第7話 現在と向き合う時

「――私の前世は、ロアーヌ聖国の元聖女、エルシア・フォードです」

 最大級の秘密を明かしても、ティリクは特に反応を見せなかった。

 彼を知るための何らかは得られるだろうと踏んでいたので、エルセは少々戸惑う。それとも、既に知っていたから驚かないのか。

「堕ちて『半端者』になった私は、魔族として生まれ変わる際、魔王陛下に養い子として拾われました。魔力が備わっているのもそのためです」

「魔族にとって貴き紫色を持っているのは、魔王陛下が介入しているからなのか」

 エルセはこくりと頷いた。やはり元天族、魔族にとって紫色が至高であることも承知しているらしい。

 彼はエルセをとっくりと眺めると、満足げに目を細めた。

「月光のような銀色の髪も紫水晶より神秘的な瞳も、君の儚げな容姿にとてもよく似合っている。さすが魔王陛下だな」

「!? ま、うぅ……」

 まるで魔王と面識があるかのような口振りが気になるのに、さらりと褒められてしまえば言葉が満足に出てこない。

 エルセが自らの秘密を明かしている最中で、つまり主導権はこちらにあるはずなのに、なぜ彼に翻弄されているのか。

 エルセは有利を取り戻すため、何とか呼吸を整えた。これはもう戦いと言っていい。

「わ、私はある日突然陛下に呼び出され、こう命令されました。『エルシア・フォードの死の真相を確かめてこい』と」

 これには、ティリクの表情が曇った。

「死の真相……?」

「私にも、何のことだか分かりません。死の瞬間の記憶はあるんです。エルシア・フォードは馬車にひかれた。ただの事故だったはずなのに……」

 テーブルの上で握ったエルセのこぶしは震えている。

 そこに、包み込むような体温が重なった。

「君の心は、まだ前世の出来事に囚われているんだな。……こんなに恐ろしい思いをしてまで、話してくれてありがとう」

 午後の柔らかな日射しできらめく金髪と、慈愛を宿した青い瞳。そして何より、エルセの凝り固まった心を解きほぐすような、労りに満ちた笑み。

 うっかり彼の背中に白い翼を幻視してしまうほど、何もかもが清らかだった。

 ――こ、この人のどこが甘くないと!?

 エルセは声を大にして叫びたい。

 砂糖をたっぷり使ったヌガーより甘いと。

 もはやエルセが恐怖ではなく羞恥に打ち震えているとも気付かず、ティリクはごく思案げに呟いた。

「神殿の聖堂に、行ってみようか」

 エルセは無言で首を傾げた。

 神殿の聖堂といえば非常に馴染みが深い。

 聖女見習いだった頃は、聖堂の清掃も仕事の一つだった。真面目に取り組むことで唯一神への献身をさらに深めていくのだ。

 聖女に選ばれてからも率先して見習い達を手伝っていたので、聖堂の内部は細部まで思い出せる。

 エルセが懐かしく思いを馳せていると、ティリクが驚きの事実を口にした。

「エルシア・フォードが眠る棺は、今でも聖堂に安置されている。巡礼者が一目見ようと列をなしているらしい」

「……はい? 巡礼?」

「それすら知らないのだな。エルシア・フォードの遺体は死してなお朽ちもせず、それは唯一神の奇跡の御業であるとされている」

「え、ええ?」

 ちょっと待ってほしい。話題が乱高下しすぎて感情が追い付かない。

 けれど、彼は無慈悲にも続けた。

「もはや国中の民の信仰の対象だぞ。出会った当初、君の素顔を不用意にさらさない方がいいと言ったのもそれが理由だ」

 何それ怖い。

 偽の聖女と蔑まれる不安を抱いていたエルセが真っ先に感じたのは、恐怖だった。

 巡礼者が列をなしている。信仰の対象。

 全ての単語を脳が拒否している。

 そのような場所に行こうとしているティリクのことも信じられなかった。

「嫌です! 絶対に嫌! 自分の遺体と対面なんてしたくありません! というか、馬車にぶつかって見るも無惨な姿になっているはずでは!?」

「それゆえ奇跡と呼ばれているのだろう」

「無理です私は先生のように冷静にはなれません! 怖い! ――過去なんて、何も知りたくない!」

 エルシア・フォードは、世界に失望しながら死んだ。

 助け続けた国民に背を向けられ、婚約者や身近な人間にも信じてもらえず。

 それを今さら、信仰している?

 蔑まれることも恐ろしかったけれど、都合よく祭り上げられるのも御免だ。

 本当にむしがよすぎる!

 ほとんど恐慌状態のエルセは、自分が涙を流していることにさえ気付いていない。

 それはあまりに痛々しい姿。

 けれど、追い詰められているからこそ飛び出した、何よりの本音。

 過去なんて知りたくない。

 今さら知ったところで、もう何も取り戻せないのに。

 ようやく魔族としてのあり方に慣れてきた。前世を思い出さないでやり過ごせるようになった。このままさらに何年か経てば全てなかったことにできるはずだった。

 なのに、どうして急に眼前に突き付けるような真似をするのか。

「私のことは放っておいて! もう何も見たくない! 嫌なの、これ以上は耐えられないの! っ、もう、傷付きたくない……!」

 エルセは力任せに胸元を掻きむしった。

 痛い。いっそ痛む心を引きずり出してしまえれば、楽になれるのに。

 自傷行為に走る両手があっさりと捕らえられた。ティリクはそのまま、動きを封じるようにエルセを抱き締める。

 ひどく優しい拘束だった。

「……魔王陛下の気持ちが、私にも少しだけ分かる。君は確かに、過去の自分と向き合った方がいい」

「嫌っ、何で……!」

「痛みから逃げるな。前世に背を向けていたって、いつまでも逃げきれるものじゃない。なかったことにはできない。その平穏は、薄氷の上に成り立っているにすぎないんだ」

 ティリクの手がエルセの顔を持ち上げる。

「もし向き合うのが怖いなら、私を頼ってくれればいい。いつだって君の側にいる。何だって協力する」

 間近にある青の瞳は、ひた向きな真摯さを湛えていた。

 真っ直ぐ、エルセだけを見つめている。

 不意に、視野がぼやけていることに気付いた。涙で見えづらくなっていることも。

「ティ、リク先生……」

「すまない。私が性急すぎたのかもしれない。聖堂も、いつかは行くべきだろうが、今すぐにというわけでは決してない。君を追い詰めるつもりはなかった」

 不規則になっていた呼吸が、次第に落ち着いていくのが分かる。

 冷静になると、ティリクの言葉の意味が正しく浸透してくる。それは、見送る際にウォルザークが告げたことと同じように思う。

 森に降り立った時、エルセも変わりたいと思ったではないか。

 立ち止まったままでは臆病な自分を変えられない。一歩ずつでも進むのだと。

 その道のりは、たった一人で行かねばならないものだと思っていた。

 けれど彼は、一緒に進んでくれるという。

 頼っていいと、いつだって側にいると。

 誰かにこんなふうに守られるのは、初めてのことだった。

 出会ってからたった二週間しか経っていないのに、これほど親身になってくれている。

 ――んん? こんなふうに? これほど?

 そこまで考え、エルセははたと我に返った。顔が、ものすごく近い。というか、しっかりと抱き締められている。

 自覚した瞬間、頬がカッと熱くなった。

「すっ、すみません!」

 慌ててティリクから距離をとる。

 意外と逞しい胸や温もりに安堵したことも、落ち着く匂いだと思ったことも、それこそなかったことにしたい。

 どれだけ飢えているのか。

 彼は何一つ気にしていないようで、普段と変わらない様子だ。

 エルセの甘えを煙たがられなかったことに安心する一方、全く意識されていないという事実に何となくもやもやする。

 ――誰かの『特別』にはなれないって分かってるのに、頼っていいと言われた途端に図々しい……!

 分はわきまえていたつもりだが、欲望に際限がないとはまさにこのこと。

 清貧を尊ぶ元聖女でさえ容易く堕落してしまうのだから。

 自己嫌悪で落ち込みながらも、エルセはきっちりと謝罪した。

「情けない姿をお見せしました。ご迷惑をおかけして、本当にすみません」

「私は微塵も迷惑だなんて思っていない。気にしないで何でも頼ればいい」

 小さく縮こまるエルセに対し、彼は同じ言葉を繰り返してくれた。

 頼っていい。それならば、こんな我が儘も許されるだろうか。

「……私、聖堂に行ってみます。いつかと言わず、次の休診日にでも」

 もしエルセ一人なら、いつまでもグズグズと迷い続けていただろう。

 けれど、側にいてくれると言うなら。

 エルセは思いきって顔を上げた。

 決断するまでの間も、ティリクはずっと急かさず待っていてくれた。

 信じたい。

「……先生。一緒に来てくださいますか?」

 少しだけ上擦った声で問うと、彼は即座に頷き微笑んでくれた。



 ……それは、誰かの『特別』にはなれないと受け入れ、諦めたエルセの、初めての我が儘だった。




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