第3話 五年前


   ◇ ◆ ◇


 ロアーヌ聖国には、唯一神より癒やしの力を授かった少女が多く生まれる。

 癒やしの力が顕現した子どもは小さい内に神殿に預けられ、神へと奉仕をしながら大人になる。エルシアもその一人だった。

 稀に、研鑽と献身を積み重ねることで、大きな聖力を得る者が現れる。

 その者は、ロアーヌ聖国では聖女と呼ばれ敬われた。

 エルシアが聖女に選ばれたのは、十二歳になったばかりの頃だった。

 聖女となったからには、これまで以上に滅私奉公しなければならない。エルシアは寝る間も惜しんで人々に尽くした。

 神殿には、国中の病人や怪我人が絶えず運ばれてくる。

 まだまだ癒やしの力が弱い新人には、重傷病者は荷が重い。少女達に応急処置の施し方を教えながら、エルシアは聖女としての役割を全うしていた。

 聖女となってからあっという間に四年の歳月が過ぎ、十六歳になった頃。エルシアには婚約者ができた。

 フロイシス・ロアーヌ。ロアーヌ聖国聖王の第一子、つまり王太子だ。

 端整な容貌の王太子に憧れる娘は多かったけれど、エルシアが嫉妬の対象となることはなかった。

 優秀な王太子と、慈愛深い聖女。

 似合いの二人だと祝福する声が、圧倒的多数だったためだろう。

 一方エルシア本人は、王太子との婚約にそれほど乗り気ではなかった。

 聖女という稀有な存在が出現した時には、同じくらいの年頃の王族と娶せる慣習があっただけにすぎない。乗り気でないのはお互い様だっただろう。

 王太子がエルシアに関心を寄せることはなく、むしろどこか冷たく観察されていたように思う。値踏みをされている気がして、一緒にいる時間は苦痛でしかなかった。

 そんな状況が一変したのは、婚約から半年も経たないある日。

 異世界から、少女がやって来たのだ。

 突然聖王宮内にある庭園に現れた少女は、ユリ・イイヅカと名乗った。

 聖王国では見たこともない艶やかな黒髪と、神秘的な黒い瞳。不思議な衣装。

 呆然と、それでいて不安そうに瞳を潤ませる彼女に、真っ先に手を差し伸べたのはフロイシスだった。

 危険かも分からぬ人物に、部下より先に近付くなど王太子としてあるまじき行動。

 けれど彼の行動を、誰一人咎めることはなかった。エルシアもだ。

 まるで舞台の一幕のように、じっと見つめ合う二人。その場にいた誰もが漠然とした予感を抱いていたように思う。

 彼らの出会いは、きっと運命だと。

 そこからは、坂道を転がり落ちていくようだった。

 聖王宮にて保護されたユリは、言葉は通じるけれど読み書きができない。

 別の世界で生まれ育ったから、イースティルでの常識を知らない。

 フロイシスはそんな彼女の元に足繁く通い、何くれとなく力になった。

 エルシアも、一度だけ彼女の話し相手となったことがある。

 明るく前向き。無邪気で、勉強熱心。誰に対しても平等な振る舞い。故郷に帰れない悲しみを押し隠し、この世界に馴染もうと懸命に努力している。

 分かる気がした。フロイシスのみならず、誰もが彼女に惹き付けられる理由が。

 やがて、ユリに莫大な聖力があると分かり、ロアーヌ聖国に激震が走った。

 歴史を紐解いてみても、同時代に聖女が二人現れた例などなかったからだ。

 国内に、どちらが正しい聖女であるのかという論争が巻き起こった。

 それは貴族達も同様で、彼らはどちらに与することでより多くの利を得られるのか常に探っていた。

 聖女は、王族と結婚する習わし。

 けれどロアーヌ聖国は一夫一妻の文化だ。

 王太子と結ばれた方が、真の聖女であると言えるのではないか。次第に誰もがそう考えるようになった。

 その間もエルシアは、自らに課せられた義務を粛々とこなしていた。

 たとえ聖女と呼ばれなくなったとしても、エルシアには力がある。

 自らの将来を憂えるより、一人でも多くの人を癒やすべきだと考えていた。

 王太子の婚約者という立場に何の執着もなかったというのもある。

 その変わらぬ信念ゆえか、はたまた長年積み重ねてきた信頼ゆえか。神殿は全面的なエルシアの支持を表明した。

 これに貴族が傾けば、簡単に均衡は崩れる。聖王宮内でのユリの立場もなくなる。

 きっとフロイシスはそれを懸念したのだろう。すぐに公の場でこのような発言をした。

『異なる世界の少女がやって来るなど、本来ならばあり得ないこと。それはつまり、唯一神のみになせる御業。ユリは、神がもたらした奇跡以外のなにものでもない』と。

 彼の言葉が広く国内に浸透していくと、やがてユリは『唯一神の愛し子』と呼ばれるようになった。

 そんな報せを受けても、エルシアは神殿内で苦しむ人々を助け続けた。

 その内に、王太子とユリが城下街の至るところで目撃されるようになる。

 彼らの周囲には友人もおり、親しげな様子が手に取るように分かった。

 それを目撃した者達は、まるで未来を見ているかのように錯覚した。

 仲睦まじい聖王国国王夫妻と、信頼の置ける優秀な側近。明るく安泰な将来。

 ユリを真の聖女と支持する国民は、徐々に増えていった。

 逆に、何が起きても関係ないとばかり神殿に籠もっているエルシアは、少しずつ支持を減らしていく。

 助けた者達から視線を逸らされるようになっても、同じく神殿に仕える少女達から遠巻きにされるようになっても、目の前の仕事に没頭した。

 この頃には、助けたいとか自らの使命などという綺麗な理屈はほとんどなく、ただ現実を忘れていたかったのだ。

 エルシアは疲れていた。

 周囲の期待も、責任の多い立場も、ずっと一身に背負ってきた。

 解放されるならむしろ嬉しいとすら感じるのに、聖女をただ降りるだけでもこうしてまた振り回される。

 ユリと話した時だって、嫌な子だなんて思わなかった。周囲の勝手な思惑さえなければ友人になれたかもしれないのに。

 自分にも責任があることは分かっている。

 エルシアは、自らの思いを言葉にするのが苦手だ。

 貧しい家庭に生まれ、いつ捨てられるかと怯えながら育った。

 両親の顔色を窺い、兄姉に邪魔者扱いされる日々は、エルシアから本音を口にする勇気をことごとく奪った。

 聖力が発現して神殿に引き取られてからも、臆病な性格は直らなかった。

 役立たずと罵られるのが怖くて、ひたすら研鑽を積んだ。

 聖女に選ばれてからは、相応しくないと煙たがれるのが嫌でさらに国民に尽くした。聖女らしくあろうと努めた。

 全ては、ただ見限られたくなくて。

 怯えて何の主張もしないから、事態はここまで悪化してしまった。それは、エルシアの責任。

 けれど、どうすればよかったのだろう。

 フロイシスと親しくなっていればよかった? 想い合う二人を引き裂けばよかった?

 心の内を語り合うことで真の絆が生まれるというのなら、エルシアには誰との繋がりもないのだ。

 肉親相手ですら、不快に思われないよう笑ってやり過ごすことしかできなかった。努力して努力して、役に立つことを証明し続けるしかなかった。

 あとに残ったのは、誰にも必要とされない空っぽの人間だけ。

 時折、疲れ果てて自室に戻ると、窓辺に小さな白い花が置かれていることがあった。

 表立って支援できない誰かの励ましに思えるそれが、その当時唯一の支えだった。

 だんだん、長らく暮らしていた神殿でも居心地が悪く感じるようになって、エルシアは息抜きに遣いに出た。

 包帯や消毒液といった消耗品は商人が定期的に御用聞きに来るけれど、少女達が使う髪紐などの日用品は街で買い揃えねばならない。普段ならば見習いが任せられるような仕事だが、今のエルシアにはちょうどいい。

 買い物の途中、しとしと雨が降り出した。

 エルシアは紙袋が濡れないよう体で庇いながら、外套のフードをかぶる。どこか雨宿りのできそうな軒先を借りよう。

 通りを歩く人はみんな急ぎ足走りで、向かいから駆けてきた男性と肩がぶつかる。

 その拍子に、紙袋からコロリと青林檎が転がり落ちた。気分転換に甘いものでも食べようと、自身の僅かな所持金で買ったものだ。

 馬車の音が近付いている。

 見通しの悪い雨の日は運転がやや乱暴になるから、急いで避難しないと危ない。そう考えながら転がり続ける青林檎を追いかける。

 フードで狭くなったエルシアの視界に、青い果実とは別の赤いものが映った。

 子どもだ。

 親を捜して泣く子どもは、馬車が通ることに気付いていない。

 咄嗟に体が動いていた。

 子どもを突き飛ばした瞬間、衝撃と共に訪れたのは浮遊感。不快に思う暇もなく地面に叩き付けられ、無様に転がる。

 ぬかるみに落ちたのか、衣服がじっとりと重くなった。

 不思議と痛みはない。耐えがたい激痛が麻痺している代わりにか、急速に意識が遠退いていく。視界がかすむ。

 子どもが無事だったのか確かめようにも、体がいうことを利かない。何とか目だけを動かすと、火が付いたように泣きじゃくる子どもの下に母親が駆け付けていた。

 よかった、と思うと同時に虚脱感が襲う。

 ひどく寒かった。

 エルセには、駆け付けてくれる誰かがいない。独りぼっちだった。

 ぼやける視界には、車輪に潰された無残な青林檎のみが映っている。

 まるで自分のようではないか。

 喘ぐように笑ったのを最期に、静かに意識が途切れていく。


 人々のために尽くし、聖女とまで呼ばれたエルシアの、呆気ない幕切れだった。



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