鯨竜-レイデマール-


「弟子くん、急いで準備をするんだ!」


 二階から駆け下りて来た師匠の声で体を丸めて眠っていたガルが飛び起きた。


「いきなりどうしたんですか……」


 スケッチブックとペンをテーブルに置いて扉の方に顔を向け、不気味なほどの笑顔と目があった。


「聞いて驚け弟子くん、鯨竜レイデマールが大西洋の浅瀬に浮上して来たんだよ」


 ニコニコとしか言いようのない表情で嬉々として語るそれが、どれほどの意味を持つのか俺にはまだイマイチ分からなかったが、とりあえずとても希少な現象なのだということは察した。


「…………今から大西洋に行くんですか?」

「いつまた沈むか分からないからね。特別なものは要らないから、先に鷲竜イグルス達のところで待ってるね」


 言うだけ言って師匠は鞄と一眼レフデジカメを肩にかけて、扉から飛び出していった。


「竜に乗って行くのか……」


 風が寒いので防寒着はしっかり着込んで行こう。





「やあ、待ってたよ」

「鯨竜はまだ見える?」

「挨拶よりドラゴンの事とは……君が噂の弟子か。少年も先生がこれじゃ大変だろう」


 外国人……フロリダの海岸にいたのでアメリカ人だろうか? 日本語がすごく流暢な彼はアメリカの竜種研究機関の人で師匠の昔からの知り合いらしい。


「気球は準備済みだ、急ごうか」


 フロリダまで竜に乗って来て、今度は気球。どうやら俺が想像していた以上に鯨竜に会うための道のりは大変らしい。


 生まれて乗った気球は荒々しく風に煽られた酷いものだった。


「弟子くん、死にそうな顔してる……アンドレー、もうちょっと優しく運転できないの?」


 気球も「運転」で良いのだろうか。とも思ったがそれよりも自分の吐き気の方が深刻だった。


「キミの100倍はマシなつもりだが、もう少しだけ耐えてくれ、鯨竜が見えたら滞空する予定だ」


 「そのもう少し」は師匠に背中をさすられて励まされると言う非常に恥ずかしい思い出来が紛れたのか、本当にあっさりと終わった。


「到着だ、立って下を見てみな。酔いも吹っ飛ぶぞ」


アンドレに手を引かれて立ち上がり、気球の真下数十メートル先にそれはいた。


「でっか……」


 思わず声に出てしまった。鯨というぐらいなのだから、もちろん巨体なのだということは想像していたがコレはその想像を遥かに超えていた。

 頭から尾の先まで視界に収まりきらない。


「観測記録では全長220m。単一個体としては最大のドラゴン。それがコイツだ。『海の王』の学名は伊達ではない」


 その背中を海面上に出せば島と誤認しそうなほどの巨体。だが、尾びれを雄大になびかせたしかにそれは生きて動いていた。


「さて、弟子くん。ちょっとお勉強のお時間」

「え? あ、はい」

「鯨は何類でしょう」

「……哺乳類ですよ」


 流石にそれくらいは俺も知っている。


「そう、鯨は哺乳類。じゃあ、鯨竜の分類は何でしょうか?」

「えっと……哺乳類だから……獣竜……」


 と自分でいいながら、眼下で遊泳するソレのシルエットを改めて観察する。

 頭部には長い顎髭あごひげ、巨体からは左右一対の胸ビレ。


 本来の鯨との違いは尾が長く伸びその先に魚類らしいY字の尾びれがあること、体表は……遠くて正確なところはよくわからないがぱっと見はゴツゴツとした岩肌のような背だ。


「足がヒレ状でも獣竜に入るんですか?」


 師匠から聞いた獣竜の特性は「四脚歩行」と「飛行能力が無い」ことだったはず。


「私達竜学者はとりあえず、『基となった概念』と『竜の外見』だけを基準に分類するって決めちゃったからね。陸上生活能力がない鯨竜は『生体竜』の『魚竜種』ってことになっちゃうわけ」

「じゃあ……シャチとかイルカも?」

「シャチの竜かぁ……どうだろうね」

「シャチもイルカもまだ未発見だよ」


 アンドレさんの補足が入る。


「海はあまりに広くてね、海洋生物を基としたドラゴンは二十に満たないごく少数しか見つかっていないのが現状だ」

「ちょっとアンドレー、私が弟子くんに教えてたのに」

「君だけの授業じゃ、彼の将来が心配だからね」


 師匠達の軽口を脇に再度、眼下に広がる巨体を見下ろす。


「クジラなのに……魚……」


 とは言っても、クジラ達自身は哺乳類とか魚類とか人間が勝手に決めた基準を気にしているわけではないだろう。陸上の犬やネコよりよほど海の魚達の方に同類意識を持っている……かもしれない。


「……師匠」

「ん? なにかな?」

「もしも……『ヒト』の竜がいたら。どう分類されるんでしょうか?」


 すぐに答えは返ってこなかった。師匠に顔を向けていなかった俺にはその沈黙の意図もよくわからなかったが、俺の横で一緒に鯨竜を見下ろす姿勢になった師匠はこう言った。


「さあ? 猿の竜は……四足歩行の獣竜だけど、『人間から生まれた竜』ははまだ見つかってないからね」


 一拍の後、俺の顔を覗き込むように首を乗り出した師匠と目があった。


「もしも……弟子くんが見つけたなら、『ソレ』が何なのかは、君が決めるの」

「俺が決める……」


 無意識に反芻した言葉は胸に妙な後味を残した。


「って、あぁ! アンドレ! 鯨竜が潜水し初めてない?!」

「なんだって! 僕まだ一枚も撮影してないんだけど」

「前に上がってきたのっていつだっけ?」

「4年前だ! 少年! 君もありったけ撮れるだけ写真を撮ってくれ!」


 アンドレさんに促されて慌ててレンズを覗く。


 てんやわんやの撮影は20分ほど続き。鯨竜の背中は深い深海の底に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る