反対するから、なおさら女性とは程遠い外見にこだわった。
「なので鍛練は、好きでやっているというより、ほとんど意地なんです。両親に男と認められたいがために努力している」
エルシアは、彼が語る事情を真剣に聞きながらも内心困惑していた。
なぜ、ほとんど話したこともないような人間に、それを打ち明けるのか。むしろ接点がないからこそ話せたのだろうか。
はっきり言って荷が重い。
エルシアは薄っぺらい人間なのだ。
嫌われないように、軋轢を生まないように生きているだけだから、当たり障りのない励まししか思い付かない。
「……お、男らしさを極めようと考えること自体、グレンダ様がご両親の押し付けに囚われている証拠じゃないでしょうか」
彼が弾かれたように顔を上げるから、エルシアは怒鳴られるのではないかと怯えた。
「す、すみません。私などにこんなことを言われても、不快ですよね。グレンダ様らしく生きていれば、その内ご両親も認めてくださるのではないかと思ったまででして……」
慌てて謝り、それきり頭を上げられなかった。怒っているかもしれないと思うと、目を合わせられない。
彼の方もまた黙り込んでしまい、その内にフロイシスが全く悪びれない様子でやって来て、その場はうやむやになったのだが――。
◇ ◆ ◇
あれ以来、グレンダとまともに話す機会は、ついぞ巡ってこなかった。
異世界からユリが現れ、エルシアは偽の聖女と囁かれることを恐れて神殿に引き籠るようになり。
……フロイシスの友人であり側近だったグレンダは、彼の言葉を鵜呑みにして、エルシアを疑うようになり。
祭壇の前で泣きはらす大柄な騎士を、エルセは一先ず外の長椅子へと誘導した。
いつの間にかティリクの姿はなくなっていた。近くにはいてくれているだろうが、少し薄情だ。エルセだってどうするのが正解なのか分かっていないのに。
正直関わりたくなどないけれど、このまま放っておけなかった。そういう性分なのだ。
それに、彼がなぜここまで泣いているのか、その理由を知りたい。なぜわざわざエルシア・フォードの参拝に訪れたのか。
「……あの、よかったらこれ、お使いください。まだ一度も使ってないものなので」
思い出の中よりもずっと精悍になったグレンダに、白い手巾を差し出す。
麻製の安価なものだが、彼はしっかりと感謝を告げてから受け取った。
真面目で、愚直で。
容貌はずいぶん雄々しくなったけれど、中身はあまり変わっていないようだ。
正面に立った状態だと顔がよく見えてしまう。エルセは、距離をとりながらも同じ長椅子に腰かけた。
「あの……失礼ですが、お仕事に戻らなくて大丈夫なんですか?」
鎧を着込んだグレンダは、明らかに職務中と分かる出で立ちだ。もしかすると、休憩の合間に来たのだろうか。
「あぁ、問題ない。……すまなかったな。見苦しいところを見せてしまった」
「いえ……」
相変わらず無難な言葉を探してしまいそうになり、それではいけないと思った。
今の自分はエルセ・ソルブリデルだ。
「――なぜ、泣いていたのか、聞いても?」
真っ先に訊きたいことに切り込むなんて、今まででは考えられないことだった。エルセは緊張ぎみに返答を待つ。
しばらく黙っていたグレンダが、遠くを見ながらポツリと呟いた。
「……自分は、かの聖女の生前を知っている。亡くなったあとに祭り上げても、あの方の心は決して報われないだろうにと、つい考えしまってな」
エルセは意外に思って目を瞬かせた。
当時を知る人物が、そんなふうにエルシア・フォードを慮ってくれるとは思わなかった。彼だってユリを指示していたのに。
「エルシア様がどれほど真摯に己の役割と向き合っていたか、自分も含め……誰も見ようとしなかった。どれほど称えても、あの方にはもう届かない」
堅物で潔癖なグレンダは、曲がった行いが許せない人間だ。
ユリが真の聖女ならば、間違ったことは正されるべきと本気で考えていた。それが、いかに視野の狭いことでだったか。
「あの方もまた真の聖女であったと、今は痛感している。聖女が一人でなければならないなんて、そんな道理はないのだから」
たとえ前例がなかったとしても、彼女の努力が見てみぬふりをされるなんて、許されないことだった。
グレンダはずっと己を恥じ、悔いている。
騎士の誇りを胸に生きてきた。
剣を捧げたフロイシスを護り助け、彼に従うことこそが生きがいだった。それは今でも変わっていないけれど。
……唯一、自身の中に罪があるとするならば、それはエルシア・フォードのかたちをしているに違いなかった。
だからこそ、彼女の控えめな笑みを思い出すたび胸が痛むのだろう。
少しでも彼女の心が救われることを願って、グレンダは聖堂に通い祈り続けている。
そのたび己の弱さと向き合うことになったとしても、やめるつもりはなかった。
「……なぜ、こんなことまで話してしまうのだろうな。あなたは少し、聖女エルシア様に似ているのかもしれない。声や、悩みごとを聞いてくれそうな優しい雰囲気が」
呆然と理由を聞いていたエルセは、ほんの僅かに見せた彼の微笑に目を見開く。前世ですら見たことのなかった柔らかな表情。
動揺が隠せない。
エルシアに重ねられたのだから、すぐにでもこの場を立ち去った方がいい。なのに足が動かなかった。
グレンダに対してどんな感情を抱けばいいのか分からない。
エルシアは死の瞬間、失望していた。
それはひたすら静かなものだと思っていたけれど、こうしてエルシア・フォードのために涙を流して悔いるグレンダの姿を見ていれば、激しい思いが込み上げてくる。
助けてくれなかったくせに。
信じてくれなかったくせに。
彼にぶつけるのは違う。むしろ五年が過ぎても懺悔をしているグレンダは、もう許されるべきだろう。エルセならばそれを与えられるかもしれない。
なのに――――。
頭がクラクラして、自分が立っているのか座っているのかさえ分からない。
グラリと揺らいだエルセの上体を支えたのは、隣に座るグレンダではなかった。
「――こんなところにいたのか」
どこに潜んでいたのだろうか。
長椅子の後ろから肩に手を置くのは、姿を消していたはずのティリクだった。
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