第9話 建国史
人の気配が遠い個室内に、ティリクの押し殺した笑い声が密やかに響いた。
「本当に……打てば響くようだな、君は」
穏やかな語り口に、ゆったりとした仕草。
一見何気ない話でもしているかのような態度だけれど、彼はとんでもなく物騒なことを考えている。それが分かる。
エルセは慎重に問い質した。
「先生は……神殿の言い伝えを、ご存知なんですね?」
元天族であれば当然かもしれない。
知っているから、動物達の怪我に関連付けて推測することができたのだろう。
エルシア・フォードだった頃、聖女に選ばれた際に教えられたことがある。
王族と神官長、そして聖女のみに代々伝えられる口伝。
祝福に満ちた国、ロアーヌ聖国。
肥沃な土地と穏やかな気候に恵まれ、大きな災害も起こらない。それは、唯一神の加護のおかげであると言われている。
だからこそ国民は唯一神に常に感謝を捧げながら生活しており、信仰も篤いのだ。
けれど、唯一神の加護というものが比喩表現やたとえ話でないことは、国民に知らされていない厳然たる事実。
当時、ここはやせた土地しかなかった。
耕しても耕しても実りは少なく、何とか収穫しようとするたび豪雨に見舞われ川が氾濫し、全てが台無しになる。
そんなことの繰り返しだった。
貧しい場所では動物達も住み着かず、人間は飢えていく一方。
そんな時、一人の若者が神に願った。
豊かな土地を、誰もが笑って生きていけるような暮らしを。日々の安寧を。
神は、私欲ではない願いに心を打たれ、若者の願いを叶えることにした。
安定した実りを、頑張った人間が必ず報われるような暮らしを。日々の喜びを。
人々は神を唯一神とし、祀った。
その場所を国とし、若者を聖王と呼ぶようになった。
けれど平穏は三百年で途切れる。
唯一神が理をねじ曲げたことにより、歪みが生じてしまったのだ。
ロアーヌ聖国に初めて、瘴気という負の凝ったものが発生する。
瘴気からは、魔物と呼ばれる醜い姿の生きものが大量に出現した。
それは豊穣の反動。
いわば、豊かな恵みと引き換えにした、大地の悲鳴なのかもしれない。
山は枯れ川は赤く染まり、とこしえの闇夜がやって来た。
何が起こっているのか分からないまま、国民が次々に倒れていく。そんな中、一人の少女が現れた。
少女は、不思議な力で傷付いた人々を癒やすことができた。魔物を消滅させ、何より、瘴気を浄化することができた。
国は救われ、彼女はのちに聖女と呼ばれるようになった――。
それが、極秘とされている建国の歴史。
ロアーヌ聖国にのみ癒やしの力を持つ少女が生まれるのは、国を加護する唯一神が自らを信仰する人々のために授けた、『災いに打ち克つための存在』だかららしい。
これ以降ロアーヌ聖国では、何百年かに一度の周期で瘴気の噴出と魔物の大発生が起こるようになったが、それを抑えるのが代々の聖女の役割となっていった。
ちなみに当時の聖女と国王が結ばれたことから、現在も聖女が王族と結婚するという習わしが残っているのだが、それはさておき。
エルセは、再びティリクに問いかけた。
「魔物の大発生が起こると――ティリク先生は、そう思っているんですね?」
森のどこかで瘴気が発生しはじめているのではないか。後々魔物の大発生が起こる、その前兆なのではないかと。
確かに、魔物が一挙に出現するとは限らない。瘴気が少しずつ凝っていくように、魔物も徐々に数を増やしていくのかもしれない。
だとしたら、既に魔物が存在していてもおかしくはないのだ。
その魔物に襲われ動物達が怪我をしたという可能性も、決して否定できない。
彼の答えを待つ緊張感が高じて、エルセはいつの間にかこぶしを握っていた。手の平にはじんわりと汗がにじんでいる。
デート気分など、とうに吹き飛んでいた。
こんなの、誰が聞いているかも分からない料理店でする話ではない。平然としているティリクが少し恨めしい。
彼は、ようやく口を開いた。
「それらは、言ってみれば後付けの証拠にすぎない。もっと単純な理屈……そうだな、元天の御使いだからこそ、分かることがある」
動物達の怪我を、すぐさま魔物の大発生に繋げたわけではないらしい。
「人間族だった頃の感覚が強い君には、少しややこしい話かもしれないが。――聖女の存在そのものが、魔物の大発生が起こるという証左になるんだ」
「聖女が、いるから……?」
突然聖女という単語が飛び出し、体が強ばる。エルシア・フォードを前世に持つ身としては、魔物の大発生と関係があるかもしれないというだけで恐ろしかった。
冷たくなっていく指先を、ティリクがそっと包んだ。
「すまない、言い方が悪かった。だが、君も知っているだろう? 聖女とは、常に世に存在するわけではない」
「あ……」
彼の言う通りだった。
そういえば、時代によっては聖女が現れないこともあると神官長から聞かされていた。
「エルシア・フォードの先代は……私の記憶が正しければ、二百年ほど前に遡ると……」
「大規模な浄化を行えるのは聖女だけだが、魔物の大発生に合わせたようにそんな少女が現れること自体、実に奇跡的だと思わないか? そう、まさに唯一神が人々に与えた、奇跡そのものなんだよ」
魔物の大発生が起こる時に限って都合よく聖女が存在するなんて、言われてみればできすぎている。
エルセはグラスの水を一口飲んでから、もう一度ティリクを見た。
その際、二人の指先が触れ合っていることにようやく気付き、慌てて自らの手を膝の上へと戻した。
「つまり、こういうことですか? 魔物の大発生が起こるからこそ、聖女が現れる。聖女がいる時代だからこそ、魔物の大発生が必ず起こると言える」
「聖女の力は、与えられるべくして与えられたと言ってもいい。平和な時代に奇跡など必要ないから」
これは正しく、天族の視点だ。
何だか恐ろしいことを知ってしまった。
「そろそろ料理が運ばれてくるようだし、難しい話はこの辺にしておこうか。だが――」
にこりと微笑み、ティリクは付け加えた。
「今日の聖堂見学は、その事実を踏まえた上で楽しんでほしい」
楽しめるはずがない。という心の叫びを、エルセが口にできるはずもなく。
せっかくゾフが作ってくれた料理だが、本当に申し訳ないことに、何を食べたかあまり記憶にない。
規則正しく並んだ窓。所々ひび割れた外壁から漂う、圧倒的な歴史の匂い。
小尖塔の向こうには、さらに壮麗で大きな尖塔が二つ並んでいる。その奥にあるのが神殿に勤める者達の居住区だ。
国民から癒やしの神殿という通称で親しまれている、ロアーヌ聖神殿。
エルシア・フォードがその生涯のほとんどを過ごした懐かしい場所。
まずは、いつでも解放されている聖堂に向かう。事前にティリクから教えられていたように、まるで祭りのような賑わいだった。
「まさか、この方々は……」
「おそらく拝礼に集まっているのだろうな」
何を、と問いはしない。
エルセとてエルシア・フォードの聖なる遺体とやらを見に来たのだから。
聖堂へと続く列はゆっくりと進んでいく。
高くて広々とした身廊に入った。
身廊の側面上部には採光用の高窓が並んでおり、そこから午後の柔らかな日射しが差し込んでいる。
窓と窓を遮るようなかたちで円柱が壁面を支え、その一つ一つに天の御使いの優美な姿が彫刻されていた。
最奥の祭壇に、ステンドグラスの神秘的な光が降り注いでいる。中心から放射状に設計されており、まるで瑠璃色の花が咲き誇っているかのようだ。
朝と夕方の礼拝の合間だからか、神殿関係者の姿はない。エルセはホッと息をついた。
知り合いには変装を見抜かれるかもしれないという不安もあるが、五年分成長した彼らを見て自分がどんな感想を抱くか分からないというのが大きい。
成長を祝福できるならまだいいが、生を謳歌する姿に嫉妬を感じてしまったら、自分自身に失望する。
色々と考え込んでいる間に、エルセ達の拝礼の順番が回ってきた。
人が多すぎるため、知り合いでもない五、六人が横並びで整列する。
膝をついて拝礼する動作が揃えたようにぴたりと合って、何だか不思議な感覚だ。
――不思議といえば、まさに目の前に横たわってるんだけど……。
安置された棺の中には、少女がいた。
平凡な茶色の髪。もう永遠に開くことはないけれど、瞳の色は緑色だった。
聞いていた通り傷一つなく、まるでただ眠っているだけのような。
――本当に、妙な気分。自分の遺体と向き合っているなんて……。
隣の青年は熱心に祈りを捧げているようだが、とてもそんな気になれない。
形式的な祈りを捧げ立ち上がりかけたところで、エルセは目を瞬かせた。
隣にいた青年が、ボロボロと涙をこぼしていたからだ。
感動のあまり、というふうではない。
なぜだかひどく悔しそうに、込み上げる怒りを何とか押し殺すようにして。
しばらく呆気にとられていたエルセだったが、不意に気付いた。
短く刈り込まれた茶髪に、琥珀色の瞳。大きな体躯を包むのは、近衛騎士団の鎧。
たくましく成長しすぎていて気付くのが遅れた。エルセは、彼を知っている。
グレンダ・ドルカ。
王太子であるフロイシス・ロアーヌの友人にして、側近。エルシアともそれなりに交流があった。
実はエルシア・フォードとは、偽の聖女なのではないか。
……そんな噂が流れはじめた時、背を向けた内の、一人。
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