第4章第2節「天国と地獄の狭間で」

 セツナが住んでいるアパートから教会までは歩いて十分程度の場所にある。町の大通りをそのまま歩いていけば、道に迷うこともない。教会の裏手には墓地があるが、彼女たちが向かってきたのは表側。ゆったりとした広い土地を贅沢に使い、町の中でも最も豪華な造りをしている。

 教会は宗教的な場所に思われるかもしれないが、アトランティスでは中枢として機能していた。町を統治していた総督府プロヴィデンスの本拠地でもあるからだ。いわゆる役所としての役割があるため、内部には礼拝堂の他に金庫も設置されているという。まさに町の財産の全てを蓄えた心臓部と言えるだろう。

 そんな教会へやってきたセツナとイヴ。二人は教会の門を通って入り口と思しき巨大な扉の前に来ていた。

「こんなに近くに来たの初めて」

 五メートル近くはあろうかという巨大な扉を見上げ、感嘆の声を漏らすイヴ。

 実は、イヴは教会に一度も訪れたことがなかった。パラダイムシフトが発生したことで町の機能が麻痺し、同時に教会もほとんどの役割を失った。わざわざ教会に行く理由があるとすれば、総督府に対する文句を言いに行くくらいしかない。そのため、教会付近は混乱と不安を抱えた住人たちで溢れかえっていたこともあり、セツナは自分から近づくことはしなかった。

 今はもう、人の気配はない。煩わしいほどの静けさは、町が死んだことをあらわしているように思える。

「誰か中にいるかな」

 やってきた二人を迎える人もいなければ、取り押さえる人もいない。教会の周囲からは人が完全に消えてしまっている。

 そんな状況下で、教会の中がどうなっているのか。想像することもできない。ただ固く閉ざされた扉を開くことでしか、事実を確かめる術はなかった。

「入ってみれば分かる」

 言って、セツナは扉に手をかけて力を込めると木の軋む音が鳴った。かんぬきはかけられておらず、中に入ることはできそうだ。ヒュウ、と隙間風が頬を撫でる。両開きになっていた扉を開け放つと、教会の玄関が姿を現した。

 扉から射し込んだ光に照らされた玄関は薄暗く、ひっそりと寂れた雰囲気だった。天井を支える柱があるせいかそれほど広い印象は受けないが、奥へ続く通路が見えた。やはりというべきか人の気配はなく、静まり返った空気が窮屈に詰まっている。

 小さな足取りで中へ入っていくイヴに続き、セツナも中へ入っていく。長い間掃除されていないがためにホコリっぽく、二人の足音は鈍く響いている。

「あの〜、すみません」

 イヴは抑えた声で尋ねるが、返事はない。尤も、彼女の声はセツナ以外には聞こえないはず。だがもしもイヴを認識できる人物が存在するとすれば、何か反応があってもおかしくない。

 すっかり廃墟と化した教会に足を踏み入れ、セツナとイヴはそれぞれの遭遇を想定している。

 広場で手を振り合った友達との再会。

 教会に潜んでいる何かとの邂逅。

 だが、静まり返った空間に響くのは二人の足音だけ。それが良いことなのか悪いことなのか。その判断もつかないまま、二人はただ結論を急ぐように教会の奥へ向かう。

 そうして二人が歩いているのは最奥にある礼拝堂へ続く廊下だ。廊下は中庭を通るようになっており、アーチ状の梁が特徴的な屋根の下を潜って進んでいく。何よりセツナとイヴの目を引いたのは、庭師によって手入れされているであろう広々とした中庭だ。外の寂れた街並みとは一転して草木が生い茂り、生垣には今も白や青の花が咲いている。廊下の屋根を支える柱にも、蔦が絡んで緑に彩っている。

 退廃的でありながら生命の息吹を感じ取れる廊下を歩くセツナとイヴ。もうすぐ廊下も終わりに近づく頃、ふとセツナが立ち止まる。物珍しそうに周囲を見回して歩いていたイヴも、正面を見るとすぐにセツナの背中に隠れた。

「ようこそ。今はなき総督府へ」

 廊下の奥からやってきたのは、黒いドレスを身に纏った女性だった。ドレスには不釣り合いな手足を守る金属製の籠手と具足が目を引くが、彼女は優雅さの感じられる振る舞いで近寄ってくる。

「待っていたわ」

 彼女────ルミナは明るみに出ると、ドレスの裾をつまみ膝を折ってお辞儀をする。

 セツナはルミナを知らない。総督府の人間であるかどうかも分からず、警戒した目つきを向ける。すると、ルミナはセツナの方を見て柔らかい口調で話す。

「私はルミナ・ルミエール・ラナンキュラス。あなたを傷つけるつもりはないわ」

 一方的とはいえ、自分から名乗り出たからには何か目的があるということ。それが何であれ、信用できるかどうかを決めつけるのは些か性急だ。

「何が目的?」

 いくら友好的に話しかけてきたとしても、ルミナの素性について何も知らない。彼女が何を考えているのか、探りを入れる必要がある。

「私のことは気にしなくていいの。まずはこの町の総督閣下と話をしてちょうだい」

 だが、ルミナはまともな答えを返さなかった。それどころか、彼女は馴れ馴れしげに距離を詰めてきている。

 セツナがその場から動くことはない。背中に隠れているイヴがセツナの服の裾を握るのが分かり、セツナはイヴを庇うようにしてルミナを睨みつける。

 そして、ルミナはセツナの耳元に口を寄せてこう告げた。

にしてあげるためにも」

 表情ひとつ変えなかったものの、セツナは言葉に隠された意図を読み取った。そこで初めて、ルミナが何を知っているのかを理解することができた。

「あなたなら分かるでしょう?」

 セツナが改めてルミナを見やると、彼女は柔らかく微笑んだ。

 依然として信用できるかどうかまでは分からない。そもそも、彼女はこれまで一度もイヴの方を見ていないのだ。彼女はずっとセツナだけを見て話している。つまり、ルミナはイヴのことが見えていないということになる。

 それでも、この短い間に交わされた言葉がもたらしたものには確証が含まれていた。その確証こそが、セツナにとっては意味を成す。

 ルミナが背を向けて離れていくと、セツナに隠れていたイヴが耳打ちする。

「あの人じゃない」

 イヴが言うにはルミナは探している人物ではないらしい。とはいえ、彼女が違ったからといって収まることではない。イヴのことが見えなかったとしても、彼女はイヴともう一人の存在について知っている口ぶりだったのだから。

「この先に向かえば礼拝堂があるわ。もし迷うようなら、エスコートしてあげてもよろしくてよ?」

 礼拝堂まで案内すると言って手を差し出すルミナ。彼女の誘いを拒むつもりはないが、手を引かれずとも礼拝堂はすぐそこにある。セツナはルミナのことを無視し、背後にいるイヴに向けて告げた。

「ここにいて。私一人で行く」

 できることならイヴを一人にはしたくない。だがこの先に連れていけば何が起きてしまうのか。加えて言えば、ルミナはイヴを誰かと二人きりにしたがっている。結局はルミナの提案に乗ることになるが、今はそうすることしかできない。

 セツナは足を前へ踏み出し、手を差し出しているルミナを無視してすれ違う。

「…………」

 イヴは離れていく彼女を引き止めることができなかった。いや、果たして引き止めようと思っていただろうか。一人になって自由に彼を探せることを期待していたのだろうか。

 礼拝堂へ向かったセツナを追って、ルミナも後に続く。セツナとある程度の距離が離れたところで、ルミナは後ろを振り返った。

 そこにいるはずの誰かに、こう言い残して。

「さぁ、ごゆっくり」

 セツナとルミナは奥の礼拝堂へと向かった。

 廊下に残されたイヴは、二人の背中を見つめる。声をあげても届かないほどの距離になり、ふと周囲を見回す。

 セツナの言いつけ通りにじっとしていることもできるだろう。普段のイヴであれば、セツナとの約束は必ず守るはずだ。それでも、彼女がそわそわと落ち着かないのは反抗心からではない。もっと純粋な関心からのものだ。

 気になる人がいる。

 言うなれば、そんなじれったい気持ちがイヴの中には芽生えていた。

 足元に転がっていた小石を蹴飛ばすと、中庭の生垣へ潜り込む。すると、生垣の隙間から遠くに人影を見ることができた。

「…………?」

 小首を傾げ、イヴは生垣を回り込んで廊下から外れる。石畳を割って生える雑草を踏みしめて中庭を進む。程なくして、生垣の裏側に辿り着いた。

 そこは低木と柵に囲われていて、花の咲き誇る花壇が目に留まる。そして、花壇の前で膝をつく銀髪の青年が一人。

「やぁ」

 彼はイヴに気づくと立ち上がって声をかける。当たり前のように、イヴの目を見て。

「あなたは……あなたが、ラスヴェートなの?」

 そう。彼こそが、あの時イヴに手を振ってくれた人物その人。

「また会えて嬉しいよ」

 イヴの初めての友達。

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