葬送章第7節「決して綴られざる顛末」
「生と死、善と悪。世界は様々な境界線によって二分されてきた。だが多くの人々はそういった大枠の内側ではなく、外側に目を向けようとした。水面の奥、空の彼方。あの地平線の向こう、世界の果てには何があるのだろうか、と。そうして数多くの神話が生まれた。この町で信仰されているレミューリア神話は、我々の住む世界の外側にある魔界を描いたものだ。この魔界には死後に行きつくとされる天国と地獄も含まれている。そして、魔界の秘境には
────────アルセーヌ・ジェンキンスは魔界にある
昏い大海原の上に聳え立つ万魔殿。水平線の彼方まで広がる殺風景な景色は、彼を陥れる直前にルミナが訪れた地でもあった。
彼はそこが魔界であることを察していた。そもそも、魔界に沈んだ町で命を落としたらどうなってしまうか。少なくとも、その命が正しく天に導かれるはずもないだろう。
未だ感覚の残っている体を起こし、ジェンキンスは歩き出した。感覚があるとはいえ、現実と空想の区別は判然としない。例えるなら、夢を見ている時の気分に近い。夢の中だったとして、手足は動くし意識だってある。それが自分の意思でなかったとしても。
そして、彼はすぐにそれが悪夢であることに気づいた。
「これは……」
彼が目にしたのは、水平線まで果てしなく続く昏い海。覗き込んだ水面に反射したのは、見覚えのある町なみ。そう、彼が住んでいた町アトランティスだ。写っているのは見慣れた教会の正門前で、厳かで美しい雰囲気は今なお色褪せていない。
それを見たジェンキンスは懐かしむように手を伸ばした。すると、指先が触れた水面は揺らぎ始め、映っていた町なみも変化していく。まるで、キャンバスに描かれた美しい絵画をたった一滴の水が濁していくかのように。
「…………」
みるみる内に、アトランティスは変わり果てた姿を現した。教会の屋根は崩落し、舗装された道路は複雑に叩き割られる。教会だけに限った話ではない。亀裂は彼の足元や空にまで走り、見上げると砕かれた町の残骸がいくつも浮遊していた。それは見慣れた町なみとは程遠く、彼が最も恐れていた最悪の未来。
宙に浮かぶ砕かれた地形を見ると、アトランティスに流れる小川が寸断され滝のように水をこぼしていた。溢れた水はさらに下に浮遊する別の地形に雨となって降りしきる。そこにはブランコや滑り台が見られ、公園だったことが分かる。別の地形へ目をやれば、小さな二階建てのアパートがある大通りが逆さになって浮かんでいた。
もはや天と地の概念が失われ、無秩序がもたらされた町アトランティス。これがあの悪魔の女が導いた破滅だというのだろうか。
ジェンキンスは混乱する思考の中、目の前に残された教会へ戻ろうとする。彼はこの破壊された町のどこかにルミナがいることを半ば確信していた。彼女ならおそらく、神の子を悪魔へと転移させ自分だけの玉座から見下ろすことを好む。問題は、彼女がどこにいるかだ。
教会の扉を開け放ち眼前に広がったのは、万魔殿だった。驚いて背後を振り向けば、すぐに断崖となっていて後に退くことも許されない。
ここは魔界。アトランティスは破壊され、魔界の藻屑と化してしまった。
彼はルミナへの復讐心を募らせ、万魔殿へ足を踏み入れた。彼が入った空間は大広間になっていて、天井にはシャンデリア、中央には贅沢な絨毯が敷かれている。それへ足を乗せ、ジェンキンスは正面へ体を向けた。視線はいくつかの階段を経て、堂々と構える玉座を捉えた。まさに、全てを我が物にする王が座すに相応しい場所だ。
しかし、玉座に腰をかけているのはルミナではない。ルミナ以外の魔界の住人と会ったことはないが、彼が身にまとう雰囲気から只者でないことは分かる。いや、彼と言っていいのだろうか。玉座に足を組んで座る彼の肢体は妙に艶かしく、曲線を描く体型も女性的に見える。頬杖をついて目を閉じた表情は繊細だが凛々しく、男性にも女性にも思えた。
彼────レンは、ジェンキンスに気づいている様子はない。ジェンキンスは、彼の眠りを妨げぬようゆっくりと段差に足をかけて進む。すると、レンはゆっくりと目を開けた。その瞳は極彩色に満ち満ちていて、世界を混沌に濁している。
いくつかの段差を越え、対等の位置に立ったジェンキンスは足を止めた。二人の間は五メートルほど離れているが、お互いの表情ははっきり見える。とはいえ彼は目を伏せたままで、訪問者を気にも留めていない。
ジェンキンスは玉座に座り頬杖をつくレンへ、慎重に言葉を選ぶ。決して失礼のないように。
「アトランティスを魔界に沈めたのはあなたか?」
空気は緊張していたが、レンがその穏やかな声を伝えるにはむしろ好ましかった。
「世界の地平線は破かれた。もはや世界を別つ境界線は失われ、万魔が氾濫するだろう」
レンはなおもジェンキンスを見ずにいた。それでも、彼の言わんとすることはしっかりと伝わってくる。
「……あれは我々の意思ではない。一人の魔導師が犯した過ちだ」
彼らが語るのはルミナのことではなく、彼女より以前に魔界との接触を図った人物のこと。アトランティスにも錬金術師グランチェスター卿が存在したが、彼は世界に初めて魔法をもたらした始祖魔導師ではない。世界の地平線を破こうとしたのはとある魔導師だったと、ジェンキンスは記憶している。その責任を自らに問われても、ジェンキンスにはどうすることもできない。
しかし、レンは自然の摂理をあるがままに語った。
「罪禍も潔白もいずれ悉く淘汰される。如何なる形であれ全てに終止符が打たれるものだ。たとえ命を奪われたとしても」
全ての物事には始まりがあると同時に終わりがある。世界の法則とはかくも等しく通じるものだが、時にそれを破る者が現れる。たとえば、何の前触れもなく町に現れて神の子を誑かしたルミナという女。
「ならば、私の命を奪ったあの悪魔はどうなる? あのまま町を侵蝕し、やがて世界すらも破滅へ導こうというのか?」
ジェンキンスはレンにそう訊ねた。
本当に自然の摂理が働くのであれば、ルミナもいずれ淘汰される時が来ることになる。だが、彼女は神の子による裁きから逃れた上に、その力を利用し町に破滅を招いた。そんなことが許されていいのだろうか。
「全ては因果律に沿っている。それを逸脱し操ろうとしない限り」
言いながら、レンは頬杖にしていた手を動かして優雅に開いてみせた。操り人形の糸を動かすようにして。ルミナはその糸を切り離したと言うのだろうか。
確かにレンの言葉に偽りはなく、正しいことを話している。だからこそ、ルミナが常軌を逸していることがより際立って見えた。
「……よもや神の子が悪魔に誑かされようとは……」
あり得ないことが現実となった。魔界に沈んだ後の町では頻発していたことだが、やはり口に出しても認めたくはないことだ。神の子は世界の救世主であり、闇に染まった世界に光をもたらす。魔界に沈んでしまった町をすくい上げることができたかもしれない。それが、逆に奈落へと引き摺り込んでしまった。
それとも、神の子とはジェンキンスらが作り出した幻影に過ぎないのだろうか?
答えを見失い頭を抱えるジェンキンスに対し、レンはようやくその瞳に彼を映し出した。
「
ジェンキンスはあくまでも、万魔殿に流れ着いただけの部外者に過ぎない。そもそもなぜ流れ着いたのかも分からないが、彼には確固たる意思があった。肉体が滅び、命が潰えたとしても、彼が手放さなかったこと。
それは復讐心だ。
「神は滅んだ。残されたのは悪魔と子羊────我々は運命、奇跡、それを起こし得る可能性を信仰する」
暗に、彼は神がいないと言ってのけた。目の前にいるレンが何者であるか、ジェンキンスにとってそれは瑣末なこと。
「奇跡を起こすのが神でなければ、何者が起こす?」
特に読み取れる表情を浮かべずに、レンは粛々と問いかける。ジェンキンスを試すか、その本質を見透かす眼差しのみを向けて。
「私たち人間だ。奇跡は人間が起こすものであり、理不尽は神がいないからこそ起こる」
対して、ジェンキンスは恐れる様子もなく豪語する。それは彼が教会の神父として培ってきた矜持であり、信仰でもあった。
「奇跡と理不尽は紙一重だ。汝が示す運命が理不尽であるならば、運命を歪める奇跡を起こすのか?」
改めて目を合わせたことで、ジェンキンスはレンの瞳に呑み込まれそうになった。レンの瞳は単に極彩色に濁っていただけではなく、万華鏡のように複雑に広がっていたのだ。その瞳を通して、いったいどのような世界を見通しているのだろうか。
そんなレンからの問いかけを受け、ジェンキンスは決して目を逸らさずに次のように言い放った。
「私は運命から逃れるつもりはないぞ。必ず、あやつに審判を下す」
自身を魔界に陥れ、神の子を誑かした悪魔を葬る。それが己に課せられた使命であり、運命であると彼は悟った。仮に、それが呪いだったとして拒むこともなかっただろう。
「よかろう」
レンは短く言うと、静かに右手の手のひらを返し人差し指と中指を立てて上にあげた。
それを合図にして、ジェンキンスの足元から複数の鎖が伸びたかと思うと彼の肉体を拘束。瞬く間にして彼を異空間へ引き摺り込んでいく。
「よい夢を、アルセーヌ・ジェンキンス」
消失したジェンキンスには届かない別れを告げたレンは、その因果律を映す瞳を閉じた。
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