第5話 ティリクシオル
ロアーヌ聖国には、犬や猫など動物を家族とする考え方がある。
ただ、神殿は人の治癒で手一杯なので、動物達は獣医師が診ることになっていた。
資格試験がないために、獣医師に弟子入りしてきちんと学んだ者から、医師を名乗るのもおこがましいほど知識のない者まで様々というのが現状だ。
ティリクが経営する動物病院は、森を抜けしばらく歩いたところにあった。
ポツリと見えてきた建物の立地は、街の中心からかなり外れている。
清潔感のある白い壁には看板が見当たらなかった。かなり素っ気ない印象だし、住宅地の側でないと患者家族の足も遠退くのではないだろうか。
必要な時かかりつけ医が近くにいないというのは、心細いものだ。神殿の近くに住居が密集しているのもそのためなのだから。
ティリクの病院はそれなりの大きさで、住居と併設されているようだった。
敷地は広く、裕福であることが分かる。つまり彼は腕がいいのだろう。
だからこそ、街外れという立地がエルセには不思議だった。
扉を開けながらティリクが振り返る。
「そうだ、君……」
彼が言い淀む理由に思い至って、エルセは慌てて頭を下げた。
「すみません、名乗るのが遅くなりました。エルセ・ソルブリデルと申します」
「エルセ……エルセか。とてもいい名前だ。君によく似合っている」
噛み締めるように呟くティリクに、エルセは固まってしまった。
サラリと飛び出した賛辞に、じわじわと頬が熱くなる。全く他意はなさそうな点が実に質が悪い。
「では、エルセさん。ゆっくりとお茶をする前に、まずはこの子の親熊を安心させてやりたいのだが、いいだろうか?」
あっさりと話題を変えるティリクに、エルセはぎこちなく頷いた。
こちらの扉は医院に繋がっているのだろうと察していた。開けた瞬間から消毒液の匂いが漂っていた。
ティリクの発言への動揺を、嗅ぎ慣れた匂いが鎮めてくれる。
待合室を抜け、廊下を進んで手術室に入ろうとしたところで、ティリクはマスクと三角巾を差し出してきた。
首を傾げていると、彼は言いづらそうに視線を逸らした。
「外套の袖に、血が付いている。子熊を助けてもらった礼も兼ねて洗濯させてほしいんだが……君は、顔を隠すものがあった方がいいだろう?」
エルセは一瞬動揺したけれど、ティリクの意図を悟ってそれを押し隠す。
言われて見れば、確かに袖には僅かばかりの血液が付着していた。
外套が暗い色合いなので気付かなかったが、モフモフした時にでも付いたのだろう。
エルセは礼を告げてマスクを付ける間も、ティリクの横顔を眺め続けた。
不思議な人だ。
彼は何も問い質そうとしない。
エルシア・フォードに似ていることに気付いていながら、知らないふりをしてくれている。それどころか、顔を隠せるよう配慮さえ見せたのだ。
「……あの。よかったら、手術用のガウンもお借りしていいですか? 手術室に入るなら、清潔第一ですし」
「あぁ、そうしてくれると助かる」
元々仕事の合間にウォルザークを訪ねていたため、エルセは白い制服を着て髪もきっちりまとめていた。
手術用ガウンとマスクを装着したおかげで、すっかりこの医院の一員のようだ。
同じ感想を持ったのか、エルセの仕上がりを見下ろすティリクも小さく笑った。
手術室に入ると、消毒液の匂いが一層強くなった。
清潔というより無機質に近い部屋だ。
窓はなく、壁も床もうっすらとしたアイボリーで統一されており、無影灯と大きな手術台が部屋の中央で存在感を主張している。壁際の銀色の棚には様々な器具が収納されているのだろう。
手術台には親熊が横たわっていた。
足の泥汚れを落とした子熊が、鳴きながら駆け寄っていく。麻酔は使われていないらしく、親熊はすぐに反応した。
弱々しく顔を上げる姿が痛々しく、エルセは癒やしの力を使おうと踏み出す。それを止めたのはティリクだった。
「親熊の方もさほど重傷ではない。自然治癒に任せても、全く問題ないだろう」
「ですが、癒やしの力を使えば一瞬で……」
「その力は闇雲に使うべきではない。君が倒れる可能性は看過できないし、その特殊な能力に危険な輩が目を付けないとも限らない」
拒絶の理由に気付くと、エルセは今度こそ目を見開いた。
ティリクは、エルセが魔族であることにも気付いているのだ。
紫色の瞳は人間族にはあり得ない色彩だから、ばれたこと自体は不自然じゃない。
むしろエルシア・フォードに似ているからでなく、魔族の特徴を隠すためにマスクを貸してくれたのだと思えば、その方がよほど納得できる。
エルセが驚いたのは、彼が魔族についてあまりに詳しすぎるからだ。
魔力が枯渇すれば命が危うくなること。癒やしの力が、魔族の中では特殊であること。
どれも、普通の人間族ならば知り得ないはずの情報だ。
目を覚ました親熊に、子熊が嬉しそうに鳴いている。のどかな触れ合いが壁一枚隔てているかのように遠く感じた。
「あなたは、一体……」
緊張で乾いた唇から、エルセが震える声を押し出す。
それを遮ったのは、突如割り込んできた第三者の叫びだった。
「ーー先生! 助けてくれ!」
駆け込んでくる荒々しい足音。
その瞬間、エルセもティリクも、無条件で救う者の顔になっていた。命を前に私情を優先すべきでない。
診察室まで上がり込んだ男性が抱えるのは、黒い垂れた耳が特徴的な中型犬だった。
「頭のいい奴なんだ。普段はどこか遊びに行っても自分で帰ってくる。なのに今日は昼がすぎても帰って来なくて、心配になって探しに出たら……!」
男性は目を離したことを心底悔い、腕の中を見下ろしていた。
腹部に負った傷からは大量の血が流れ、小さな体はぐったりと動かない。
ティリクが横目でエルセに確認する。
「――頼めるか」
「はい」
言葉少なに交わし、二人はすぐに手術室へと向かう。中型の犬を男性から受け取ったのはティリクだ。
彼は手術台に犬を固定すると、局部麻酔を施して鉗子で素早く止血する。エルセは大量のガーゼで術野を確保した。
とにかく出血量を最小限にすることが第一だ。ただ傷口を縫合するだけでは、命は戻ってこない。
エルセは、ティリクに呼吸を合わせることに専念した。彼が求める先の先まで予測しながら動く。
その選択肢の中には、もちろん癒やしの力もあった。治療不可能ならば別の力に頼るしかないのだ。
けれど、ティリクの瞳が語っている。
それは最終手段だと。
エルセ自身、魔力が万全でないことは感覚的に理解していた。これほどの重傷を癒やすには、限界まで魔力を使わねばならない。
「幸い、内臓に損傷はない。あとは時間との勝負だ。ついて来れるか」
「はい」
二人の息はぴったりだった。
それは、今日が初対面とは思えないほど。
ティリクの技術は想像以上に高い。
迷いのないメス捌き、細部まで確認を怠らない慎重さ。手先も器用で、丁寧かつ迅速に傷口を縫い合わせていく。その手技はほとんど芸術の域だった。
縫合を終え、ティリクは固く結んだ縫合糸の端を切断する。完璧だった。
「手術終了」
息をつくと、彼は休むことなく待合室へと向かった。
並ぶ椅子の一つに、祈る男性の姿がある。
ティリクはその前に立ち、安心させるよう肩を叩いた。
「手術は成功した。出血が多かったから、あとはあの子の体力次第となるが……」
「安心してください、大丈夫ですよ」
エルセは遮るように、横から口を挟む。
「私、今日からこちらで働かせてもらっているエルセ・ソルブリデルと申します。神殿で働けるほどではないですが、癒やしの力を持っておりますので、あの子の体力を少しずつ回復させることができるかと」
「そうなのか! おぉ、ありがたい、何と礼を言ったらいいのか……」
男性は涙を流しながら頭を下げた。
物言いたげなティリクを視線で制しながら、エルセは男性に笑みを向ける。
「当然のことをしているまでです。人を癒やすほどの聖力には恵まれませんでしたが、神殿での見習い期間中、奉仕の心を十分に学びましたので」
エルセは患者の前では饒舌になる。
安心してもらうためなら、嘘もすらすらと出てきた。
男性の愛犬は医院預りとなり、彼はしきりに頭を下げながら帰っていった。
二人と動物達だけになると、ティリクがポツリと呟く。
「君は、患者を前にすると少し大胆になるな。それに、嘘も上手い」
「すみません。つい……」
でまかせだらけになってしまったが、男性の愛犬を癒やす約束は果たすつもりでいる。
エルセが神妙に頭を下げると、彼は首を横に振った。
「いや、こちらこそすまない。君を体よく使ってしまった。正直かなり助かったが」
「とんでもないです。少しでもお役に立てたようで、私も嬉しいです」
聖女時代ののうはうが、多少なりとも役に立ったのなら本望だった。
神殿でも、癒やしの力が必要ない軽傷病者には医者が対応するのだが、見習い時代はそこで経験を積むのだ。
しばらく黙りこくっていたティリクが、おもむろに口を開いた。
「――私の本当の名は、ティリクシオル」
突然の告白に、エルセは青い瞳をただ見つめ返すことしかできなかった。
「名前から察せると思うが、元天族だ。いわゆる神の御使いをしていた」
天族。
人間界において、魔族よりさらに珍しい。
人々を気まぐれに堕落させる魔族と異なり、正しい道へと教え導くのが御使いの役割だと聞く。聖女であった頃もお目にかかったことはなかった。
けれど天族であったなら、魔族について詳しかったことも納得できる。
驚きのあまり声も出ないエルセは、無言のまま彼の背中を確認した。穢れを払うという白い翼はない。
ティリクは嫌な顔一つしなかった。
「あいにく、元天族は翼を持たない。御使いの証である翼は剥奪されてしまうんだ」
剥奪、とはずいぶん物騒な言葉だ。
何か天界を追われるような罪を犯したとでも言うのだろうか。
彼は追及を避けるように視線を逸らした。
「こちらも少々訳ありでね。人間界で獣医師になったはいいが、助手が寄り付かなくて非常に困っている。どうだろう、互いの事情を詮索しないという条件で、本当にここで働いてみないか?」
「……え?」
先ほどのエルセのでまかせを、真実にしてしまうつもりらしい。
どうせ行くあてはないのだから、ティリクの申し出はそう悪いものではない。
魔力の限界までしか癒やしの力を使えないエルセには、個人経営の医院は適しているだろう。神殿のように重傷病人が間断なくやって来ることもないので、無理のない規模だ。
マスクや三角巾で顔を隠せるから、前世がエルシア・フォードであったと知られないためにも、案外ちょうどいいかもしれない。
「もちろん給料は君が納得できる額を支払う。余っている部屋を使っていいし、食事も三食約束しよう。――エルセ、君は君が思うよりずっと優秀だ。その力を動物達のために、どうか役立ててほしい」
食事と寝床の提供も助かるが、彼の懇願こそが打算より何よりも胸を揺さぶった。
役に立てる場所。見捨てられない自分。
エルセは、いつの間にか頷いていた。非礼の詫びにと、招待された時と同じように。
なぜティリクを、こんなにも容易く受け入れてしまえるのだろう。彼はまるで、エルセの心のありようを熟知しているみたいだ。
胸がほんのりと温かい。
その温もりを、エルセはどこかで知っているような気がした。
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