第2話 過去と向き合う時
転生前の記憶は、はっきりと残っている。
エルセ・ソルブリデルとして転生したが、エルシア・フォードだった時からほとんど変わっていない。
銀色の髪と淡い紫の瞳になった以外は十七歳当時のままだし、神から授かった聖力と自らの魔力という違いはあるものの、癒やしの力だって持っている。――臆病な心の有りようも、人間だった時のまま。
魔王直属の秘書官に挨拶をすると、エルセはすぐに執務室へと通された。
重厚な扉の前、何度も深呼吸してしまう。
現在の父親といっても、相手は魔王。
エルセは五年経った今でも、その偉大な存在に慣れていなかった。
「し、失礼します」
声が上擦り、エルセは赤面する。
笑い交じりに入室の許可が下りたので、秘書官の視線から逃れるようにそそくさと扉の隙間へと滑り込んだ。
苦笑で出迎えてくれたのは、エルセと同じ銀色の髪と紫の瞳を持つ少年。
身にまとうものは全てが黒く、その中で端整な白い顔が際立って見えた。
「よく参ったな、エルセ」
「はい、あ、いいえ。そんなことないで……滅相もない……です……?」
「かしこまらずともよいと、常に言っておるだろうに。我とそなたとの仲ではないか」
「す、すみません……」
エルセは小さく縮こまった。敬語は人間の頃から苦手なのだ。
「休憩がてら、一緒にお茶でもどうかと思ってのう。癒やしの力を持つ者が他にいないからと、そなたは少々働きすぎだ」
少年が手を振ると、応接用のテーブルに湯気の立つお茶と菓子が並んだ。
最近のエルセは、彼にできないことなどないのではと思っている。
魔族の王。それは、生まれ落ちた瞬間から特別で、全属性の魔力を扱える唯一無二の存在らしい。
「いつもありがとうございます、陛下」
「ウォルザーク。それが嫌ならお父様、あるいはパパでもよいのだぞ?」
「ウォ、ウォルザーク様……」
「うむ。やはり我らの外見を考えれば、名前が一番しっくり来るのう」
魔王ウォルザークは、満足げに頷いた。
彼はまだ十歳程度の幼げな容姿をしているため言いたいことは分かるのだが、それならばその似つかわしくない口調こそどうなのかと問いたい。
魔族の純血種は、外見の年齢を自由に変えることができるという。このウォルザークも、メレアやメレグレドも、エルセは実年齢を知らなかった。
それに親子といっても、実際には血の繋がりのない養子だ。
地界に堕ちてきた人間を魔族として再生させるのも魔王の役割の一つなのだが、エルセが転生する際、気まぐれに自らの魔力を与えたことがきっかけだったらしい。
以来、彼に魔力を与えられた者として、地界の住民から魔王の養子扱いを受けている。おそれ多すぎて萎縮するのも当然だった。
最近彼がはまっているらしい緑茶を味わいながら、エルセは視線を上げる。
おいしそうに羊羮という名の菓子を頬張る少年は、いかにも無害そうだ。エルシアだった頃は、魔王といえば恐ろしいものと勝手に誤解していた。
「ううむ、あんこを考えた人間は天才だと思わぬか? もし魔界に堕ちてきたら、ぜひとも我の側に仕えてもらおう」
魔界堕ちを魔王に願われる相手は災難だと思いつつ、愛想笑いを浮かべる。やはり人畜無害とは言えない。
エルセは湯呑みの底で温くなった緑茶を、一息に飲み干した。
「その……残してきた部下のことが心配なので、私はそろそろ……」
「待て待て、そう急ぐな」
こうして休憩がてら呼び出されることは何度かあったが、引き留められたのは初めて。
ということは、何か用事があるのだろう。
姿勢を改めて座り直すと、ウォルザークもゆっくりと湯呑みを置いた。
「そなたは、本当によく働いておるな」
彼の口調ににじむのは、感心というより呆れ。褒められているわけではないようなので、どう返すべきか戸惑う。
「どのような相手にも献身的で、不平不満をこぼさず他者に尽くし続ける。きっと生前も、聖女の鑑であったに違いない」
「……そんなことは」
「ーーで、あるならば。なぜ地界に堕ちたのかと、そなたは疑問に思わぬか?」
突然鋭くなった声音に、エルセは全身を硬直させる。
ウォルザークは、冷徹さを感じさせる無表情になっていた。エルセの前では隠している為政者の顔だ。
魔王は、堕ちた人間が犯した罪だけでなく、人生の全てを把握しているという。
つまり彼は地界に堕ちた理由を訊いているのではなく、なぜエルセ自身が気にしないのかを問うているのだ。
「疑問など、ありません。今の暮らしが楽しいので……過去に未練を感じないのです」
「過去の真実を知りたいという思いは、現在を否定することにはならない」
放っておいてくれればいいのに。
エルセは膝の上、無意識にこぶしを握り込んだ。
前世など、思い出したくもないーー。
「……自らの前世ではないか。そのように拒絶しては、エルシア・フォードという人間が可哀想であろう」
思いがけず優しい声が、エルセに顔を上げさせた。目尻ににじんだ涙を慌てて隠す。
拒絶。そう。エルセは、エルシアとして歩んできた人生を拒絶している。前世で散々周囲からされていたように。
気付いてしまえば、それはあまりに惨めなことだった。自身ですら否定するなんて。
「断言しよう。聖女エルシアは、人々の安寧のために献身の限りを尽くした」
何とか堪えていた涙がこぼれてしまう。
エルセはずっと諦めていた。
人は、報われない。
どれほど真面目に生きても、惜しみなく尽くしても、無駄だった。温もりは与えられず、孤独の中で死んでいった。
降りしきる雨の中、馬車に気付かず泣いている子どもを咄嗟に庇った。
不幸な事故だった。
なのに、再び目覚めた時には地界にいた。
確かに、若くして命を散らすことは、決して褒められたことではないだろう。
けれど、聖女として誠心誠意国に仕えた。労を惜しまなかった。地界に堕ちるほどの罪を、一体いつ犯したというのか――?
頬を流れる涙を、ウォルザークの小さな手がそっと拭う。
「……エルシア・フォードの魂は、聖女であったくせにボロボロの状態だった。この我が憐れに思うほど」
地界に堕ちる魂は、恨みや憎しみで穢れているもの。エルシアのものも当然、絶望で漆黒に染まっていた。
「人間族の魂は、それなりに見てきたつもりだ。だが、傷付いてなお美しいと思ったのは初めてだった。そなたの魂の中心には、かすかな希望がきらめいていたのだから」
それは、まるで暗闇に輝く灯火。
今にも消えてしまいそうなほど脆弱なのに、絶えることなく存在し続ける。
衝動的に保護してしまうほど、ウォルザークにはかけがえなく思えた。
「そなたが立ち直るには時間が必要だと思っていた。だが、時間が促すのは忘却のみ。忘れることすらできないのなら、そなたには無意味なものであったのだろう」
優しい手が離れていく。
ずっとこんなふうに、穏やかな眼差しで見守ってくれていたのだろうか。
優しい魔王。優しい養父。
「エルセよ。そなたはそろそろ、人の痛みにばかりかまけず、自分自身を癒やすべきだ」
ウォルザークは、厳かな声音で告げる。
「エルセ・ソルブリデル。自らの前世であるエルシア・フォードが、なぜ地界に堕ちたのか。その死の真相を、人間界にて究明せよ」
それは、地界を統べる王が発した命令。
エルセは恐れすら抱きながら首を振る。
「嫌です、嫌……だって、エルシアが死んで、まだ五年しか経ってないのに……」
二度と会いたくない者達の顔が、次々に浮かんでいく。
元婚約者に、その側近達。そして――異世界からやって来た、もう一人の聖女。
もし出会ってしまえば、エルシアと似ていることから糾弾されるかもしれない。エルシア・フォードであったと知られることが、何よりも恐ろしい。
けれど、ウォルザークが命令を翻すことはなかった。
その顔にはどこか申し訳なさそうな、慈しむような笑みがある。
「すまぬな、エルセよ。我には、それより他にそなたを救う方法が思い付かぬのだ」
ウォルザークが、エルセの髪を撫でる。
「世界は確かに厳しい。だが、そなたが思うよりはずっと、愛に溢れているのだ。我はそれを知ってほしい。そしてそれを知るには、そなたは必ず人間界へと行かねばならぬ」
今は恨んでもいい。
いつかきっと、分かる日が来るから。
ゆっくりと頭を撫でながら、地界を統べる王は繰り返し囁いた。
ポロポロと涙を流し続ける、愛し子への餞のように。
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