咆哮
羽鳥湊
家族連ればかりのうるさいファミリーレストランで、男三人で座る俺達はどう考えても浮いていた。そんな中で苛立ちを抑え、俺は正面に座った親父と兄貴に問いかけた。
「どうする?」
親父は俺の言葉が聞こえていないかのように腕を組んで目を閉じたまま動かない。兄貴はその横で頬杖をつき、不貞腐れた顔でコーヒーのカップを弄んでいる。
「どうするっても、急に決められることじゃねえよな」
兄貴はカップの中で揺れる残り少なくなったコーヒーを見つめて、絞り出すように言った。その無責任な言葉に、俺は奥歯をぎりりと食いしばる。
そんなことは俺だって分かってる。だけど、決めないといけないから集まったんだろうがと喉元まで言いかけた感情的な言葉を俺は無理矢理飲み込んだ。消化不良のその言葉は、俺の喉元でひりひりと存在感を主張する。
多分答えは一つしかない。だけどその答えを口にするのは自分ではない誰かに託したい。恐らく同じ想いを抱えた三人がいくら向き合ったところで、話し合いは進展するはずがなかった。
俺は立ち上がった。
「どうせ決まんないんなら帰るわ」と言って歩き出す俺に、兄貴が「おい」だか「なあ」だか言っていたがよく聞き取れなかった。恐らく真剣に引き止めるつもりもない上っ面の言葉になど、耳を貸す必要はない。
最後にちらりと横目で伺った。親父は目も開けず、腕を組んだままだった。
俺は帰りの車内で何本も煙草を吸った。いくら煙草を吸おうとも、この苛立ちが収まることはなかった。それどころか、窓に映る夜景を見れば腹が立ち、信号が赤になればまた腹が立ち、挙げ句の果てには呑気に空に登る満月の丸さすらも俺を苛立たせる。
吸っては消してまた火をつける。煙草代がいくらかかっているか考えるのも憂鬱だった。しかし吸わないとこのストレスの捌け口が他にない。最近は髪の毛まで抜けてきた。俺の日常は、ストレスに支配されつつある。
庭に車を停めて、真っ暗な家の玄関の鍵を開けて、手探りでスイッチを付ける。築年数の経った賃貸の一軒家は、電気をつけてもどうも薄暗く感じた。人がいないから、そう思ってしまうのだろうか。一人暮らしの家の廊下をぎしぎしと歩く。
少し前まで俺はこの家にお袋と二人で暮らしていた。
お袋の頭の中に異変が見つかるまでは。
親父の家庭内暴力によって俺が十五の時に家庭は破綻した。
当時もう二十歳だった兄貴は持ち前の要領の良さを存分に発揮し、これを機にと付き合っていた女と入籍して家を出た。
俺は当然お袋を選び、親父の名義で購入した外見だけはまともな一軒家にはまだ折り返してもいない親父名義のローンと、哀れな暴力親父だけが残された。
それ以来二十年お袋は必死に働いた。決して父の力を借りたくないと言い、養育費を受け取ることもせずに俺の高校卒業まで不自由ない暮らしをさせてくれた。
大学進学は俺の方から断った。お袋は「行きなさい。お金の心配はしなくていい」と言ってくれたが、生憎俺のお
けれどお袋は家賃も光熱費も俺からの金は一切受け取らず「貯めておきなさい」と頑なだった。俺もそれに甘えてこれまでを過ごしてきた。
もう少し俺が気を配れる男だったら、お袋に何もかもを背負わせなかったのに。今更言っても遅いのだが、お袋の体が平均寿命よりずっと早く悲鳴を上げたのはきっと俺のせいでもあると考えずにはいられない。
家を出るとき、籍だけは抜かなかった。だから書類上は今も親父とお袋は夫婦のままだ。
兄と俺の苗字がお袋と違うのも嫌だったし、十五年使ってきた苗字を変えるのも嫌だった当時の俺がお袋に頼み込んだのだ。お袋は少し不服そうな顔をしながら、俺の願いを聞き届けてくれた。
しかし、今になってこの決断を後悔している。息子より夫の方が、立場的に優位なのだ。病院では何かと親父が優先されて歯痒い想いをした。最近は当時の何にも考えていない馬鹿な俺に腹を立てては、後悔を繰り返している。
敷きっぱなしの布団に横になり、天井を見上げた。お袋が居なくなってすっかり荒れたこの家は、ただ寝るだけの場所だ。安らげる事はない。
翌日、俺は仕事をしていた。
ドライバーとして就職した理由は、一人の時間が長いから。お袋に甘やかされて育った俺は、よく協調性がないと言われるが、それこそ今更どうしようもない。
運転中は誰にも気を使わなくて済むから助かっている。
最近は特に落ち込んでいる事が多く、コンビニの店員に話しかけられることすら苦痛だ。一人になれる車内は、唯一俺の心が安らぐ場所なのだ。
搬入先の印刷会社で事務員に判子を貰う。
事務員の目が腫れて赤かった。普段だったら少しくらい世間話をする仲なのだが、生憎今日はそんな気分ではない。よく見ると泣いたようでもあり、何かを相談されたりすると厄介だと思い「ありがとうございました!」と足早にその会社を後にする。
きっと失恋でもしたんだなと駐車場を歩きながら考えた。不幸の種は至る所に転がっているものだ、俺だけじゃないと自分に言い聞かせる。
車に乗り込んだところで兄貴から連絡が来た。
『話がある。夜実家に来い』一方的な命令口調にかっと頭に血が昇るのを感じた。こっちの都合ぐらい聞けよ。
俺はハンドルを力任せに殴った。
車が少し揺れた。
仕事が終わり、言われた通り実家に向かった。親父が一人で暮らす実家に着くと、既に兄貴の車は停まっていた。俺は狭い庭に何度もハンドルを切って車を停めた。ここまできておきながら、少しでも家の中に入ることを遅らせたかった。
会ってもどうせ話し合いは前には進まないのだ。かと言って、自分のいないところでお袋の話をされるのは嫌だった。
俺は車を停めてから外で煙草を一本吸ってから、家の中に入った。親父と兄貴は暗い顔をして向かい合い、ダイニングの椅子に座っていた。俺は何も言わず、兄貴の横に座る。まだ家族だった頃の、俺の指定席だ。
俺が座るのを見届けて、親父が口を開いた。
「諦めるしか、ないと思うんだ」
お袋は三ヶ月ほど前に脳に腫瘍が見つかり、手術をしていた。元々完治は難しく、部位的に難易度が高く成功の可能性は低いと嫌になる程説明を受けていた。
結果的にその手術で腫瘍は取りきれず、お袋の頭には爆弾があると考えてくれと言われた。
いつ爆発するともしれない爆弾は日に日にお袋の頭の中で肥大し、お袋を壊していく。その腫瘍が大きくなるたび、お袋はお袋でなくなる。
腫瘍に圧迫され、記憶を失い、言葉を失い、日々弱るお袋。そんな姿を見るのは辛かった。
見舞いに行っても「どちら様ですか?」と言われると心が痛んだ。調子の良い日は良い。しかし調子が悪い日は息子の事を忘れる事もある。俺はお袋にとって忘れられる程の存在なのかと考えれば考えるほど俺の心の中は荒れた。
会いたいという想いは確かにある。しかし会っても忘れられていたらと思い足がすくむ。見舞いの頻度は徐々に減った。
そんなある日、病院から呼ばれた父が説明を受けた。
母の体が弱っていて、食べ物を飲み込む事が出来ない。胃ろうで延命するか、そのまま看取るか決断する必要がある、と。
父はその日、俺達を呼び出し、重苦しい雰囲気の中で医者から告げられた事実を宣告した。
目の前が真っ暗になった。
『延命』という単語に俺は
そうして、その結論を先延ばしにしたまま今日まで来た。もうそろそろ返事をしなくてはいけない。幾度となく集まっては結論を出せずに終わっていたこの話に、きちんと向き合わなければならない。しかし。
母の命にリミットをつけるなど、俺達には荷が重すぎる。
だから親父の発言に耳を疑った。
「……諦めるってなんだよ。お袋にそのまま死んでくれってか?」
俺は震える声で親父に反論した。兄貴が息をのむ音が聞こえた。
「仕方ないだろう。お前のことも忘れちまってるのに。母さんが今の状態で生きながらえたいと思ってると思うのか」
最後まで聞かずに俺は立ち上がって親父を殴った。
親父は殴られた頬を触りながら笑った。
「お前は俺にそっくりだな。なんでも暴力で解決しようとする。母さんは大嫌いな俺にそっくりだからお前の事を忘れたかったんじゃないのか?」
カッとなってさらに親父に殴りかかろうとしたところを兄貴にはがいじめにされる。
「やめろよ!やめろって!」
俺は殺してやる、と思った。
こんな残酷な事を出来る親父は人間でなどない。殺してやる、殺してやる。
親父はため息をついて、俺から視線を逸らした。
「もう、サインをしてきた。病院には、そのままにしてくれと言ってきた」
親父から発せられた言葉を飲み込むのに時間がかかった。数秒の後、膝から崩れ落ちた。兄貴はそんな俺からそっと手を離した。
「嘘だろ? ……嘘だろ?」
自分の口から出た言葉はとてもか細く、独り言のようだった。
「嘘じゃない。胃ろうして延命して、その先に何がある。もう、意志の疎通ははかれないんだぞ」
親父の言葉が、やけに頭の中に響く。
俺は泣いていた。うずくまって、まるで幼児みたいに。
「それに、母さんは少し前に言っていた。もし、延命となったら殺してくれと。息子達に負担をかけたくないと。俺が夫だ。決定権も、サインをする権利も俺にある」
親父も泣いていた。
兄貴も泣いていた。
俺達には母の気持ちなど、何一つ分かっちゃいなかった。
お袋はいつだって俺達よりも一歩先を考えていて、自分よりも子供の事を優先して。
だけど、なあ。
俺達はそんなお袋にいなくなって欲しくなくて戦ってたのに。
自分と、戦ってたのに。
勝手に覚悟、決めないでくれよ。
置いていかないでくれよ。お袋。
男三人で泣いた。
それは、無言の肯定だった。
お袋が亡くなり、葬式を済ませた。
言葉にすると簡単だけど、それだけでは済ませられないほどの葛藤があった。遺影の中のお袋はそんな俺の心中を知る由もなく、幸せそうに笑っていた。
俺はこの思い出深い一軒家から出る事を決めていた。もう物件も契約済みで、少しずつ荷造りをしなければならない。今日から取り掛かる予定だった。
お袋の写真を見て、それから作業を始めようと思ったのに。
動けなかった。不甲斐なさとやるせなさが一気に襲いかかってきて、抗えなかった。
お袋が生きている間は正直、毎日が憂鬱だった。向き合わないといけない問題が大きすぎて、何も決められなかった。
だけど、今となってはその決めさせてくれなかった親心すらも、俺の心を責め立てるのだ。
結局親父に罪を被せて、兄貴と俺には何も背負わせなかったお袋。
俺は何も出来ない。
俺はしてもらってばっかりだった。
お袋。せめてもう少しだけでも一緒にいたかったよ。
台所に目をやると、お袋が使っていた調理器具が綺麗に並んでいた。
最後に作ってもらった料理、なんだっけ?
もう、思い出せない。
二度と食べられないのに。
俺は雄叫びを上げた。
そして部屋の中で暴れた。思い出の茶碗も、コップも、床に投げつけた。
一方で冷静な自分が、母の仏壇と遺影にだけは被害が及ばないようにしようとする。
自分の中の激情を抑えきれない。
俺は叫びながら、思い出を破壊することしか出来なかった。
壊れてしまえ。
こんなにうまくいかない世の中など。
役立たずで大切な人を守れない俺など。
こんな悲しい世の中なんて、なくなってしまえばいい。
俺はガラスの灰皿を投げた。
床に当たって砕けた。
泣きながら叫ぶ。
先のことなど、考えたくもなかった。
咆哮 羽鳥湊 @hatori_minato
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