第3章第5節「不浄なる生命の緒」

 セツナとイヴは散歩を終えて家に帰ってきていた。

 散歩の後にすることは特に決まっていない。大抵の場合は眠くなるまで外を転々とするのが常で、こうして家に帰るのは珍しいくらいだ。先日は、町の外に繋がっているはずの線路を二人で歩いていたことが記憶に新しい。マリーの隠れ家に行ってもいいのだが、セツナの気が乗らなかったらしい。彼女はベッドの上で背をもたれかけ、黒い手帳に鉛筆で何か書き込んでいる。

 イヴは主体性を持たない。欲求を共感しあえるだけでなく、常にセツナと一緒にいる。彼女から離れたことはないし、彼女から離れようと思ったこともない。とはいえ、二人はそれぞれの心で思考するため、似ているとしても違う部分もあった。もちろん食い違うことこそなかったが、お互いに全てを知っているとも言えない。どれだけ仲のいい親子だとしても、完全な一心同体にはなれない。

 それでも。

 外に出る時も一緒。眠る時も一緒。いつでもどこでも繋がっている。

 片時も離れないことに疑問を感じたことはないし、イヴ自身セツナと一緒にいる以上のことを望んだことはない。

 しかし、イヴには強い関心ごとができていた。

「…………」

 椅子に座るイヴが考えていたのは、背の低い木がある広場で見た人影のこと。あの人影は、セツナ以外からは見えないはずのイヴと目が合った。自分に手を振ってくれた。今まで感じたことのない喜びに、イヴは胸を躍らせていた。

 イヴには友達ができたことがない。セツナ以外の誰も見ることはできないし、会話をすることもできないからだ。そんなイヴにとって、あの広場で見た人影は初めての友達になるかもしれない。そう考えると、彼女の心はますます高鳴った。

(うぅ……よし)

 居ても立っても居られなくなったイヴは、椅子から立ち上がって寝室を見る。セツナに頼めばきっと連れて行ってくれる。そう信じて。

「ねぇセツナ、あのね……?」

 言葉を先走るイヴだったが、返事は返ってこなかった。聞こえてなかったのかと思い、ベッドに近づいて顔を覗き込む。すると、セツナは黒い手帳を持ったまま静かに寝息を立てていた。

 散歩から帰ってきて気を抜いていたのだろう。気配に気づく様子もなく、ゆっくりと胸を上下させている。

 イヴは彼女を起こそうと肩に手を伸ばす。どうしても、あの広場にもう一度行きたかったから。

「…………」

 セツナの肩に触れる直前、イヴは手を止めた。

 起こすのを躊躇する。単に、眠っているセツナを起こすのは気が引けるから。いつもであれば、イヴはそう考えて起きるのをそばで待ち自分も眠っていただろう。

 しかし、イヴはその気持ちが建前だということに気づいてしまった。セツナが眠っているなら、起こさなくてもいい。眠っている隙にもう一度広場に行ってくればいい、と。彼女を起こす必要はないのだ。

 本来なら思いつかないはずの考えに、イヴはセツナを起こすことをやめる。

「すぐ戻るから……」

 そうして、イヴはついに家から飛び出した。

 家の外にある枯れた並木道を駆け抜け、寂れた公園を横切る。彼女が好きなブランコには見向きもせず、イヴは背の低い木がある広場に戻ってきていた。

 広場の中心にある木にはまだ咲いた花が残っていて、きっと次の機会にセツナはそれを回収するつもりだろう。まだ開いていない蕾もあるようで、複雑に分かれた枝につく葉は濡れている。他の木々が枯れていることも相まって、この木だけは特別で生命の息吹を感じ取れた。

 イヴは木の下を通って広場の奥へ歩みを進める。地面に走る亀裂に足を取られないように気をつけて。

 記憶が正しければ、この先が手を振ってくれた何者かがいた場所だ。広場の奥は伐採された切り株がある他、大きな建物があった。見たところ物見櫓のようなものらしく、石造のそれは二階があり町の風景を見渡せそうだ。地上部分は四方がアーチ状に切り抜かれていて、中に入ることができる。

 周りには人の気配はなく、背の高い建物に近づいていくイヴ。そして、アーチ状に切り抜かれた入り口、高台へ続く段差に腰をかける人を見つけた。

 純潔を示すかの如く銀髪に整った顔立ち。豪華絢爛な装飾のあしらわれた衣服は、紺碧と黄金を基調とした麗しい軍服のよう。白い手袋をつけた手を地面につき、段差に放った長い足は白のズボンに包まれスラリと伸びている。

 あの時、イヴに手を振ってくれた人物もまた銀髪だったが、遠目にしか見ていないこともあって同一人物かまでは断定できない。

 加えて、目の前にいる軍服の人物は目を閉じている。そよ風に銀髪を揺らしリラックスした様子だが、イヴに気づいてはいない。もしかしたら、このままイヴに気づかない可能性もある。

 彼が同一人物かどうかを確かめるためにも、イヴはおそるおそる声をかけた。

「あの、すみません」

 ドキ、と心臓が跳ねる。

 なぜなら、彼はイヴの声を聞いて目を開いたからだ。

「さっきここにいた人を探してるんです。私に手を振ってくれたんですけど……」

 イヴは慎重になりながらも、言葉を紡いでいく。確実に、目の前にいる彼に届けるために。

 そして。

「ラスヴェートのことなら、ここを去ったばかりだ。何か用があったのかい?」

 彼は確かにイヴの目を見て答えてくれた。今までセツナ以外の誰とも意思を交わらせることのなかった彼女に。

 夢にまで見た出来事に、イヴは動揺を隠すことができなかった。

「えっと、その。わたし、その人に会いたいんです」

 混乱する頭をなんとか振り絞り、会話を続ける。息が詰まるような状況で、イヴにはもはや考える余白がなかった。

「なら町の教会へ行くといい」

 彼は不思議な色をした瞳からイヴを外し、大通りの方を見る。

 あの時イヴに手を振ってくれたのはラスヴェートといい、彼に会うには町の教会へ行けばいいと言う。

「本当ですか?」

 疑う余地がない、というよりも疑う余裕がなかった。

「ラスヴェートもきっと君のことを待っているよ」

 イヴの心に溢れんばかりに生まれている感情。それは、喜びだ。

 セツナ以外の誰かと話すというのはこうも楽しいことなのかと。イヴは快楽的な軋轢に揉まれつつも、冷静になろうと努めた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 優しく言葉を返してくれた彼。イヴは確かに、彼と目を合わせて話をしている。なんだか照れくさいような気がして、イヴは彼の顔を長く見ていられなかった。

 くすぐったさを我慢し、彼女は上目遣いで問いかけた。ラスヴェートのことよりも、今気になるのは目の前の彼のこと。

「あなたは……わたしのことが分かるんですか?」

 どうやら、あの時手を振ってくれたラスヴェートとは別人らしい。とはいえ、彼は親切にもラスヴェートの行方を教えてくれた。イヴの関心は彼に向いている。

 彼はいったい何者で、どうしてイヴが見えるのか。

「もちろん。君のことは我が身のことのように知っているよ、イヴ」

 彼は話していなかったはずの名前を当ててみせた。疑問は増えるばかりで、イヴの思考はショート寸前だ。

 何か言おうと口を動かしても、上手く言葉が出てこない。

「ごめんなさい。わたし、こういうのは初めてで。その」

 声を授かったばかりの人の如く、イヴはどうにかこうにか言葉を返す。普段から比較的大人しい彼女だが、それを知らずとも慌てているのは透けて見えるものだった。

 変な人だと思われていないだろうか。そんな不安からイヴは彼から視線を逸らしてしまう。

 嫌われたくない。母であるセツナ以外の誰かと話すこと自体が初めてなのだから、そう思うのは無理もないこと。それを見透かすようにして、彼は優しく見守るように微笑んでいた。

「気に病むことはないさ」

 言いながら、彼は段差からスッと立ち上がる。彼の着る服はレインコートやスカートのようになっていて、深いスリットが入っている。立ち上がったことで分かるがイヴよりも背が高く、メリハリと丸みを帯びた体つきは女性的に見えた。

「もう行っちゃうんですか……?」

 彼が段差に足をかけて歩き出す前、イヴは彼を呼び止める。せっかく会えたにも関わらず、ここで別れてしまってもいいのか。次に会う約束も、名前も聞いていないのに。

 彼はゆっくりと振り返り、イヴに歩み寄って告げる。我が身よりも大切なものを見る眼差しで。

「我が君よ、臆する必要はない。いずれ、時が満ちる頃にはまた相見えるだろう。彼方此方を寄せては返す波のように」

 すると、彼はイヴの手を取る。彼のビー玉の如く美しい瞳に吸い込まれ、顔をほんのりと赤らめたイヴはされるがまま。そして、彼は手の甲に優しく口づけをしてみせた。

「この別れもまた、明日の約束となろう」

 高鳴る胸の鼓動に手をやるイヴに対して、彼は今度こそ背を向けて去っていく。もう、イヴとの会話を終えて別れるように。

 まだこの甘美なひとときを続けていたかったイヴは、最後に質問を投げかけた。

「あ、あの! わたしたち、お友達になれますか?」

 イヴには友達ができたことがない。

 あの時、イヴに手を振ってくれたラスヴェートという人物。

 今、イヴと話をしてくれた彼。

 セツナ以外の誰にも認識されることのなかったイヴにとって、彼らは些細で何にも代えられない初めて。

 しかしながら、彼はこちらに背を向けたままで言い残す。

「汝の願いを絶つも叶うも、全ては己次第だ」

 イヴは、二度と振り向かずに去ってゆく彼の背中を見つめることしかできなかった。

 一方で、ベッドの上で微睡みを覚えていたセツナは目を覚ます。相変わらず窓からは黒い太陽がもたらす光が射し込み、時間の経過を微塵も感じさせない。だが、彼女はすぐにそばにいるはずのイヴの姿がないことに気づいた。

「イヴ……?」

 いつもなら、イヴはセツナが眠っていると一緒になって眠ることが多い。彼女がそばを離れることは一度もなかった。

 家から飛び出したセツナは、家の前を探し並木道を探す。イヴが勝手に外を出ることはないはずだが、家の中にいないなら外にいる。問題は、どこにいるのか。

 イヴは公園のブランコが好きだ。散歩に出た時は決まって公園に来て、ブランコを漕ぐ。セツナも隣に座って、パラダイムシフトが起きる前の世界について話すのが日常になっていた。

 が、公園のどこにもイヴの姿はない。

 彼女が向かいそうな場所といえば、あとはマリーの隠れ家くらいのもので他に見当もつかない。というより、彼女を連れて行ったことのある場所を全て挙げてしまえばキリがない。改めて、セツナは思い知ることになるのだ。いつも一緒にいて、身籠った子供でもあるイヴのことを何一つ分かっていないことを。

 その時、

「イヴ!」

 セツナがイヴの姿を見つけたのは、背の低い木がある広場だった。散歩に出た時、イヴが転んでしまった場所。正確に言えば、彼女は広場の奥にある高台の前に立ち尽くしていた。

 駆け寄ると、イヴはこちらを振り向いた。

「何してるの?」

 イヴはセツナの怒った声を聞いたことがない。いや、そんなこと気にも留めていなかっただけかもしれない。

「あのね」

 きつく問い詰めたセツナを押し退けてまで、イヴは話す。

 今まで主体性を持っていなかったはずの彼女が、こんなことを口にした。




「わたし、ができたんだ」



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