第6話 人間界での暮らし
「みなさん、ごはんの時間ですよ」
エルセは朗らかに声をかけながら、入院室の扉を開いた。
ここには、経過観察の必要な動物達が入院している。
現在は先日緊急手術をしたばかりの中型犬を預かっていた。熊の親子も一緒だ。
垂れた黒い耳が特徴的な彼女は、ロイスという名前だった。
最近立太子したフロイシスにあやかっているそうだが、エルセとしては複雑な気持ちになる。女の子だし。
「ロイス、ゆっくり食べてくださいね。もう少し回復したら固形物が食べられるようになりますから」
手術行為とは、生きものにとって大きな負担となる。小さい体ならばなおさらだ。
内臓の損傷はなかったものの、ロイスの体力はかなり削がれており、食事は流動食からの再開となった。
とはいえ食欲はすっかり元通りで、もっと食べたいと甘える仕草はとても可愛らしい。
あの日から、二週間が経過した。
エルセも少しずつだが、ここでの暮らしに慣れてきた。
着替えや日用品などは即日揃えてもらえたので、今のところ不自由なく過ごせている。
仕事もやりがいがあって充実した毎日。
考えねばならないことも向き合わねばならないものも山のようにあるのに、つい忘れてしまいそうになるほど。
「ティル、シア。あなた達にも」
熊の親子の前にも、用意した食事を置く。
ティルとシアは、何かと不便だったためにエルセが付けた名前だ。
子熊のシアは完治しているのだが、親熊と引き離すことができず一緒に保護している。
彼の名前はエルシアから取った。
エルセにとても懐いていて、考え事をしている時などつい無意識に頬擦りしてしまう。モフモフは偉大だ。
ちなみに母親の熊に付けたティルという名前は、ティリクから取ったもの。安直すぎる命名法に、彼は微妙な顔をしていた。
「シア。休んでいる子達の邪魔になるから、あまり走り回ってはいけないですよ。あと、今日はティルとロイスのごはんを食べちゃ駄目ですからね」
きちんと言い含めてから、入院室を出る。
待合室に顔を出すと、今日もロイスの飼い主であるゾフの姿があった。
「よお、エルセちゃん!」
「こんにちは、ゾフさん。今日もロイスの様子を見に来てくださったんですか?」
「ロイスはついで! 今日も可愛いエルセちゃんに会いに来たんだって!」
「フフ、ご冗談を」
ロイスが弱っている時は心底落ち込んでいただけで、ゾフは基本的にお調子者だ。
軽口は挨拶のようなもので、エルセも笑って聞き流すことができた。
本当は愛犬を気にかけていることも、一緒にお見舞いに来る家族を心から愛していることも、この二週間の内に分かったことだ。
「ここは訪ねてくる人間が少なくて、暇をもて余してるんじゃないかなって思ってさ」
確かにこの医院は、規模のわりに訪問者が少ない。ティリクほどの獣医師ならば、かかりつけ医としても信頼できるだろうに。
「街外れにあるから、仕方ないのかもしれません。ティリク先生は、ゆっくりできていいと言ってますよ」
「あの人は腕こそいいんだが、壊滅的に愛想がないんだよなぁ」
「愛想がない?」
エルセは心底不思議に思って首を傾げた。
ティリクはいつだって優しいし、さりげなく気にかけてくれる。
確かに表情は乏しいけれど、時折見せるささやかな笑みは何度でも感動できるほど魅力的だ。無愛想だなんて、一度たりとも思ったことがない。
エルセの反応に、ゾフは噴き出した。
「そりゃ、エルセちゃんだけには優しいでしょうよ。先生にとって君だけは特別ってことなんじゃない?」
「え?」
「もう本当に、見てて分かりやすいのなんのって。俺、あの無表情が笑ってるとこなんて初めて見たもん」
「ーーおい、ゾフ」
ニヤニヤと笑う彼の背後から、ヒヤリとした声がかかった。同時にゾフは蒼白になって硬直する。
白衣の裾をさばきながら近付いてくるのは、冷たい表情をしたティリクだった。
「おしゃべりをしに来ただけなら、さっさと帰れ。そしてここには二度と近寄るな」
「いやいや、こんなのちょっとしたお茶目じゃんかよー。大目にみてくれって」
「お茶目? 中年男性の猫なで声など、何一つ可愛いと思えないがな」
「冷たいっ。そんなだから常連以外なかなか寄り付かないんじゃないかぁ? せっかくティリクは腕がいい上に男前なのにさー」
「あいにく、騒がしいのは好まないのでね。本当に緊急なら、私の顔や性格など関係なく患者はやって来るだろう」
ロアーヌ聖国では、家族である動物に対し患畜という言葉は使わない。
なので彼の言う患者というのは動物のことを指すのだろうが、果たしてその患者の家族はティリクの凍えるような態度に打ち勝つことができるのか。傍観しているエルセでさえ寒さを感じているのに。
吹き荒れる怒りの恐ろしさをゾフと分かち合っていると、彼はますます不機嫌そうに顔をしかめた。
「それと、お前ごときが彼女を馴れ馴れしく『エルセちゃん』などと呼ぶな。汚れる」
「ごときって、俺は虫けらかよ!」
ティリクが一睨みすると、ゾフは捨て台詞を吐きながら入院室へと退散していく。
エルセの隣を通りすぎざま、ほらねと言わんばかりに肩をすくめるのを忘れずに。
――何というか、ゾフさんは見習いたいくらい精神が強靭だなぁ……。
いつもティリクを怒らせているところを見る限り、参考にすべきではないのかもしれないが、臆病なエルセからするとあれほどはっきり主張ができる人間は尊敬に値する。
ティリクと二人きりであることにはたと気付くと、エルセは急に気まずくなってきた。
――ゾフさんがあんなこと言うから……。
『特別』だなんて、そんなはずはないのに。
エルシア・フォードだった頃から、特別に愛された経験などなかった。だからこそ誰もが認める聖女であるために必死だったのだ。
誰かただ一人の『特別』なんて、あまりに現実味がなくて笑ってしまう。
ティリクがエルセを振り返った。
「患者達の食事は?」
「持っていきました。ロイスもティルもしっかり食欲はあるようです。少しずつ癒やしを行っている成果か、ロイスはそろそろ固形物に移行していいような気がしますね」
魔力が枯渇しない程度の治癒術は、毎日欠かしていない。
聖力のように無尽蔵に使えるわけではないため慣れるまで苦戦するかに思われたが、魔王城の治癒室で働いている時とほとんど変わらない感覚でこなせていた。
癒やしの力が必要かどうかを、ティリクが毎回見極めてくれるからだ。
動物に関しては全くの素人なので、これにはたいへん助かっていた。
エルセの返答に、彼は笑みを浮かべた。
ほとんど笑わないなんて信じられないほど、柔らかく温かな微笑だ。
「君は本当に有能だな。患者の様子も丁寧に報告してくれるから、とても助かる」
「とんでもないです」
ティリクはエルセの報告を聞いた上で、必ず自分でも患者の容態を確認する。
そういう点こそ、彼の有能さなのだ。
「業務が落ち着いたなら、少し休憩にしよう。君のことだから、また昼食を抜いているんじゃないか?」
図星をさされたエルセは黙り込む。
途端、正直な体が空腹を報せた。
ぐうぅう〜っ
……何と居たたまれない状況か。
食事を抜くことは前世でもよくあった。
それなのに腹の虫が鳴るなんて、気が緩んでいる証拠だ。たった二週間しか経っていないのに、彼を信頼しきっていることを自覚せずにいられない。
「……あまり、私のお腹を甘やかさないでください。このくらい慣れてますから」
赤い頬に気付かれないよう俯きながらこぼすと、ティリクは笑いを堪えきれない様子で首を振った。
「クッ……こんなことに、慣れるべきではない。それに、食事は甘やかしでもなんでもなく、生きるものの当然の欲求だ」
微妙に肩を揺らしながらおいでと導かれた先は、休憩室だった。
既に準備をしていたらしく、紅茶とサンドイッチなどの軽食がテーブルに並べられている。それも、しっかりと二人分だ。
「しばらく受付はゾフにでも任せておけばいい。どうせ暇をもて余し、うちの助手にちょっかいを出していたんだから」
さりげなく仕事を押し付けるティリクに、エルセも自然と笑っていた。
促されてテーブルにつき、ティーカップを取る。指先から伝わる温もりにホッと吐息がこぼれた。
食事抜きで働くのが当たり前だった。
それくらい必死にならないと聖女として不適格なのではという強迫観念があったし、その我慢を誰かに気付かれたこともなかった。
気にかけてもらえることがこんなにも嬉しいだなんて、知らなかった。
彼はティリクシオルという本当の名も、元天族であったことも、エルセ以外には明かしていないという。
なのでエルセも、彼のことをティリクと呼ぶことにしている。
――人間界にいるのは、何か事情があるはず。それこそ私と同じように。それなのに、もっとこの人のことを知りたいと思ってしまうなんて……。
対面の席で、静かにティーカップを傾けるティリクを見つめる。
互いに口数が多い方ではないから、静かな沈黙が流れていた。
気負って喋ることも、取り繕うことも必要ない。それはとても贅沢な時間だった。
彼を知りたい。
いいや、『特別』でもない自分がそれを望むのはおこがましい。
最近のエルセの思考は、願望と諦念の間でゆらゆらと揺れてばかりだ。
初めて会った時、彼は泣いていた。
エルセが、もう会えない知人に似ていたのだという。きっとその相手は、大切に想われていたに違いない。
――もしかしたらエルシア・フォードのことかもと思っていたけど、はじめからそんなはずなかった。泣くほど思い入れがあるのに、私が覚えてないのはおかしいから……。
その事実に、ほんの少し失望していた。
身勝手な感情に自嘲が込み上げてくる。
「エルセ?」
呼びかけられて我に返ると、ティリクもいつの間にかエルセを見つめていた。
「何か、悩みでもあるのか? ……今まで事情は訊かずにきたが、もし人間界に来たことと関係があり、なおかつ私にできることがあるのなら」
ティリクはそこで一度言葉を切った。
深い思慮を湛えた、澄んだ青色の双眸。静謐であるのにどこか懇願するようでもあって、エルセは目が離せなくなる。
「――事情は詮索しないという条件だったが、聞きたい。君に協力させてほしい。もう一人で、抱え込まないでほしい」
真摯な言葉。
それがエルセに向けられているのか、はたまた自分にそっくりな過去の誰かに向けられているのか、空虚な心では判断できなかったけれど。
話してしまおうと思ったのは、信じてすがりたい気持ちが半分。反応次第では、彼の知人というのがエルシアかどうか確かめられるかもしれないという、打算が半分。
――自分から望むことも、愛を伝える勇気もないくせにね……。
今度は自嘲を笑みに変え、エルセは口を開いた。
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