第2章第6節「未だ来らず明日を希う」
アトランティスを支配する総督府プロヴィデンスは、町の中心にあるラフト教会に存在する。総督府はアトランティスを統括する政府のような立ち位置にあったが、町が未曾有の危機に陥った時に彼らが動くことはなかった。ただ、町に起きた超常現象を『パラダイムシフト』とだけ公表して。
赤と黒を基調とした上質な服装のドロシー・エキスプレスは、総督府の本拠地である教会にいた。ドロシーの背後には等間隔に長椅子が並べられていて、礼拝堂として機能していた空間だ。彼女は部屋の奥で、壁に埋め込まれた大きな時計盤を眺めていた。時計盤はあとわずかで正午をさす手前で止まってしまっている。
「人間はどこから来て、どこへ行くのか。考えてみれば単純な話だ。魂が死して生まれ変わることでのみ、二つの世界を行き来することができる」
物音一つせず、静まり返った教会に響くドロシーの声。
「向こうの世界はお前が思っている以上に素晴らしい世界だ。ここよりもずっと美しく、広くて、何よりも未来がある」
まるで我が子に言って聞かせるように優しいトーン。
「その未来はお前のものだラスヴェート。そのためにも、今は力を蓄え元気に生まれてくるんだ」
コツ、コツ、と反響するヒールの音。それは立ち尽くしているドロシーの足元からではなく、背後から聞こえてくる。
振り返ると、円形の階段を昇って礼拝堂に現れたのは一人の女性だった。カールのかかった黒髪と左目下の泣きぼくろ、ゴスロリ風の黒い装束に包まれたしなやかな体は、浮世離れしたミステリアスな雰囲気を持っている。それに加えてドレスには不釣り合いな籠手と具足を身につけていて、彼女の所作を金具の音が仰々しくも小気味よく仕立てている。
「あらごめんなさい。子守唄の邪魔をしちゃったかしら」
彼女は優雅に長椅子の間にできた通路を歩きながら、割れたステンドグラスから挿し込む光に目を細める。
「何の用だ、ルミナ」
ルミナと呼ばれた女性は立ち止まると、ドロシーの顔色を伺いつつ言葉を紡ぐ。
「例の錬金術師の孫娘が嗅ぎ回っているそうよ」
錬金術師の孫娘とは、アトランティスに隠れ住んでいるマルグリット・グランチェスターのことだ。
「ちょうどいい。腹を空かせていたところだ」
脈絡のない言葉が何を意味するのか。腹を空かせてるというのは、当然ドロシー本人のことではない。彼女は別の誰かのことを暗に示していた。
含みのある返事を受け、ルミナは笑みを返す。
「それで、お腹を空かせた彼は元気?」
ルミナの言う彼が誰のことを指すのか、ドロシーにはよく分かっていた。彼女の心配を受けて、ドロシーは少し考えてから今一度時計盤の方へ振り返った。
「時の流れとは簡単に知覚できないものだ。だが、止まった時計の針を見ると気づく。時とは、時計の針が止まって初めて流れ出すものだと」
ドロシーが見ているのは、世界終末時計と呼ばれるものである。〇時を指す時に世界は終わるとされているが、まだ猶予は残されていた。
「いずれ、この町から命は消えるだろう。そうなる前に、あの子を転生させる必要がある」
転生。過去の可能性においてジルに対して冗談の如く話していたが、彼女はルミナにも同じ言い回しを使った。つまり、そこに意味があるということ。
その意味を理解しているらしいルミナは、微笑みながらドロシーではなく虚空を見つめた。
「彼にとって、本当に幸せなのかしら」
自分ではないどこか……いいや、誰かを見ているルミナに、ドロシーは視線を引き戻そうと強い声で問う。
「何が言いたい?」
すると、ルミナは真紅の瞳をドロシーに向けた。
「アトランティスの外に出たところで、この町と何も変わらないわ」
彼女は腕を組み、口元のあたりを手でつつく。
「こう考えたことはなぁい?」
わざとらしい仕草の後で、ルミナは彼女たちにこう投げかけた。
「こちらと向こう。どちらが天国で、どちらが地獄なんでしょうね?」
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