第8話 心浮き立つ休日

 神殿行きは決定したが、エルセの意気込み通り次の休診日に、とはいかなかった。

 ティリクにも言われた通り、エルシア・フォードとは色合いが異なるだけで顔の造作は変わらない。棺に眠る遺体と同じ顔をさらして歩けば、どうなるか分からなかった。

 季節は初夏からゆっくりと移行している。さすがに外套を着込むのは不自然だ。

 悩むエルセに、ティリクは自然な変装を提案した。そのため準備の時間が欲しいと。

 そんなわけで、エルセ達が神殿に向かったのは、歩けば少し汗ばむような陽気になってからだった。

 癒やしの神殿近くは住宅街になっており、それゆえ商店も多い。

 久しぶりの街中は、活気があってとても刺激的だった。

 極彩色の果物を扱う店や、新鮮な精肉が並んだ店。面白い骨董品や衣料品、どこからともなく漂ってくる香ばしい匂いにあちこち目移りしてしまう。

 変装といっても、エルセが身に付けているものといえば木目のヒールがお洒落なサンダルに、淡い水色が涼しげなサマードレス。銀髪は緩く編んで肩に流し、頭にはつばの広い帽子。

 顔を隠すものは銀縁の眼鏡くらいだが、前世では決してしなかった少女らしい格好のためか、誰にも振り返られることがないのは少し不思議だ。

 まるで、聖女の存在しない異国の市場に迷い込んだかのように錯覚する。

 軒先の鳥籠に、腹部が黄緑色の鳥を発見し、エルセの足は勝手にふらふらと吸い寄せられてしまう。

 手を引いてその場に縫い留めたのは、ティリクだった。

「あ……すみません、先生」

「君が楽しそうにしていて、嬉しいくらいさ。だが、はぐれては困る」

 緩く首を振る彼の方こそ、楽しげにエルセを見下ろしていた。

 ばつが悪くなって解こうとした手を、なぜかティリクが握り直した。指と指とが絡んでいるため簡単には外れない。

 ポカンとするエルセに、彼は珍しく笑い声を上げた。快活な声が高く澄んだ蒼穹に吸い込まれていく。

「これで、絶対にはぐれないだろう?」

 ティリクは、呆然としたままのエルセの手を引いて歩き出した。

 彼の背中を追っていれば人にぶつかりかけることもなくなる。

 もう、どれほど素晴らしいものも目に入らなかった。

 エルセの視界も、心も、ティリクだけに占領される。

 絡まる指先で二人の体温がゆっくりと溶けてゆき、心臓が鳴りやまない。

 太陽の下で見るティリクが新鮮だからだろうか。明るい笑顔も、金色の髪も、きらきらと輝いて見える。

 日射しのせいじゃなく頬が熱い。

 彼は柔らかく目を細めながら振り返った。

「この子だろう、君が見惚れていたのは」

「え、あ、はい」

 いつの間にか、先ほど見入っていた鳥籠の前に誘導されていた。

 可愛らしい鳥はエルセの手の平くらいの大きさをしている。腹部だけくすんだ黄緑色で、それ以外は茶色の縞模様。

「この子は、カナリアだな」

「カナリア?」

「あぁ、とても綺麗な声で鳴くらしい。最近はこういった鳥を家族に迎える家が増えているんだ。変わったところでは、蛇やトカゲといった爬虫類か」

 エルセには考えられないが、愛好者はいるのだろう。いつかは医院にも患者としてやって来るかもしれない。

「へ、蛇やトカゲ。勉強になります……」

 引きつった笑みを返せば彼は噴き出した。

「休みの日くらい、肩の力を抜けばいい。何なら敬語でなくても構わないぞ」

「む、無理です無理です!」

 エルセはブンブンと首を振った。

 ただでさえ繋いだ手を意識しすぎているのに、これ以上浮かれるわけにはいかない。

 ……デートみたい、なんて勘違いをしてしまいそうだ。

 エルシアだった頃のことを思い出す。

 神殿勤めの少女達は、唯一神に仕えているとはいえ生涯独身という決まりはない。

 中には、たまの休みを使って恋人に会ってきたと話す少女もいた。

 食事をしたとか、何を食べるか迷った末に彼が両方頼んでくれたとか。以前から欲しかったものを贈ってくれたとか、彼が記念日を忘れていたことで喧嘩になったとか、本当に他愛ない話を。

 頬を染め、華やいだ雰囲気で。

 それを横目で眺めながら、いかにも幸せそうだと思ったものだ。

 前世の記憶を、何でもない穏やかな思い出を、こんなふうに懐かしむようになるなんて、以前のエルセでは考えられなかった。

 心に一筋の光が射し込んだように、晴々とした気持ちだ。

 怯えて縮こまっていた手足を自由に伸ばしているような。

 まだ、不安も恐れもある。

 けれどいざ向き合ってみたら、見ないふりをしていた中には優しい記憶もあった。

 理知的な神官長の瞳と、それが柔らかく綻ぶところ。共に働いた見習い達からの信頼に、思いやり。

 エルシア・フォードの人生は、決して辛いことばかりではなかった。前世の記憶は、エルセを呑み込んだりしなかった。

 それに気付けたのは養父であるウォルザークと、今目の前にいる彼のおかげ。

 ティリクが、再びあの眩しく感じる笑顔で振り向いた。

 今度は何だろうと周囲を確かめ、エルセは人通りが少なくなっていることに気付く。

「先生? 神殿に行くんじゃ……」

「その前に、腹ごしらえをしよう。君をここに連れてきたかったんだ」

 彼が示す先には食事店があった。

 前世と今世を合わせても足を踏み入れた経験がないような高級感が漂っている。

 ティリクは、しり込みするエルセの背中をやんわりと押した。

「大丈夫、堅苦しい場所ではない。むしろ君も親しみを感じるはずだ」

「ど、どこに対してですか……」

 消極的な抵抗などなかったことにされ、店内へと案内される。

「いらっしゃいませ」

 すかさず現れた支配人風の男性に、エルセはどこか既視感を覚えた。

 シャツのボタンは一番上まできっちり留められ、筋肉質な体を黒の上下が包んでいる。撫で付けられた茶色の髪に、しっかりとした顎に似合うひげ。

「……ゾフさん!?」

 声を上げたあとで、慌てて口を押さえる。

 支配人風の男性は、禁欲的な雰囲気をあっさり捨て去り笑った。

「いい反応だな、エルセちゃん」

「え、え? ゾフさんは、ここで働いてるんですか?」

「いんや、ここは俺の店。元々は料理を作る側だったんだが、『自分の店も持てない男とは結婚しない』ってかみさんに宣言されてこんなことに。一応料理の考案だけは今でもしてるんだぜ」

「へぇぇぇー……」

 驚きすぎて感嘆の声しか上げられない。

 ゾフの熱烈な愛妻ぶりにも、強めで格好いい彼の妻にも。

 隣でティリクが楽しそうに笑う。

「ほら、親しみを感じただろう?」

「おうおう! ロイスを助けてもらった礼に、今日は俺がとびっきりうまいもの食わせてやるよ!」

 ゾフにもぐいぐい促され、エルセ達は奥の個室へと案内された。

 食事は彼が作ってくれるというので、注文表は開かなくていいらしい。

 正直食事を選ぶという行為自体の経験がないので、非常に助かる。

 服装も、ティリクが用意したものだったおかげで浮いていない。彼に任せておいて心からよかった。

 それほど広くない個室だが、他の客席から遠いらしく人の気配がない。席につき、エルセはようやく一息つけた。

 同じく座ったティリクは、テーブルにあった水差しから二人分の飲み物を注いでいく。

 礼を言って受け取ると、彼はいたずらっぽく笑った。

「驚いたか?」

「そりゃ驚きますよ。いつものゾフさんとは全然違うじゃないですか」

 頬杖をつく彼は普段よりくつろいで見えるし、笑顔が飛び出す頻度が多いことにも驚いているが、それは照れくさくて言えない。

 ティリクは、なぜか窺うようにエルセを見つめていた。

「……残念。あと一息だったか」

「何のことです?」

「驚けば、君の敬語は崩れるんじゃないかと思ったんだ」

「まだその話題を引っ張りますか……」

 どうやらエルセの言葉が崩れる瞬間を待ち構えていたらしい。

「何でそこまでこだわるんです……?」

「どうせなら、敬語じゃないエルセもどんなものか見てみたい」

 そこからしばらく沈黙が落ちた。

 といっても、普段の穏やかな空気は流れず、それは非常に気詰まりなもの。

 視線の圧力に、エルセはとうとう屈した。

「エルシア・フォードの頃、私は地方の農家の育ちで……未だに訛りが残ってるんです」

 神殿で働きはじめた時に矯正された弊害か、敬語でないと話し方が戻ってしまう。

 そもそも敬語自体があまり得意ではないのだ。常に、誰に対しても口調を変えないよう細心の注意を払っている。

 こんな秘密、元婚約者のフロイシスにさえ話したことはなかったのに。

「……嫌な思いをさせてしまって、すまなかった。無理にとは言わない。だが、訛っているエルセもきっと魅力的だろう」

 恥ずかしくて顔を上げられないエルセだったが、ティリクは事もなげに肯定する。

「君の努力家で忍耐強いところも、何に対しても真剣に取り組むところも、きっとそういった厳しい環境にあったからこそ培われたのだろうな」

「そ、そんな……」

「何を恥ずかしがる必要がある。君に関しては知れば知るほど長所しか思い付かないのだから、もっと堂々と誇っていい」

「そういうことじゃないんです……」

 主に羞恥心で悶えているのだが、彼はいまいち理解していないようだ。

 これほど全てを肯定されたことはないから、もう好きとか惹かれるとかそういう次元ですらティリクを見られなくなりそうだ。

 たぶん、かなり依存している。

 今まで彼なしでどうやって生きてきたのか、分からなくなってしまうほどに。

 こんなふうになるはずではなかった。

 一緒に居続けるというのは、案外難しい。

 たとえティリク自身が側にいると約束してくれても、それが本当に果たされる保証はないのだ。そのあとに訪れる孤独は、きっと一人でいた頃よりずっと苦しい。

 言い知れぬ不安を抱えるエルセに、彼は全く別の話題を切り出した。

「そういえば、ロイスが怪我をして倒れていたのは、森の付近だったらしい」

 垂れた黒い耳が特徴的なロイスは、先日ようやく退院したばかりだ。

 ゾフ達家族に向かって尻尾を振って駆けていく姿を思い出す。

 彼女が怪我をしたのも、ティルとシアが怪我をしたのも、森。

 よく考えてみれば裂傷の状態も似ていたかもしれない。それほど鋭利でない何かによる、引きつれたような切断面。

 くよくよ悩むだけだったエルセの思考が、急速に研ぎ澄まされていく。

「……先生は、同時期に三頭もの動物が負傷をしたことを、懸念しているんですね」

 呟くと、彼は会心の笑みを浮かべた。


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