葬送章第6節「決して綴られざる顛末」

 赤い湖面。さざなみを打つ赤い水面。殺風景な景色を反射する赤い小川。

 それが血であるかどうかは分からない。

 ただ、ルミナはそこで目覚めた。

 赤く透き通った海原の上に築き上げられた神殿。大理石の床は光沢を持ち、鏡面の如く赤い空を反射している。大きな雲がいくつも浮かぶ赤い空へは柱が伸びていて、ルミナが目覚めた広場を囲うようにして建てられているようだ。さらに周囲を見回すと、奥には中世のものを思わせる巨大な城が厳粛に聳え立っていた。

 ルミナは目を細めると、城の方向とは反対に振り返る。聳え立つ城から視線を外すと、景色はすぐに殺風景なものへ変わる。

 水平線まで見渡す限りの闇。赤い水が張られているとはいえ、その様相は砂漠のようでもあった。

「…………」

 彼女はそこが何処であるかを知っている。彼女がアトランティスに迷い込む前、永い時をかけて彷徨っていた場所。いいや、アトランティスが沈み込んでしまった場所と言うべきかもしれない。

 そんな無間の魔界を、ルミナは散歩でもする気軽さで歩き始める。水の上を渡る大理石の足場をわざと外れ、彼女は赤い水の上に足を運んだ。雨上がりにできた水溜まりにわざと入る子どものように。

 するとルミナの足を中心にして静かなさざなみが湧き立つ。さざなみは障害物に打ち消されることもなく悠々と進んでいく。このさざなみはどこまで広がっていくのだろうか、そう考えずにはいられないほど───緩やかに。

 ルミナは水平線へと広がっていくさざなみの行く末を見守っていると、ふと足を止めた。彼女の歩みが伝えたさざなみが、水平線の向こうから同じく伝えられたさざなみに衝突したからだ。

「…………こんにちは」

 揺れる水面の上で、彼女は遥か彼方へ向けて声を届ける。今度は波ではなく、コミュニケーションを取るために。水平線の向こう側でさざなみを伝えた彼へ。

 しばらく経ってみても、声は返ってこない。代わりに、ルミナの靴にもう一度さざなみがぶつかった。それを見て、彼女は静かに微笑む。

「海に手をつければさざなみが立つ。さざなみは水平線に届けられるのか、はたまた消えてしまうのか」

 ルミナはやや大袈裟に語りかけながら、水面の上を歩く。彼女の視界には水平線以外の何も映っていないが、足元に広がる水面は違った。彼女が歩くことで歪む鏡面には、彼女から見て逆さまになった世界が映る。その反射した世界では、銀髪の青年がルミナを見つめて立っていた。

「この世の一切は因果によって成り立つ。物事には必ず理由がある。あなたは何の為に存在しているの?」

 彼女は銀髪の青年────ラスヴェートを認識できているのかどうか判然としない。彼女の視線が向くのはある一点にもなければ足元に反射した世界でもない。

 足元に届けられていた返事も、歩き出した彼女には分からないだろう。それでも、ルミナは艶やかな声で囁いた。

「あなたはまだ生まれてもいないし死んでもいない。そんな状態で、本当に存在してるって言える?」

 ルミナが出会おうとしたのは、ドロシーが幻影妊娠した神の子────ラスヴェートである。つまり、彼はまだ生まれて間もないどころか生まれてすらいない。

 この世からあの世へ、あの世からこの世へ。転生を経るまさにその瞬間、魂は生と死の狭間にある。現在、ルミナは自らの腹を切ることでその状態に陥った。結果として彼女は魔界に引き戻されたが、神の子であるラスヴェートは果たしてどこにいるのだろうか。

「赤ん坊は母親が近くにいないと泣きじゃくるものだけど何故か知ってる? 彼らにとって、母親は目の届く近くにいなければいないものと同じなのよ。何も赤ん坊に限った話じゃないわよね。人が人を否定できるのはその人のことを何も知らないからよ。結局、人は自分が目にしたものしか認識できない。あなたはどう? 誰かに認識されることもないのに本当に存在してるって言えるの?」

 人は一般的にアイデンティティを獲得することでのみ自己を確立させる。だが、神の子という存在はその手段を持たない。己ではない他者から与えられることで初めて、彼は神の子としてのアイデンティティを得る。神の子を神の子たらしめるのはあくまでも他者であり、自ら名乗り出るものではない。

 崇められることのない神は、神とは呼べない。ルミナはそこに付け込んだ。

「自分の証が欲しくはない? あなたの在処をみんなに知らしめたくはない?」

 生まれたばかりの小鳥は、初めて見たものを母親と認識する。現実をすり替えることは意外にも容易いものであり、それほどに脆い。

 ルミナの問いかけに、これといった返事はなかった。そもそも、彼女はどういった答えを望んでいたのだろうか。いいや、彼女は最初から望んでなどいなかったのかもしれない。

 彼女は意識が薄れていくのを感じた。足元を浸す、冷たい水。やがてそれはルミナの肉体を濡らし、融かしていく。




 ────────どうすればいい?




 最期には、頭の中で言葉が響いた。それが誰のものであるか、ルミナは承知している。

「怖がらなくていいのよ」

 甲高い金属音が調律の間の静寂を引き裂く。

 血の海に膝を立てていたルミナは、ぶつぶつと呟き始めた。先ほどの金属音は彼女の腹部を貫いていた儀礼剣が落ちる音だ。その音は既に意識を手放しかけていたジェンキンスを揺り起こすに十分だった。そして、彼は信じがたい光景を目の当たりにする。

 自らを突き刺したはずのルミナは、未だ絶命せずに動いていること。もっと言えば、糸で操られた人形のように腕を上げていること。金属の籠手に覆われた指先からは血が滴り、ゆっくりと指を開いた。何かを掴もうとして。

「今あなたの手には、一つの生命が握られているわ」

 彼女が呟く頃に、ジェンキンスは胸に違和感を感じ始めた。体の芯から急激に冷え始め、体に残っていた感覚という感覚が抜け落ちていく。

「あとは簡単」

 最後に残された感覚は鋭い痛みでもなければ、血生臭い匂いでもなければ、口内に滲む血の味でもなければ、破滅へと誘う悪魔の囁きでもない。

「ぎゅーっ、と握り潰して」

 閉じる力も失われた瞳が映す、絶望的な光景。

 血だらけのルミナの開かれた手が、柔らかく握り込まれる。

「そうしたら、全ておしまいよ」

 途端に、彼の肉体は蒸発を始めた。蒸発と言っても、科学的な現象とは異なる。もっと超自然的で不可解な現象。彼は肉体を失い、露出した骸骨すらも塵となって流れ出す。彼がどこまで意識があったのかは想像もしたくないが、反面ルミナには全ての感覚が戻っていた。

 自らの血の海に膝立ちをしていた彼女は、まず脱力して腕を下ろした。それから空気を味わうように呼吸をし、目を開ける。足元には儀礼剣が落ちていて、腹を刺し貫いた傷も癒えていた。

 そこまでしてようやく、彼女はゆっくりと立ち上がる。

 彼女に残っているのは、自分に突き立てた剣の痛みだけ。

 教会から姿を消した神父を手にかけたのは彼女ではない。

 そう。

 ルミナはついに、神の子を誑かしたのだ。

「…………いい子ね」

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