第3話
婚約式当日の空は分厚い雲に覆われており、今にも雨が降り出しそうな湿った空気が漂っていた。
しかし、式の会場であるセーリング家の大広間は天井から吊るされた巨大なシャンデリアが放つオレンジの光と料理人たちが腕を振婚約式の当日、空は分厚い雲に覆われており、今にも雨が降り出しそうな湿った空気が漂っていた。
しかし、式の会場である大広間は天井から吊るされた巨大なシャンデリアが放つオレンジの光と料理人たちが腕を振るった料理の美味しそうな匂いで満たされ、明るい空気が漂っていた。
セーリング家の執事長アゼルが司会の下、予定通りに進められた式はついにメインイベントの誓約書の朗読の時を迎えていた。
誓約書の朗読は会場の中央に立った2人がアルフレッド、リラの順に交互に読み上げ、その後会場の全員が見守る中で婚約記念品の交換が行われる予定だった。
リラとアルフレッドはそれぞれ会場の両端に設けられたセーリング家とギルバート家の席から立ち上がると、会場のあちこちから興奮に満ちた囁き声が上がった。 2人は各テーブルの燭台から放たれる光の粒の中、真っ直ぐに敷かれた赤いカーペットの上を進んだ。 純白のドレスを身に纏い、ふんわりとカールしたプラチナブロンドの髪の上に大粒の宝石を散りばめたティアラを載せて歩くリラは天使のように美しく、その顔は自信と幸福に満ちていた。
2人は円形に縁取られた会場の中央まで来ると、お互いあと一歩足を踏み出せば抱き合えるという距離で足を止め、向かい合った。 会場中の視線が1箇所に集まる。 リラは少しだけ踵を浮かせ、浅黒く日焼けしたアルフレッドの顔を見上げた。 アルフレッドはリラよりも頭1つ半は背が高い。
アルフレッドはこちらを見つめてくるリラに向かって一瞬視線を落とし、小さく息を吐いて天井を仰いだ。 リラはアルフレッドに向かって微笑みかけた。
「それでは、リラ・セーリング様とアルフレッド・ギルバート様による、誓約書の朗読です!」
アゼルの声が響くと人々の囁き声が止み、会場は一瞬静寂に包まれた。 燭台に立った蝋燭の炎だけがちらちらと揺れている。
リラとアルフレッド、2人の視線が空中で衝突する。 会場中が固唾を呑んで2人の誓いの言葉を待っている。
しかし、シャンデリアから降り注ぐ光に照らされたアルフレッドの顔は彫像のように無機質で、口元も固く閉ざされたままピクリとも動かなかった。
静まり返っていた会場の人々の間では、何か異変を察して徐々にざわめきが起こり始めていた。
アルフレッドを見上げるリラの瞳にも、困惑の色が広がっていた。 真っ直ぐに伸びたまま動かないアルフレッドの手に向かってリラの両手が伸びる。
すると、彫像のように固まっていたアルフレッドの身体が微かに身じろぎし、半歩後ろに下がった。 伸びかけたリラの手がビクッと震え、空中で止まった。
「……できない」
固く結ばれたままだったアルフレッドの口元が僅かに開き、小さな声が漏れた。
「……えっ?」
微かに発せられたアルフレッドの声を聞き取れなかったリラは、ますます困惑の表情を浮かべていた。
ざわめきが起きていた会場も、2人が話し始めたのを見て再び静寂に包まれていた。
「ア、アル? 今なんて……」
憮然とした表情のアルフレッドを見上げたまま、リラは微かに震える唇から声を振り絞った。 しかし、リラの声を遮るように、アルフレッドがおもむろに口を開いた。
「君とは婚約できない、リラ・セーリング。 今回の話は全て無かったことにしてもらう」
一瞬、会場中の時が止まり、アルフレッドの冷たい声だけが大きく反響した。 蝋燭の炎だけがただ静かに揺れた。
だが、次の瞬間会場のあちこちからどよめきの声が噴出し始めた。 今やセーリング家の大広間は祝福のムードではなく不穏な空気に包まれていた。
「……あ、あなた、突然何を言い出すの!? 気は確か!? 自分が何を言っているのか、分かっているの!?」
リラは煌びやかな会場の中心で呆然と立ち尽くしていたが、正気に戻ると冷たい視線のアルフレッドに向かって喚き声を上げた。 大きく見開かれた瞳は血走っており、青ざめたその顔は衝撃と恐怖の表情が入り混じっている。
「ああ、確かだとも。 むしろ今までの僕がどうかしていたようだ。 君のような人間と本気で結婚しようと思っていたんだからね」
「そんな……どうして!? 一体なんで……」
リラが言いかけた途端、それまで仮面のように無表情だったアルフレッドの顔が怒りで歪み、激昂した。
「どうしてだと!? 君が今まで僕を騙し続けていたからだ! 僕が何にも気付いていないとでも思っていたのか!」
初めて見るアルフレッドの激怒する姿を前に、リラは一瞬怯んで思わず後ずさりした。
「私が騙した? あなたを? そんなこと一度も……」
「いいや、僕は君に騙され続けていた。 僕の前では明るく、心優しい淑女の振りをしていた癖に、裏では周りにあんな態度を取っていたとは! 僕はあの日見たんだ、君が物凄い剣幕でエリスを怒鳴りつけている姿を……」
「……そ、それは……」
事実リラはこれまで幾度となくエリスを厳しく怒鳴りつけてきた。 しかしまさかそれをアルフレッドに見られていたとは露ほどにも思っていなかったため、リラはショックで何も言い返すことが出来なかった。
どうにか弁解の言葉を探そうとしているリラをよそに、アルフレッドは素早く会場の端まで歩いて行くと、そこにいたエリスの手を取って再び中央に戻ってきた。
「エリス! どうしてあなたがここに!?」
本来なら裏でデザートの準備をしているはずのエリスがここにいるのを見て、リラは先程の弁解をするのも忘れ驚愕の声を上げた。
「僕が頼んだんだ、誓約書を読み上げる時間が来たら会場にいてもらうようにって」
突然会場中の視線を集めることになって戸惑っているエリスの代わりにアルフレッドが答えた。
「君はこの子のことを随分と虐めていたようだな……全部聞かせてもらったぞ」
「そ、そんなこと……」
リラは「そんなことない」と言おうとしたが、冷たい怒りに満ちたアルフレッドの目を見ると上手く声を出すことができなくなった。
「僕の前ではいつも穏やかな笑顔でいたのに……卑怯な奴だ……この手の傷だって、君がやったんだろう?」
アルフレッドはエリスの手首を掴むと、包帯が巻かれた手の甲を掲げるように持ち上げ、リラに見せつけた。 リラはそれを見てアルフレッドの言いたいことに気付くと、すぐに悲鳴に近い声をあげた。
「それは違うわ! 私は知らな……」
「今更君の言うことなど信じられるか! この嘘つきめ!」
「っ!……」
アルフレッドのあまりの剣幕に、リラは押し黙った。 衝撃、疑念、悔しさ、絶望……様々な感情がごちゃ混ぜになり、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。
アルフレッドはそんなリラを一瞥すると、掲げていたエリスの手を離した。 そして、今度はエリスの肩をガッと掴んで強く抱き寄せた。
「君のような卑怯で傲慢な魂を持つ人間とは結婚できない……僕はこの人と結婚する。 行こう、エリス」
煌びやかに飾られたホールの中心でアルフレッドは冷たい声を響かせると、エリスの手を取り本来ならリラに贈られるはずだった婚約指輪をはめた。 それから2人はしっかりと手を握り合い会場の出口に向かって颯爽と歩き出した。 ざわざわとした人混みも、アルフレッドが歩き出した途端パッと割れて出口までの道を作った。
「ま、待って!」
人混みの中心に1人取り残されたリラの悲痛な声が響く。 しかし、アルフレッドは振り返ることもせず足早に会場を去って行った。 リラは呆然と立ち尽くしたままアルフレッドの残像に震える手を伸ばし空を掴んでいたが、やがてその場に崩れ落ちた。 豪華に着飾られたドレスの胸元から、紫色の花飾りが外れて床に転がった。
会場に集まっていた貴族や資産家はしばらく目の前の光景に圧倒されていたが、次第に興奮のささやきが会場のあちこちから湧き上がり始めた。
「これは大事件だぞ……」
「エドモンド家は『型破りな一族』だとは聞いてはいたが、これほどとは……」
「これは夢? まるでお芝居を観ているみたいだわ……」
「それにしても……見たか? セーリング家のお嬢さん」
「気の毒にな……でも、アルフレッド様が言っていたことが本当なら、自業自得じゃないか?」
「ああ、大分調子に乗っていたみたいだし、いい気味だ」
「式の途中で悪事がバレて婚約相手に逃げられるとは……まるで物語の『悪役令嬢』だな」
「ちょっと! そんなこと言って、もしお嬢様の耳に入ったら……!」
「しかし、自分が散々いじめていた相手に婚約相手を取られるなんて、まさしく悪役令嬢の末路じゃないか?」
「ハハハハハハ……」
興奮に満ちた会場の人々のざわめきの中から、リラに対する嘲りの声があがり始めた。
中にはそれを嗜めようとする者もいたが、ポツポツと生まれ始めた嘲笑の声は、水面に描かれる波紋のように広がっていく。
リラは両手を床についたまま微かに肩を震わせていたが、自身に向けられた嘲笑を耳にすると、真っ赤に染まった瞳をカッと見開いた。
(誰が『悪役令嬢』ですって!! 私は、私は……!!)
勢いよく立ち上がろうとしたその瞬間、涙に濡れた彼女の瞳に紫色の花飾りが映った。
無造作に床に転がったそれは、無数の花びらを微かに揺らして彼女に微笑みかけた。
(リラ・セーリング。 それがあなたの名前。 どうかいついかなる時も、あなたはあなたらしく、誇り高く生きて……)
リラは転がっていた花飾りを見つめたまま動きを止めていたが、やがて瞬きすると花飾りをそっと手に取り静かに立ち上がった。 ゴシップ好きの観衆たちの嘲笑は水を打ったように静かになり、俯いたままのリラの顔をよく見ようと、視線が集中した。
「……式は中止よ。 私は部屋に戻るわ」
威厳に満ちたリラの声は大きく張り上げられたものでは無かったが、しんと静まった会場に自然と響き渡った。
「し、しかしお嬢様……」
その場を立ち去ろうとしたリラに向かって、近くまで駆けつけていたアゼルが声をかける。 彼も多くの観客と同じく、動揺して額に汗が滲んでいた。
「婚約相手が居なくなってしまったんだから、中止は当然でしょ? ……それとも、婚約相手に逃げられた惨めな私をまだ笑い足りないって言うわけ?」
「そ、そんなことは!」
振り返ったリラに鋭い視線を送られたアゼルは、慌てて両手を激しく振った。 リラはそんなアゼルを一瞥すると、今度は会場の人間をぐるりと見渡した。 先程までリラを嘲笑していた者は、彼女と目線が合いそうになると慌てて俯き視線を逸らした。
「……フン……とにかく私はもう戻るから。 後は勝手にやって。 ああ、それとあと、私の部屋に熱いココアを一杯持ってきて頂戴」
リラはアゼルに向かってそれだけ言い残すと、スタスタと出口に向かって歩き出した。 アゼルはリラの背中に向かって何か言いかけたが、誰かの手が彼の肩を掴んでそれを止めた。 振り返ると、そこにはマリウスが立っており、アゼルの顔を見てただ首を横に振った。
ヒソヒソとした囁き声が溢れ、興奮に色めく人々の間を、リラ・セーリングは肩で風を切って歩いていく。
(私は……私だ。 他の誰かにとって「悪役」でも、私は「リラ・セーリング」が主役の人生を歩む)
リラが大広間のドアノブを回すと、扉が大きな音を響かせて開いた。
煌めくエメラルドグリーンの瞳の奥では、小さな火が灯っていた。
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