水銀竜-マキュリウス-
マスクは個人的な理由で好きでは無い。理由の一つは単純につけると口周りが蒸れて嫌いという理由、もう一つはマスクをつけた人間は表情が読み取れないので気味が悪くて苦手という理由。
「ここからはこれをつけないと危ないから」
師匠はそう言ってバックパックからガスマスクを取り出した。
「弟子くん、これ付け方わかる?」
「いえ……人生初です」
手渡されたソレは目の部分にレンズのある顔を完全に覆うタイプのもので、頬の部分に大きな缶のようなものが取り付けられている。そのいかにもな見た目の仰々しさはある種の恐怖と安心感を両立させる奇妙な感覚を俺に与えた。
「貸してみ、付けたげる」
「お願いします」
気恥ずかしさが無いわけでは無いが、師匠が危ないと言う時は冗談抜きで危ないことなので大人しく任せる。
だが、眼前に広がっているのは草木がほとんどなく岩肌が剥き出しの山の斜面、ガスマスクが必要な感じの光景には見えない。
「師匠、ここには何があるんですか?」
「目の前に見えるあの山、大昔に色々出てきたらしい鉱山なんだけど、今は人間の手から離れて今は
「水銀ですか」
「弟子くんの初めての元素竜はもうちょっとポピュラーな子が良いとは思ったんだけど、今回は色々と急ぎでねぇ」
会話しながら俺のガスマスクを整え、テキパキとなれた手つきで自分の分のマスクを取り付けた師匠はそのまま厚手のゴム手袋を付けていく。
「面倒なことにあの鉱山が開発プロジェクトの対象になったらしくて、一般人の目に触れちゃう前に住み着いてる竜を別の廃坑に移住させるのが今回のお仕事」
「事情はだいたいわかりました……でも、その仕事に俺が役に立つとは思わないんですけど」
「はははっ、そこは期待してない期待してない」
……笑って言われるとそれはそれで複雑な気分になる。
「君はとりあえず、死ななきゃそれで良いよ」
「師匠、毎回それ言ってますよね」
「優秀な竜研究家の第一条件だからね」
山の麓まで歩み寄り、ガスマスクに続いて師匠はバックパックから今度は折り畳み傘のような袋に包まれた三十センチほどの棒状の何か。
「さて……偉そうなことは言いつつ弟子くんにもちょっち手伝って欲しかったり」
「……これなんです?」
「特注の折りたたみ式箒」
師匠はテントの骨組みの要領で3分割されたアルミパイプを袋から取り出し、テキパキと連結させて最後に、ブラシ部分を先端に繋げて完成した箒を俺に手渡した。
「さあて、地下ダンジョンの捜索スタートだよ」
鉱山には元々人間の採掘用に整備された出入り口の他に、あきらかに人工のものと思えない高さ2mほどの洞穴がいくつか点在していた。
支えもなく、いつ崩落してもおかしくないようなその入り口数mの場所で師匠と並び、箒で地面の土をさらう、一通り確認すると次の穴にいき、また箒で地面を掃く。
一箇所だいたい20分ほどかけ、4つ目にして師匠が声を上げた。
「弟子くん、こっち来てみて」
マグライトで照らされた地面には幅5cmほどの黒い帯のようなものが薄く土を被っていた。
「これが水銀竜の尻尾だよ」
「え?」
思わず暗い穴の奥の方に目を向けて闇を睨みつけてしまった。
しかし、少なくとも見える範囲にはその尻尾の本体の気配は全く感じられない。
「この子はこんなふうに自分で掘り進んだ穴を巣にしているんだけど、迷路みたいになってて作った本人も迷うくらい複雑でね、だから、こうやって尻尾の先を入り口に残す習性があるの」
人間も使っているような命綱の一種ということか。
「アリアドネの糸みたいですね」
「使っているのは迷路の主人ご本人だけどね。それじゃ、今からこの尻尾を伝って行くけど頭上には気をつけて、マスクにはさっき渡した酸素チューブを繋げて」
「はい……」
マグライトを持った師匠を先頭に巣穴を進み始め、数mもせずに太陽の光は届かなくなった。微妙にだが、上向きに勾配があるからだろう。
何度か枝分かれがあり、そのたびに床を箒で掃いて尻尾を見つけ、それを辿る。尻尾の幅は進むほどに大きくなっていく…………というか、そろそろ100mはゆうに歩いているはずなのだがいっこうに竜の気配がなく尻尾が続いているのはどういうことだ。
「そろそろ、かな」
体感さらに50m、合計150mほど歩いたところでようやく師匠が一旦足を止めた、足元の尻尾は薄さは1、2cmほどだがその幅は入り口で見た細さが冗談に思えるほどに広がり、1mに迫るほどになっていた。
師匠は小さなベルを持ち、洞窟の奥をライトで照らしながらチリンと小さな金属音を洞窟内に反響させた
数秒の余韻の後、ソレは水音と共に現れた。
水に濡れたような照りのある金属色を全身に纏い、光を全方位に反射するその姿はなんとなくサンショウウオを想起させる。だが、あまりに長い尻尾から考えれると腹這いの体高は俺や師匠の背よりも低く、少し拍子抜けした。
尾の長さとそのサイズ感は明らかにミスマッチだが、そもそも全身を粘膜のように水銀で纏う生き物を常識で測ろうとする方がナンセンスか……。
銀色ののっぺらぼうは師匠の振る鈴の音に過敏に反応している様子で、師匠が一歩下がれば一歩進み、ぴったりと一定の距離を保っている。
「さて、それじゃお引越しをお願いしましょうか」
そう言って師匠は鈴を一定のリズムで鳴らしながら元来た道を歩き始めた。
やはり水銀竜は一定の距離を維持したまま、その後を這うように進んでいる。分泌される水銀が潤滑剤代わりなのかその巨体からは地面を擦る音や重い足音は聞こえてこない。
チリン、チリン
師匠も師匠で定期的に足元にある水銀竜の尻尾を確認しながら洞窟を進んでいる。
チリン、チリン
一定のリズムの鈴の音、一定のリズムの歩調。
行きと同じだけの時間をかけて洞窟の出口に出る頃には、日は完全に暮れて、空には青白い満月が浮かんでいた。
この後どうするのかとか、師匠に色々と聞きたいことはあったのだが、誘導の邪魔にならないようにそういった疑問は一時飲み込み、無言で師匠の一歩後ろについていく。
約一時間かけて、別の山に辿り着くと、師匠はポイと先程まで振っていた鈴を放り投げ、水銀竜はそれをパクリと大口を開けて食べた。
師匠の放り投げた鈴を丸呑みした水銀竜は、そのまま真っすぐ歩きはじめ、師匠は人差し指をマスクの前に立てて、彼に道を譲った。
頭を擦り付けるように山肌の土を削り掘っている。その穴に水銀竜の体がまるまる入り切るのと夜明け、どっちが先になるやら。
師匠はそんな姿をチラリと一瞥して長い尾と点々と水溜りのように連なり、月光を眩く反射する水銀が続く道を戻りはじめた。
しばらく歩き、足元の尾が数cm幅にまでなってようやく師匠が口を開いた。
「お疲れ様、今日のお仕事はこれでおしまい」
「俺は何もしてないですけど」
「それでいいんだよ」
「師匠、この水銀って持ち帰っても大丈夫ですか?」
「お、研究者らしい自主性だね」
俺はサンプル採取用のガラス瓶を取り出し、足元の水銀溜まりから直接、便の口ですくいあげ、蓋をしたソレ目の前に持ち上げ、光を当てる。
土が入らないように気をつけたつもりだったのだが、瓶の中身は不純物だらけだった。
「むぅ……」
改めて、少しでも大きめの水銀溜まりを選び慎重に、時間をかけて再挑戦する。
「うまく出来たかな?」
ガスマスクで表情は見えないが笑っているだろう事だけは声色ですぐにわかった。
「睨まない睨まない」
俺もガスマスクをつけているので表情は曖昧なはずなのだが。
師匠は視線から逃げるようにふらっと小さな水銀溜まりに近づき、少し屈み、気付くとその手には月の光を反射する綺麗な金属色液体が入った小瓶があった。
「ハイ、今日のバイト代。危険物だから、取り扱いには気を付けてね」
「え? うぉ」
ポイと先ほどの鈴と同じように無造作に放り投げられたその瓶を両手で受け止める。
自分で水銀を入れた瓶と、師匠に渡された瓶。二つの瓶越しに眺める小柄な師匠の背中はガラスの屈折も合わさりとても遠く見え、俺は走って後を追いかけた。
走りながら、そういえば俺は本物の水銀をそもそも見たことがなかったな、という事を漠然と今更に思っていた。
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