第3章第6節「不浄なる生命の緒」

 アトランティスの死者たちが眠る墓地から出たジルは、静けさに包まれた町をさまよい歩いていた。『Mermaid‘s Bubble』という看板を掲げたダイナーもかつての賑わいは影を落とし、雑貨屋の商品棚にはまだ品物が手付かずで残っている。多くの住民たちは理不尽な失踪を遂げたため、残されていた人数は少ない。そのため町全体が隅々まで荒らされることはなく、ただ生活感を残して住民の姿だけがなくなっていた。

 ジルはもぬけの殻となった町の大通りを、他を気にすることなく車道の真ん中を歩く。行く当てがあるわけでもない。保安官として解雇されて以来、ジルは自分を手放さないことだけを胸に生き続けてきた。全ては、消えた妻を見つけ出して町から出るために。

 だが、そうした目的を彼は既に見失ってしまっていた。

「………………」

 いや、彼は気づいていてそれを認めたくなかっただけなのかもしれない。

 本当は、妻が何処に行ってしまったのかも分かっている。

 本当は、町から出るにはどうすればいいかも知っている。

 それらを、彼は認めたくなかった。

 妻はもうこの世にはおらず、あの世でジルを待っているのだと。

 魔界に沈んだ町から出るには、諦めて死ぬことで転生する他ないのだと。

 馬鹿げている。本当にどうしようもない。彼がアトランティスで見出してきた真実は、どれもこれもが理不尽で理解できないものだった。妙に現実的な夢を見て、冷や汗をかくような違和感。ジルは、生きる希望を見失いかけていた。

 こんなことになるのなら、一度は捨てた希望を思い出さなければよかった。

 底知れぬ失意の淵で、ジルはふと顔を上げる。彼が辿り着いていたのは、アンソニーが引き継いだパン屋のある通りだった。

 アンソニーはジルと共に墓地にいたはずだが、ジルだけを残して何処かへ消えてしまった。正真正銘、ジルは一人ぼっちになったのだ。

 保安官時代の同僚たちとも、連絡を取る手段はない。解雇された日以来は会っていないし、おそらくは既に消えてしまっているだろう。まだ生きていたとして、時間の問題だ。保安官としてパラダイムシフトによる混乱に対応していた時は、まさか食料より先に人が尽きるとは思いもしなかったはずだ。

 無人となったパン屋を通り過ぎると、開かずの間であるマリーの隠れ家が存在する噴水広場に来る。ジルが知り合いと呼べる人間はそう多くないが、隠れ家にいるマリーは少なくともまだ生き残っている中での知り合いだ。可能性を見る万華鏡を渡し、ジルに真実を知るきっかけを与えた人物。彼女を責めるつもりは毛頭ないが、顔でも出していこうと隠れ家に向かう。

「…………ん?」

 思わず、ジルは立ち止まった。

 マリーの隠れ家は開かずの間として知られている。町の誰も扉を開くところを見たことがない。だが、その扉が開け放たれていたのだ。

 よく見ると無理矢理に開けたのか、衝撃を受けた扉は歪み外れかけてしまっている。

 隠れ家で何かあったことを悟り、ジルは慌てた様子で中へ駆け込む。そこで、彼は信じられないものを目にした。




 隠れ家の壁、腹部を刺し貫かれたマリーがはりつけにされていたのだ。




「嘘だろ……」

 足は地面から浮いていて、マリーを貫いているのは半透明な剣のようなものだった。既に息はなく、口から溢れた鮮血は渇ききってしまっている。事切れてからかなりの時間が経っているらしい。

 マリーの死体に気を取られていたが、ガレージ自体はそこまで荒らされておらず破壊の痕跡は扉にしか見られない。加えて言えば、ジルには何よりも気がかりなことがあった。

 死体が消えていないのである。アトランティスでは、パラダイムシフトが起きてから明確な死者は出ていない。人々が消えることを失踪と呼ぶのは、即ち遺体が見つかっていないからだ。住民は忽然と姿を消す。その実態は、ジルが見たように何かに喰らい尽くされるような最期だった。

 パラダイムシフトが起きて以後、町で人間の死体が見つかったことはない。ジルの目の前に残されたマリーの死体は、魔界に沈んだ町に限れば不自然だ。

 なぜ、死体が残っているのか。

 初めて見る例外的で明確な死を前に、ジルはどうすればいいかを考える。

 マリーに刺さっている半透明な剣を見るに、何者かに殺されたであろうことは予測できる。何が起きても不思議でないとはいえ、彼女が自殺するとも考えにくい。

 ジルは半透明な剣に触れようと手を伸ばすが、触れることはできなかった。何か超自然的な力が働いているのは明らかだ。が、そういった類のことにはジルは精通していないし、マリー本人に頼るわけにもいかない。

 マリー亡き今、他に頼れる人間といえばセツナしかいない。彼女のことを思い出したジルは、急いでガレージから出るとアパートに急ぐ。

 危険を知らせるためにも、まずはセツナに会いに行くのが先だ。

 と、噴水広場を出たところでジルは再び足を止める。本来なら、そこにあってはならないものが見えたからだ。

 広場の中心、噴水台。水は既に止まってしまっているが、台の中に張られた水はまだ残っている。その水面に突き立てられていたのは、銀と黒を基調にした美しい剣だった。

 水に濡れたそれは傷ひとつなく、光を反射している。柄の部分には翼を模った装飾が施されていて、剣の鍔のようになっていた。

「どうしてここに……」

 噴水台に突き立てられた剣、それをジルは見たことがある。何せ、『魔剣ライフダスト』を発見したのは誰でもない彼なのだ。

 再び見つけ出した魔剣ライフダスト。彼にとっては全ての元凶。

 ジルは魔剣を取ろうとして、台座に上がると水面に足を沈めた。拾ってセツナに見せるのか。何か意義のある考えを持つまでもなく、彼はただ手を伸ばした。

「…………⁉︎」

 しかし、ジルの手が魔剣ライフダストに触れるよりも前。足元の波を立てた水面から現れた白黒の光が、彼の肉体に絡みついた。

「くそ……!」

 彼は慌てて水面から出ようとするが、膝まで浸かった足が取られてしまう。体勢を崩したジルは水面の底に手をつけた。水しぶきをあげ、ジルは水面に浸かった手を出した。そう、水に溶け落ちて骨だけになった手を。

「やめてくれッ……!」

 首を横に振るジルの顔もまた、水飛沫を浴びて肉が削げ落ち所々に白い骨を露出していた。肉体だけでなく、感覚も落ち始める。感じるのは冷たさだ。意識を何処かに引き摺り込まれるような感覚に、不思議と苦しさはない。

 あるのは、眠りにつく前の心地よさと、孤独。

 冷たさは、人から世界から忘れ去られるかのような虚しさ。

 やがて、ジルは肉体を完全に溶かして水中へと沈み込んだ。彼だった光の粒子はさざなみと共に、魔剣ライフダストの美しい刀身に照り返った。

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