第4章第3節「天国と地獄の狭間で」

 中庭の廊下を通り抜けたセツナは、教会の最奥部にある礼拝堂の前にいた。天井がガラス張りになった円形の空間で、両端には壁に沿って弧を描く階段が礼拝堂へと繋がっている。後からやってきたルミナは立ち止まるセツナを追い越して階段に向かう。

「こっちよ」

 セツナは静かに息を吐き、ルミナを追って階段へ足をかける。

 中庭に残してきたイヴのことも心配だが、今は礼拝堂で待つ総督のことを考える。アトランティスに住んでいるとはいえ、それほど総督の人柄について知っているわけではない。まして身近な人間でもなく、セツナも政治には疎い。だが、町を統括していた人間がイヴのことを知っているのなら話は変わってくる。保安官のジルの話では、魔剣ライフダストを回収したのは総督府という話だった。おそらく、この町が置かれている状況について何も知らないことはないだろう。

 階段を昇り終え、薄暗い礼拝堂へ進む。入り口のあたりでルミナが立ち止まり、先へ進むように手をやって促す。

「義理を果たす必要はないわ。ただ、答えを示せばいいだけ。あの子たちの為にね」

 ルミナはイヴのことを知っているようだが、明らかに彼女を認識することはできていなかった。果たしてルミナが何を知っているのか。それも総督と呼ばれる人物に会えば分かると踏んで、セツナは礼拝堂の奥へ歩んでいく。

 壁に据え付けられたステンドグラスから挿し込む光は、どこか神々しく礼拝堂を照らし出す。並べられた長椅子の間から視線を上げると、柱には大きな時計盤があった。世界終末時計と呼ばれるそれは、今は〇時手前を示している。針がひとつでも動けば、終末の鐘はすぐに鳴り響くといった位置だ。

 そんな終末時計の真下、緋色の上衣を羽織った女性が立っていた。肩章がついた上衣はいかにも総督府の要人といった印象だが、彼女こそ町で総督と呼ばれているドロシーだ。

「来たか」

 セツナの足音に気づいてか、終末時計を見ていたドロシーはゆっくりと振り向く。

 ドロシーの表情は固く、先程のルミナに比べても厳かな印象を受ける。その雰囲気を崩さぬまま、彼女は静かに口を開いた。

「単刀直入に問おう。お前、?」

 初対面の人間であり、お腹も膨れていないセツナが妊娠しているかどうかを外見で見抜くことはできない。にも関わらずドロシーが妊娠を見抜いたのは、一般的なそれとは異なるものだから。

 自分がイヴという子供を想像妊娠していることを唯一認識できていたセツナは、確認を取るように聞き返す。

「どうして?」

 本来であれば、セツナの子供であるイヴはセツナ以外に認識することができない。つまり、例外がない限りはイヴや妊娠のことを他人が知ることは不可能なのだ。繰り返して言えば、想像妊娠であるために腹部が膨れることもなく外見から判別することもできない。ではなぜドロシーは妊娠を見抜いたのか。

 答えはすぐに返ってきた。

「私の子供のラスヴェートが、と聞いてな。だが私が妊娠したのはあの子一人だけで弟や妹はいないはず。おかしいと思わないか?」

 ドロシーの口から出てきた名は、イヴが言っていたものと一致する。つまり、イヴの言う友達がここにいるのは間違いないだろう。

「奇遇だね。うちの子も友達ができたって言ってた。私以外の誰にも見えないはずのあの子に、友達なんてできるはずないんだけど」

 セツナとドロシーには共通点がある。それは、想像妊娠によって幻の子どもを授かっているということ。

「なるほど」

 早くも事の仔細を察したのか、ドロシーは何度か頷くと大きく息を吐いた。

「あの日、パラダイムシフトが起きたことでアトランティスは魔界に沈んだ。認めたくはないが、この町はもはや滅びゆく運命にある。だが、この天国と地獄の狭間で私は新たな生命を授かった」

 発端は、パラダイムシフトが起きた日にまで遡る。あの日からドロシーは想像妊娠によってラスヴェートという子供を授かった。それ自体は同じ境遇にあるセツナにも理解できる。

「最初はあの子を受け入れることができなかった。父親もいないこの幻影の妊娠は、言わばパラダイムシフトという災厄が私に授けた呪い……いや、悪魔だとさえ思った。だが、この教会の神父は言ったんだ。あの子は、神の子だと」

 今日に至るまでの日々を思い起こし、どこか遠くを見つめるドロシー。彼女の重たい言葉をセツナはただ黙って聞く。

「考えてみれば道理ではないか? この町は魔界、言うなれば天国と地獄がある冥界だ。冥界から抜け出すための手段は現世へ転生して生まれること。私たちはもはや死にゆくだけの存在だがあの子は違う。彼岸を渡り、これから現世へ生まれようとする新たな生命だ」

 ドロシーが話していることは複雑に思えるが、筋は通る。アトランティスは天国と地獄の狭間に落ち、そこへ魔界から新たな生命が漂着した。その生命こそ、ドロシーとセツナが授かった子供なのだという。

「それ本気で言ってる?」

 彼女の考えを聞き終えたセツナは、淡白に訊ねる。声色には驚嘆や疑念の類はなく、ただ現実の冷たさだけがあった。

「お前なら分かるだろう? 私と同じように子供を授かったお前なら」

 目を合わせ、ドロシーは諭すようにして語りかける。受け入れ難い事実に直面する少女に、手を差し伸べるかのように。

「これは偶然ではない。必然だ」

 今まで、二人は自分以外に想像妊娠をした人がいることを知らなかった。そんなこと考えもしなかっただろう。しかし、それは奇しくも二人の子供同士の邂逅によって知らされた。

 まるで神が仕掛けた運命の悪戯のようにさえ思える出会い。

 果たして、それは本当に偶然だったのか。

 真実の答えに、二人は既に辿り着いていた。

「私の子とお前の子は、兄妹だったんだ。私とお前は彼らにとってのということになる」

 イヴとラスヴェートが出会ったのは、決して偶然ではない。延いては、セツナとドロシーがこうして出会うことさえも必然と呼べるのかもしれない。

「まぁ、そんな気はしてた」

 セツナは諦めたのか、二人の子供が腹違いの兄妹であることをあっさりと認めた。

 そもそもセツナとイヴが教会にやってきた理由は、ラスヴェートに会うためだ。イヴの初めての友達になれるかもしれない人物。即ち、セツナ以外でイヴを認識できる人物ともなれば候補は自然と限られる。セツナはイヴからラスヴェートの存在を伝え聞いた時から、ある程度の可能性を予測していた。

 イヴの身内────彼女の本当の家族の存在を。

「私たちは決して聖母ではない。だが、あの子を身籠った事実からは逃れられない。魔界で生まれた子供をどう導いてやれるかは私たち次第だ」

「そうだね」

 慎重な口調で語るドロシーとは裏腹に、セツナは容易く肯定した。

 魔界との間に生まれた子供を身籠る。普通の感覚を持っていれば、嫌悪や拒絶の感情を抱く前に理解できなかったとしてもおかしくはない。それを、セツナは当然のことのように片付ける。

「で、あなたの子供は今どこにいるの?」

 信じ難い真実をも前提として踏み、セツナはラスヴェートの居場所を聞いてくる。

 そんな彼女の態度に、ドロシーは動揺を隠せずにいた。

「分かってくれるのか……? 未来のためにあの子たちを導くことを」

 セツナがここまで簡単に真実を飲み込むとは、ドロシー自身予測していなかった。たとえ、幻影妊娠で授かった子供と過ごしてきたからと言って、真実を受け入れるのは簡単なことではない。ドロシーがそうだったからだ。

 魔界で生まれた子供と向き合い、子供の為に尽くす。

「ううん。そんなことしない」

 しかし、セツナがいとも容易く真実を受け入れることができたのは、ドロシーとは訳が違った。

 これまで不安を垣間見せつつ理不尽な真実を語ったドロシーだったが、セツナは対照的なまでに涼しい顔で言う。

「私がこの手で殺す」

 切り捨てるように言い放つセツナに、ドロシーは一瞬目を丸くした。端的に言えば、自分の子供を殺しにきたと言っているのだ。

「あの子の父親 ……のことを考えたことはある?」

 ドロシーの反応を待たずして、セツナはポケットから黒い手帳を取り出す。彼女は手帳のあるページに指を挟んで広げると、そのまま床に放り投げた。ドロシーにも見えるように開かれた手帳、そこにはラスヴェート、そしてイヴの出身地でもある魔界レミューリアについての記載があった。

「あの子にとって、真の親は私たちじゃなくて魔界の王。今は知らなかったとしても、もし知ってしまったらなんて言うつもり?」

 手帳には破かれたページの切り抜きが貼られ、セツナの字でこう書き加えられている。

 ────────彼ないし彼女は魔界のプリンスであり、魔剣ライフダストと魔剣デスペナルティの所有者。もし彼がイヴの本当の親であるならば、イヴが自らの出自について知る時、覚悟が必要になる────────、と。

「あなたの言う通り、あの子は魔界で生まれた忌まわしい子供。いずれ、外の世界に破滅をもたらすことになる。この町が魔界に囚われたようにね。手遅れになる前に止めなくちゃいけない」

 淡々と真実を告げるセツナだったが、彼女はドロシーではなく手帳を見つめていた。まるで、誰でもない自分に言い聞かせるようにして。

 ただその瞳には、確固たる決意が蜃気楼の如く揺らいでいる。

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