第3章第7節「不浄なる生命の緒」
「ねぇ母さん、僕は兄弟が欲しいのになぜできないんだろうか」
教会の礼拝堂に並べられている椅子に座るドロシーは、彼女が受胎した子供であるラスヴェートの嘆きに耳を傾けていた。
その嘆きというのも、兄弟が欲しいというものだった。
「お前にそんなものは必要ない」
「弟ができないなら妹でもいい」
ドロシーは、ラスヴェートの願いを聞き入れるつもりはなかった。仮に願いを聞くとしてもラスヴェートの兄弟を作る方法も分からない。パラダイムシフトが起きたことで妊娠したため、具体的な原理も手段も分かっていないのだ。
「どの道、お前は私以外の誰にも見ることはできないんだ。お前とは無縁の話だよ」
前提として、ラスヴェートは母であるドロシー以外に認識することができない。ドロシー以外の誰とも意思を交わすことができないとなれば、必然的に孤独を感じる機会は増える。兄弟や友達を欲しがるのも、無理ないことだろう。
願いを拒否されたラスヴェートは悲しそうに俯くが、すぐにドロシーの顔を覗き込んだ。
「ならせめて友達だけでも……」
彼は幼きながら自我を持っている。自分で考えて行動するからには、他人とは違う考えを持つ。たとえ親と子であったとしても、全て同じことを考えるとは限らない。
「お前にはできない。何度も言わせるな」
厳しく言いつけると、ラスヴェートは今度こそ背中を向けてしまった。言うことを聞いてもらえずに拗ねる。まさに頬を膨らませるような態度を取る彼に、ドロシーは深くため息を吐いた。
彼女はラスヴェートをコントロールする必要がある。パラダイムシフトによって授かったとも言える彼の正体は、分かっていないことが多い。それでも、ドロシーは事実として妊娠したのだ。望んでか望まずかは関係なく、ラスヴェートをその身に宿した。
ドロシーには親としての責任がある。ラスヴェートを歴史に名を刻む覇王にするも、未来を破壊する死神にするも、どちらに左右するかは彼女次第。たとえ、ラスヴェートの正体が悪魔の子だったとしても正しい方向に導く。少なくとも、ドロシー自身はそう覚悟を決めていた。
「それでも……あの子となら友達になれる気がしたんだ」
「あの子だと?」
しかし、ラスヴェートはドロシーの目の届かないところで何かをしていた。彼が言うには、友達を見つけたというらしい。ドロシー以外には認識できないはずの彼に、できるはずのないものだ。
「どうせ母さんには分からないさ。所詮母さんは……」
反抗的な言葉とは裏腹に、ラスヴェートの声は震えていた。声に通っている感情は怒りか、悲しみか。
「所詮、なんだ? 言ってみろ」
彼が何を考えていて、何をするつもりなのか。
ドロシーには分からない。
「何でもない」
答えることを拒む。
これまで、ドロシーはラスヴェートから目を背けずに向き合い続けてきた。だが今、最初に背中を向けたのはドロシーではなくラスヴェート。だからこそ、彼女は戸惑っていた。
戸惑いは、子供が反抗してくることへの苛立ちではない。魔界に沈んだ町で生まれた彼が歯向かってくる恐怖心だった。
「チッ」
ドロシーが舌打ちすると、礼拝堂の隅で壁に背を預けていたルミナが口を挟んだ。
「呑気なものね。世界の終わりが近づいているっていうのに親子喧嘩?」
ルミナにはラスヴェートが見えていないはずだが、ドロシーの言動からある程度察しをつけているらしい。だからと言って、彼女に苛立ちをぶつけるのはお門違いなことは分かっている。
ドロシーは二度目の舌打ちをし、不純な戸惑いを吐露した。
「私はあの子のためにアトランティスの全てを犠牲にした。これ以上何を望む?」
教会にいる人間は皆知っていたが、ドロシーはラスヴェートに全てを賭けている。町が魔界に沈んでから新たに授かった生命は、無垢な未来を手繰り寄せる吉兆となるのか。はたまた不浄な未来を手繰り寄せる凶兆となるのか。
へその緒という手綱を握らされた彼女は、苦悩の末に決断を下した。
「生命を司る魔剣ライフダストを与え、外の世界へ連れていくことを約束した。それなのになぜ我慢できない?」
町の外に出るためには転生するしかない。その転生に最も近い位置にいるのは、まだ生と死の境界線にいるラスヴェートだ。
生と死の狭間がどんな場所なのか、ドロシーには分からない。そこで味わう孤独は、当の本人にしか分からないのだ。
「いつまでも死んだジェンキンス神父の言いなりになるのはやめて、子供の気持ちを考えたらどう? 生まれたばかりの子供が何を欲しがるのか。あの子には寄り添ってくれる家族が必要よ」
ドロシーの葛藤に対して、ルミナはあたかも知った口調で言う。
ラスヴェートの気持ちを代弁するとも、ドロシーを皮肉るとも取れる言葉で。
「私が母でないと言いたいのか?」
「そうじゃないわ。例えば、あの子の父親や、兄弟姉妹とかがいれば────」
ドロシーを母とするなら父親は誰か。それは母であるドロシーにさえ分からない。もっと言えば、本当に母親かどうかも曖昧だ。なぜなら、これは想像妊娠に過ぎないのだから。
「知ったような口を聞くな。子どもは一人だけだ」
幻想の妊娠がもたらしたのは、ラスヴェートただ一人。少なくとも、ドロシーにとっての子供は彼だけしかいない。
「あなたが身籠ったのはね」
だが、自分以外の妊娠の可能性は考えていなかった。
「……何を知っている?」
まるで他にも妊娠をした者がいるかのような言い振りをするルミナ。表情を硬くしたドロシーは、彼女に疑いをかける。
「何も知らないわ」
彼女は肩を竦めるが、ドロシーが知り得ないことを見ているのは確かだ。
ドロシーは長椅子から立ち上がると、隅にいたルミナに近寄って圧をかけた。
「事実だけを言え。潰えるだけの可能性なんざ不要だ」
壁に追い詰められてもなお、ルミナは余裕のある表情を崩さなかった。
「なら残念。私が言っているのは事実じゃなくて可能性の話に過ぎないわ」
彼女は逃れるようにしてドロシーとすれ違い、ゆっくりと告げる。
「事実っていうのは、誰もが追い求めるものよ。確かに現実はひとつしかないし、紛うことのない事実は必ずあるでしょうね。でも、事実なんて本当は存在しないってことに誰も気づかない。あるのは解釈だけ」
「…………」
世界には嘘と勘違いというものがある。嘘と勘違いは、事実ではない虚構が事実に成り代わるからこそ成立する。そこにあるのは人々の言う事実ではなく、事実とはこういうものだという解釈が根付いたものだ。
「事実は求めるものじゃないわ。どう解釈するかで、事実は紙粘土みたいに如何ようにも歪む」
彼女の言葉を黙って聞いていたのは、ドロシーだけではない。ずっと二人のやりとりをそばで見ていたラスヴェートは天を仰ぐ。狭い教会の中にあるのは広々とした空ではなく、閉ざされた天井。
「そうして編み出された事実を知りたいのなら、私や自分自身ではなく聞くべき相手がいるわよね、ドロシー?」
ルミナはドロシーを尻目にして語りかける。虚空の先にいる、ラスヴェートへ向けて。
「さ、あなたの解釈を聞かせてちょうだい。それが事実と成るのよ」
そして、ラスヴェートは口を開く。
「──────────」
彼はルミナには見えていない。彼の声はルミナには聞こえていない。
それでも、彼の告白はしっかりとドロシーの耳に届いていた。
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