第4話 人間界へ
しばらくウォルザークにあやされながら泣き尽くし、ようやく涙が止まってきた頃。
エルセはそのまま、人間界へと強制的に転送された。
正直血も涙もない養い親だと思う。さすがは魔王といったところか。
部下達に何の挨拶もできないままというのが心残りだが、魔王の命令であれば仕方ないと納得してくれるだろう。
転移先が静かな森の中だったことに、エルセはひとまずホッとする。
わざわざ人のいない森を選んでくれたのは、エルセの心の準備のためだろうか。
いきなりロアーヌ聖国の街中だったりしたら、人の多さを恐れて意識を飛ばしていたかもしれない。
ウォルザークは、エルシア・フォードの死の真相を調べよと言っていた。
調査のために他者との接触は必須で、いずれ覚悟を決めねばならないことも承知しているけれど、まだ現実を直視したくない。
「聖女を騙った偽者、とか言われてたらどうしましょうか……」
あれからまだ五年なのだ。
やはり、地界に帰りたい。というか森から一歩も出たくない。
このまま引き籠もって時間をやり過ごし、ある程度経ってから帰る、ということができればいいのに。
特大のため息を落とすエルセは、それが不可能なことも分かっている。
ウォルザークが堕ちた人間の人生を把握できるのは、魂の記憶を読めるから。それこそが魔族の王固有の力なのだ。
エルセがどんなに巧妙な嘘をついたとしても、地界に戻った瞬間には全てを見通されてしまうだろう。
どう考えても、魔王命令を回避することなどできない。エルセは暗い気持ちで頭上を見上げた。
鬱蒼と繁る青葉。その向こうから太陽が僅かに差し込み、キラキラと輝いている。
現在は初夏のようだ。
過ごしやすい気温と、木漏れ日。温かな土の匂い。年中雲に覆われている地界にはないものばかり。
魔族といっても、感覚は人間族と差がない。頬を撫でるかすかな風に若々しい緑の香りを感じて、エルセは胸いっぱいに息を吸い込んだ。
地界の肌寒さに慣れていたから、外套を着たままで来てしまった。
季節外れだから脱ぐしかないが、顔を隠すフードまでは手放せない。
どうすればエルシアであったことを知られないで済むだろう。あぁ、考えねばならないことが多すぎる。
「そもそも気遣っての森なんでしょうけど、狼や熊が出るかもしれないわ……私は癒やしの力しか持ってないから、絶対太刀打ちできないですし……」
森を出ねばならないのか。ほぼ強制か。
嫌すぎて、たった今感じていた初夏の輝きさえ色褪せて見える。
「私、どうすればいいんでしょうか……」
エルセは、自分がこんなにも駄目な人間とは思っていなかった。
仕事を与えられれば、懸命に取り組むことができる。自分の思いを伝えることは不得手でも、それだけは唯一誇れる長所だと、こっそり思っていた。
けれど、大まかな指示を出された途端に動けなくなるなんて。
死の真相を調べることに乗り気じゃないからだと信じたいけれど、何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか検討もつかない。
まずは泊まる場所の確保? 食事のあて? 調べるにしても、その足がかりは?
まさか自分が、こんなにも何もできないとは思わなかった。
幼い内から神殿で言われるがままに働いていたから、考えて行動したことがほとんどなかったのだ。
こういうのを、つまらない人間というのだろう。フロイシスが魅力的なユリに惹かれたのも頷ける。
ふと、エルシア時代の知人達がどう過ごしているのかを考えた。
フロイシスらは無事に結ばれ、晴れて結婚したのだろうか。彼の友人達は側近として、今も近くにいるのだろうか。
「彼らは五年分、ちゃんと進んでいるのに……私だけ、あの頃のまま……」
姿かたちだけのことではない。
仕事に没頭することで何も考えずにここまで来たから、立ち止まったまま動けない。
そんなエルセだから、ウォルザークも心配したのだろう。
変われるのだろうか。
エルセは、前方に広がる森の景色を見据えた。深呼吸をして息を整える。
変わりたい。
エルシアからエルセになったように、名前や姿ばかりでなく、臆病な心ごと。
養い親も、おそらくそれを望んで送り出してくれたはず。
「……まずは、一歩」
怖くても進もう。
右足を前に進め、柔らかな草の上に爪先を下ろす。次は左足。
足はみっともなく震えている。それでも、こうして道は続いていくのだ。
ほんの少し自分に自信が持てた気がして、口許を綻ばせる。
次に視線を上げた瞬間、前方の繁みがガサリと揺れた。
「ヒッ……!!」
前向きになった瞬間、獣と遭遇とは。
尋常じゃない運の悪さを呪いたくなる。
エルセは腰が抜けて座り込んだ。これで、相手にとっては無防備なごちそうとなった。
音が近付いてくる。
先ほどの決意など早々に捨て去り、エルセは固く目をつむる。
「ガウッ」
想像していたよりも可愛らしい鳴き声。
涙の溜まった目を瞬かせ、エルセは恐る恐る顔を上げた。
「ガウガウッ」
そこにいたのは小さな子熊だった。
焦げ茶色の毛並みは艶やかで、体つきもふっくらとして健康そうだ。それなのにどこか元気がない。
「もしかして、迷子? 親とはぐれたから、元気がないんでしょうか……」
警戒してか一定の距離を保つ子熊を、つぶさに観察する。仕事柄、弱った相手の確認が癖になっていた。
すると、右の後ろ足に傷を発見する。
鋭い枝か棘で引っ掻いたのだろうか。親指ほどの長さで浅いものだが、放っておけば化膿してしまうかもしれない。
エルセはいつも怪我人を相手にするように、優しく声をかけた。
「今から、あなたに癒やしの力を使います。痛みはありませんが、治癒の過程で若干痒みを感じるかもしれません。治してもいいでしょうか?」
言葉が通じるわけではないので、ひたすら穏やかな声で。
傷付けるようなものは持っていないと、両手を差し出してみせる。
頑なな様子を見せていた子熊も、時間をかけることで警戒を解いた。
ゆっくりと近付く子熊に、再び笑みを向ける。そうして、そっと後ろ足に触れた。
魔族になった今、癒やしの力の根元は魔力だ。聖力は祈りと献身によって得られるもので、元は唯一神の力。
怪我や病を治すという本質は変わらないけれど、聖力のように無限に溢れてくるわけではなかった。
エルセの魔力量に限界があるため、無理はできない。最悪魔力が枯渇して死ぬので、使うにも見極めが肝心だった。
幸い、子熊の傷は深くない。
治癒室業務に従事していたエルセでも、何とか癒やすことができた。
「ガウッ」
「フフ、元気になってよかったです」
完全に懐いた子熊がじゃれついてくる。
フワフワの毛が柔らかく、撫でる手がどこまでも埋もれてしまいそうだ。
頬をペロリと舐められ、エルセは明るい笑い声を上げた。
子熊が、不意に顔を上げる。
不思議に思って視線を追うと、すぐそこに青年が立っていた。
鮮やかな金色の髪と、澄んだ青い瞳が美しい。顔立ちも端整で、立ち姿もスラリとしている。年齢は二十代後半くらいだろうか。
青年は太い木の傍らに立ち、なぜか呆然としている。
その頬を、一筋の涙が流れていた。
フードをしっかりとかぶっているから、エルシア・フォードそのものと言える顔は見えていないはずだ。
なのでエルセは、もしや痛む箇所があるのではという心配が先に立った。
「あの、どうかされましたか?」
おどおどと近付く間も、青年は時を止めたように立ち尽くしている。全く微動だにしないから、油断していた。
青年は突然素早く動いたかと思うと、エルセをきつく抱きすくめたのだ。
「!? なっ……」
声を上げるよりも早く、彼の腕が離れる。
「――すまない、失礼な振る舞いだった」
抗議する間もなく謝罪され、エルセは何と返せばいいのか分からなくなった。
「君が、あまりにも知人に似ていたんだ。もう会えない子に。……だからと言ってこんな真似が許されるはずないが」
青年の瞳から、もう一粒涙が落ちる。
金色の睫毛が濡れ、木漏れ日をキラキラと弾いた。
何て静謐で、綺麗な涙だろう。
彼の言葉には嘘がないように思えた。
けれど、エルセに似ている知人という点には不安を覚えずにいられない。
目の前の青年と、エルシア時代に顔を合わせた覚えはない。
もしもこれほど綺麗な青年と会っていたら、間違いなく印象に残っているはずだ。
――他人の空似、ならいいけど……。
エルセは謝罪を受け入れながらも、念のためさらに目深にフードをかぶった。
青年が、改めて口を開く。
「私は、ティリクという。その子熊を探していたんだ。彼の母親をうちで保護している」
エルセは足に懐く子熊を見下ろした。
「保護?」
「あぁ、怪我をしていたんだ。野生の熊とはいえ、放っておけないから」
ティリクは獣医ということだった。
治療に専念していたら、いつの間にか子熊の姿がなくなっていたのだという。
「確かその子熊も、少しだけ怪我をしていたはずだが……」
子熊の右の後ろ足を確認する素振りに、エルセは大いに慌てた。
ロアーヌ聖国において癒やしの力は珍しいものではないが、神殿勤めが真っ昼間の森の中にいるのは極めて怪しい。神殿勤めをしていない能力持ちも、訳ありの者が大半だ。
そもそもエルセは魔族だし、魔族は人間界では珍しい存在だし、追及されたら何と答えればいいのか。
急に落ち着きをなくしたエルセに何を思ったか、ティリクはすんなりと話題を変えた。
「そこの子熊を院に連れ帰る。よかったら、君も来ないか? 先ほどの非礼を詫びたい」
「そんな、お詫びなんて、大したことはしてないし、いいんですけど……」
モゴモゴと言い淀み、断りの文句は尻すぼみに小さくなっていく。
エルセは、迷った末に頷いた。
やはりすぐには強くなれない。
森に一人きりという心細さには代えられず、あっさりと屈してしまった。
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