誰が聖女を殺したの
浅名ゆうな
第1話 地界での暮らし
降りしきる雨と、頬に当たる石畳。
何もかもが冷たくて、凍えそうだったことを覚えている。
……死の瞬間、エルシアの胸を満たしていたのは、静かな失望だった。
◇ ◆ ◇
イースティルには人間族、そして天族と魔族という三つの種族が存在し、それぞれの世界に住み分けている。
人間族は、唯一神がお造りになった人間界と呼ばれる地上に暮らしている。
天族はその唯一神を頂点とし、それに仕える御使い達、死したのち聖人となった者達とで構成されており、大半は天界から出ることなく過ごしている。
魔族には地界で生まれ育った純血種と、罪を犯して堕ちた元人間とがいる。
純血種は矜持が強く、元人間を『半端者』として蔑む傾向にあった。堕ちた者達は地界に来た瞬間、体のどこかしらが異形の姿になるため、それが差別を助長しているのだ。
顔が鳥になった者、下半身が蛇になった者。昆虫のような手足が六本生えている者。
けれど、エルセ・ソルブリデルに限って言えば、少々事情が異なる。
まず、姿かたちは人間界にいた頃とほとんど変わらない。髪と瞳の色が変化しただけで、外見年齢も死んだ当時のままだ。
次に、元人間は名前しか持たないはずなのに、家名を持っていること。
そして最後、最も大きな違いは、エルセにも魔力が備わっていることだった。
本来、魔力を持つのは生粋の魔族のみ。
それが純血種にとって何よりの矜持であるはずなのに、エルセは魔族には珍しい癒やしの力を保有していた。
全ての特殊な事情に理由があるとしたら、当人はこう答えるしかないだろう。
『魔王の養子となったからである』と。
魔王の娘として転生し、はや五年。
エルシア・フォードからエルセ・ソルブリデルと名を変えたエルセは、魔族を癒やしながら生きてきた。
人間族が聖人や魔族に生まれ変わることはイースティルでは常識なので、一度死んだ身にもかかわらず『生きてきた』と表現するのも一般的だ。
勤務先はもちろん、養父にして魔王陛下のお膝元である魔王城。
地界の王の娘であることを知らない者などおらず、その上治癒能力まであるため、元人間と蔑まれるよりもむしろ重宝されている。
それなりに慕われてもいるし、信頼できる部下もできた。
エルセにとっては、地界での暮らしの方が快適なくらいだ。
「ゴラス閣下、施術は終わりましたよ。患部の具合はどうでしょうか?」
手の平にまとう光が、ふわりと消える。
エルセは、それと同じくらい柔らかな笑みを浮かべた。
治癒術を施していた相手は、厳めしい口ひげを蓄えた壮年の男性だ。記章がいくつも飾られた軍服を身にまとっている。
施術前は大儀そうに動かしていた腕を、彼は軽々と振り回した。
「おぉ、肩の凝りが驚くほど楽になったぞ。また痛くなったら頼むことにする」
「それより、また痛くならないよう普段から気を遣ってください」
「何ぃ? 貴様、儂に口答えするつもりか」
一気に剣呑な魔力を帯びる男性に、しかしエルセは冷静だった。
「痛むようでしたら、もちろんいつでも承ります。ですが、肩を温めるなどして予防することも大切ですよ。はじめから、痛くないのが一番なんですから」
魔族になり使えるようになった治癒能力は、怪我だけでなく病さえ治すことができるため一見万能に思える。
けれど、自らの魔力を癒やしの力に変えているだけなので、振るえる力には限界があった。万が一急患が出た場合に備えて、魔力は温存しておきたい。
また、痛みを取り除くことはできても、酷使すれば症状は戻ってしまうだろう。
「宰相閣下ともなれば忙してく休む暇もないのでしょうが、あまりご無理をなさらないでくださいね」
労りの気持ちを籠めて微笑めば、男性から放出されていた魔力がしおしおと大人しくなっていく。分かってくれたようでよかった。
肩の温めを実践してみると約束してくれた男性は、素直に医務室から帰っていく。
辣腕宰相と有名な彼とは初めて言葉を交わしたけれど、噂に聞くほど恐ろしくなかった。公私をしっかり分けているのだろう。
「……そういえば、温熱療法って魔族にも効くんでしょうか?」
今さらなことに気付いて首を傾げるが、宰相の経過を観察していけばいいとすぐに自分を納得させる。
そんなエルセに、低い声がかかった。
「――エルセ室長。まさか、宰相閣下で実験してみようなんて結論は、お出しになっておりませんよね?」
「敵と判断した相手は容赦なく叩き潰す(物理)って評判の宰相閣下を被験者扱いとか、死ぬ気っすか」
「……メレア、メレグレド」
猜疑心に満ちた眼差しを向けるのは、きっちり左右対称で揃えたような双子の男女だ。
短く切り揃えられた青い髪と冷俐な印象の美貌を誇るのは、姉のメレア。
髪の色が赤いこと以外全く同じ容姿をしているのに、どこか軽薄な印象を与えるのが弟のメレグレド。どちらも純血種の魔族だ。
元人間のエルセが王宮医務室の室長になると決まった時、当然ながら多方面から反発があった。
彼らも当初は拒否していた口だが、この五年の間に最も信頼する部下となっていた。
「あなた達はなぜ私の頭の中が読めるんですか? やっぱり、そういう魔力が……?」
怖々と聞けば、双子は白けた顔になった。
「ずっと側にいれば嫌でも分かるようになります。おどおどしてすぐ謝るかと思えば、治療に関しては譲らないし意外と怖いもの知らずですよね」
「つーか、俺達にそういう力がないってことは何度も説明してるっしょ。室長ってたまに相手の話を聞いてないっすよねー」
純血種の魔族には、精神干渉系の魔力を持つ者もいる。
とはいえ家系によって魔力の属性が決まっているため、双子にそういった能力がないことはエルセも理解している。彼らの属性は、氷と炎の二つのみ。
――というか、そんなにズバズバ言われると結構傷付く……。
部下の見解は地味に衝撃的だ。あえて口を噤むという奥ゆかしさはないのか。
エルセが黙り込んでいる間にも、メレアとメレグレドの話は弾んでいく。
「でもぶっちゃけ、閣下の我が儘にも困ったもんっすよね。肩こりくらいで癒やしの力を使わせるなんて」
「不敬よ、メレグレド。……まぁ、三日と空けず医務室を訪問する意図を、勘繰りたくなる気持ちも分かるけれど」
「はじめは捻挫、次は頭痛っすか。そのくらいなら施術もするけど、今度は腰痛に肩こり。完全にエルセ室長を狙ってるの見え見えじゃないっすか」
突然自分の名前が挙がって、エルセ本人は苦笑せざるを得ない。
「狙ってるというと、別の意味合いに聞こえてしまいますよ。閣下に失礼です」
彼の思惑は、魔王の娘だからと王宮で働いているエルセの排除にあるのだろう。
仕事ぶりに難癖をつけ退任に追い込むはずが、意中の相手のように誤解をされては少々どころではなく不憫だ。
腰痛や肩こりを起こすほど体を酷使しているのに、全く報われていない。
「うーん、他の治療法も探ってみますか。目の疲労が溜まれば肩や腰に影響すると、どこかで聞いたような……」
腰痛や肩こりは慢性的な痛み。
本人にとっては辛いものだろうし、それほど頑張って働いているゴラスには頭が下がるばかりだった。
なのにメレアは、冷えきった目でエルセに問いかける。
「室長が患者のことしか考えていないのはいつものことですが、狙っていないとそうまで断言できる根拠を示してください」
「だって、宰相閣下の純血至上主義は有名じゃないですか」
エルセのような元人間は相手にもしないだろうし、むしろ毛嫌いされているはずだ。
医務室勤務の誰かが目当てというなら、否定はしない。部下には純血種が多く、メレアとメレグレドを筆頭にみな容姿端麗だ。
メレグレドが、分かりやすく不満そうな顔をしながら反論する。
「室長は危機意識低すぎっす。その紫色の瞳は魔王陛下譲りで、超稀少じゃないっすか。それだけですごい価値なんすよ」
「紫という色が、魔族の方々に好評価なことは認めますが……」
それ以外に何も取り柄がないと言われているようで、正直複雑だ。
気のいい部下なのだが、なぜか接するたび心に絶妙な傷を負っているような。
彼らの信頼に疑いようがない分、質が悪いと言える。
「大丈夫ですよ。エルセ室長には、癒やしの力という長所もございますから」
メレアが励ますように付け足すも、それは追い討ちというものだ。
エルセは反論できずに笑うしかない自分に落ち込んだ。
我慢する癖が身に染み付いているせいか、エルセは本心を口にすることが不得手だった。軽快に本音を言い合える双子達が、少し羨ましい。
治癒術への感謝も、本来は喜ぶべきことなのだろう。前世ではこうはいかなかった。
ふと、近付く気配に顔を上げた。
パタパタとささやかな音を立てながら、窓辺にコウモリが近付いている。
「あれ? 何でしょう……」
人間の世界にも伝書鳩はいたが、地界の場合はコウモリが伝言を運んでくれる。
しかも手紙ではなく愛らしい声で伝えてくれるから、何度見ても飽きないどころか日々の癒やしに感じていた。
コウモリが窓枠に舞い降りる。人間界に生息していたコウモリに比べると、頭が大きく体つきもふっくらしている。魔獣の一種なのだという。
『エルセ・ソルブリデル様にお伝えいたします。手が空き次第、執務室に参られますよう、魔王陛下がおおせです。勤務中にたいへん申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします』
可愛らしい見た目にそぐわぬ丁寧な口調が、ちょっとだけ面白い。
エルセはクスリと笑みをこぼすと、メレアとメレグレドに業務を引き継ぐ。
「できるだけ早く戻ってくださいよ。俺らは治癒術使えないんすから」
「私達で対応できないような患者が来たら、ご歓談中であってもコウモリを飛ばすかもしれません」
「もちろん。すぐに呼んでください」
どんなに重要な用事があろうと、急患がいればすぐに駆け付ける。
罪を犯して魔族となったけれど、エルセは曲がりなりにも聖女だったのだから。
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