第1話

セーリング公爵家の1日は往々にして長女リラ・セーリングの癇癪から始まる。 この日もリラは朝食時、たっぷりの紅茶が注がれたカップに少し口をつけると眉間に皺を寄せ、側に立っていたメイドをその大きな瞳でキッと睨みつけた。 


 「この紅茶を淹れたのは誰!?」


 中央に巨大なシャンデリアが燦然と輝く広々とした食堂にリラの声が響き渡る。 窓から見える噴水の側で水浴びしていた小鳥たちは何かを察してパタパタと飛び去っていった。

 彼女の父親でありこの豪奢な館の主であるパーシヴァル・セーリング公爵と兄のマリウスはリラの癇癪にはもう慣れっこだと言った顔で大して気にも留めず黙々と朝食を食べ進めていたが、リラに睨まれたメイドのエリスは驚いた顔で目を白黒させ、青白い顔はさらに真っ青になった。 


 「わ、私ですが……」

 「エリス! やっぱりあなたね! また角砂糖を2つ入れたでしょ! 『朝食の紅茶は角砂糖1つ』だって、何回言ったら分かるの!?」

 「も、申し訳ございませんお嬢様!」


 エリスは慌てて平謝りを繰り返す。 その様子を見ながらリラは大袈裟にため息をつくと、細く白い指でテーブルの縁を叩きながら文句を並べ始めた。


 「あなた、ここで働き始めてもう2年と半年は経つでしょう? それなのに紅茶の一杯も満足に入れられないの?」

 「で、でもリラお嬢様の好みは角砂糖お2つでは……」


 リラの嫌味に耐えかねたエリスは今にも消えてしまいそうなか細い声で呟いた。 それを聞き逃さなかったリラはかっと目を見開いてテーブルをバンと叩き怒号をあげた。 ティーカップの紅茶が大きく揺れて跳ね、テーブルクロスに茶色のシミを描いた。


 「それは午後のティータイムの時の話でしょ!! 朝食後の紅茶には1個だって、先々週も言ったはずよ!!」

 「ヒィッ! も、申し訳ございません!」

 「はぁ……もういいわ。 誰か……アニー!」


 怯えきった様子でペコペコしているエリスを横目にリラはため息をつくと、エリスとは別のメイド、アニーを呼びつけた。

 広間の端で欠伸を噛み殺していたアニーは呼ばれたことに気付くと、三つ編みのおさげを揺らしてリラの席まで駆けていった。


 「はーいリラお嬢様。 お呼びでしょうか?」

 「ええ、後で代わりの紅茶を淹れて、私の部屋に持ってきて頂戴」

 「やった! これで朝食の片付けをしないですむ……ハッ、何でもございませんよリラお嬢様! 仰せの通りに〜」


 面倒な仕事を放り出す口実を得たアニーは内心の歓喜を取り繕いつつ軽い足取りで食堂を横切り出口まで向かっていったが、彼女たち使用人の取りまとめ役でもある執事長のアゼルが大きく咳払いをすると背中をビクッと震わせ、落ち着いた足取りになって静かに食堂を後にした。 


 「エリス、この紅茶はもう下げておきなさい。 もう要らないから。 それとここの汚れも綺麗にしておいてよね」

 「か、かしこまりましたお嬢様!」


 リラはまだ怯えた様子のエリスを振り返ると、テーブルのシミを指でトントンと叩きながらイライラして言った。 エリスは慌ててティーカップをトレイに載せると、逃げるように広間を後にした。



 グランシア帝国の中でも最も古い歴史を持つ名家の1つ、セーリング公爵家の19代当主、パーシヴァル・セーリングの娘としてこの世に生を受けたリラ・セーリング。 プラチナブロンドに輝く豊かな髪と透き通るような白い肌、エメラルドのように輝く大きな瞳……見る者を虜にする美しい容姿を持つ彼女は小さな頃から両親や歳の離れた兄ジャンジャック、周囲の召使いに甘やかされて育ってきた。 5年前に母のフローレンスが病気で亡くなってから周囲はますます過保護になり、17歳になった今でも子供のようなわがままを繰り返していた。

 セーリング家の人間は皆、大抵週に一度はリラのわがままに付き合わされるのだが、その中でもメイドのエリスは頻繁にリラの餌食になっていた。

 エリスは元々孤児の生まれで孤児院を出た後ウエイトレスとして働いていたが、2年半前に職を失い途方に暮れていたところをリラの兄、マリウスに拾われセーリング家に仕えるようになった。 ひょろりと背が高く、青白い面長の顔をしているエリスはリラよりも2つ歳上だったが、引っ込み思案で物覚えも悪いためいつも仕事に難癖をつけられたり、気まぐれに付き合わされて仕事に手が回らなくなったりしていた。


 次の日、リラは談話室の窓際の椅子に腰掛け本を読んでいた。 アンティークのテーブルを挟んだ向かいの席では彼女の兄、マリウスが新聞に目を通している。 テーブルの上には2つのティーカップが並べられており、エリスが緊張した面持ちで紅茶を注いでいた。 微かに手が震えており、ポットの蓋がカチャカチャと小さく音を立てている。 そしてリラのカップに注ぐ途中で紅茶を溢してしまった。 


 「あっ! 申し訳ございませんリラお嬢様!」


 エリスは慌てて手を止めペコペコ謝りながら恐る恐るリラの顔を盗み見たが、リラは大して気にも留めない様子で手にした本のページをめくっていた。


 「別にいいわよ、後で拭いておいてくれれば。 ……砂糖は2つよ、分かってる?」

 「えっ?……あっ、はいお嬢様!」


 エリスはてっきりまた怒られると思って身体を縮こまらせたが、存外リラが穏やかな口調で言うので思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。 しかし、それでまた怒られてはたまらないと思い直し、急いで角砂糖を2つ放り込みティースプーンでかき混ぜた。


 「なんだ、わがままお嬢様は今日は随分ご機嫌みたいだな。 何か良いことでもあったのか?」


 2人のやりとりを聞いていたマリウスは新聞を横に置くとからかうような口調で言った。 プライドの高いリラは手元の本から目を離すとニヤリと笑っているマリウスを見て唇を尖らせた。


 「あら、お兄様ったら意地悪ね。 誰が『わがまま』なのかしら。 私は別にいつも通りよ……この後アルフレッドと劇場に行くの」

 「アルフレッド……ああ、ギルバート家の長男坊か。 最近よく耳にする名だ」

 「ええ、そのはずよ。 だって彼とは先週も会ってるんですもの。 一緒に狩りに連れて行ってもらったの。 お兄様もお誘いしたのに、覚えてない?」

 「ああ、そういえばそうだったな……」

 「お兄様も家の仕事なんか放り出して一緒に来てくだされば良かったのに。 とても楽しかったわ……」


 そう言いながらリラはアルフレッドと出かけた日のことを思い出し、夢見るような表情を浮かべた。 いつもエリスを怯えさせている少し釣り上がったエメラルドグリーンに輝く大きな瞳も、今はすっかり緩みきっている。 マリウスはいつもそんな顔してれば可愛げもあるもんだが、という言葉をぐっと飲み込んだ代わりに小さく息を吐いて言った。


 「ああ、今度は行けるようにするさ……そういえばギルバート家といえば最近領地で希少な鉱物資源が掘り出されたとかで、急激に地価が上がっているって話を聞いたな」

 「アルの屋敷の近くは山に囲まれてて沢山の動物がいるって言ってたわ。 今度は彼の領地に連れて行ってもらうんだけど、彼ったらそこで小山のような熊を仕留めたことがあるって言うのよ。 ねぇ、本当だと思う?」

 「さあな……随分アルフレッドがお気に入りのようだな……まさか本気で結婚するつもりか?」


リラはずっと浮かれた調子でアルフレッドについてペラペラ喋っていたが、兄の非難するような声を聞くと途端にいつもの鋭い目つきに戻り彼を睨みつけた。


 「何? もし私とアルが結婚するとして、お兄様は反対するって言うの?」

 「いやいや、そんなつもりはないさ。 お前が幸せになってくれるんならね。 それにさっきも言った通りギルバート家は最近急激に力を伸ばしている貴族家の一つだ。 我らがセーリング家にとってもお前とアルフレッドの結婚は悪い話じゃない……」

 「あら、それならいいじゃない。 なら何が引っかかるって言うわけ?」

 「うーん、そうだな……アルフレッドってやつは何というか、ちょっと無鉄砲なところがある。 この前だって探検家の真似事をしてあわや命を落としかけたって話を聞いたぞ……まぁ、無鉄砲なのはお前も一緒なんだが……」


 マリウスはあまり煮え切らない口調で言うと、ポリポリと頭を掻きティーカップを口に運んだ。 しかし、中身が熱すぎたのか少し唇をつけただけでテーブルに戻した。 リラはその様子を見ながらクスクスと笑った。


 「お兄様の言う通り、似た者同士なんだからきっと私たち上手くやっていけるわ。 それに、私はアルのそういう無鉄砲なところも好きなの…………あら? 何かしら?」


 リラが喋っていると、カランと窓枠に何か小さなものが当たった音がした。 リラが窓を開けて外を覗くと外の庭で背の高い青年が大きく手を振っているのが見えた。 


 「あっ! アルだわ! きっと私のことを迎えに来てくれたのね!」


 リラは興奮した声で言うと、窓から身を乗り出してアルフレッドに負けじと大きく手を振った。 


 「アル! 今行くわ! ちょっと待っててね! ……あぁ、早く支度しないと! ご機嫌ようお兄様、それじゃあ私行ってくるから! エリス、この紅茶はもういらないから片付けて頂戴。 あぁ、急がないと……そうだわ、アニーも連れて行こうかしら……」


 興奮で頬を染めているリラは早口で捲し立てながら、嵐のような勢いで談話室を後にして行った。 


 「やれやれ、我が妹ながら忙しい奴だ……あんなでも結婚すれば多少は落ち着いてくれるのであれば、悪くないのかもしれないな……」


 マリウスは呆れたような口調で言うと慎重に紅茶を一口飲み、また手元の新聞を広げて読み始めた。

 エリスは半分ほど中身の残ったリラのティーカップを片付けながら、大きく開かれたままの窓の外を見つめていた。

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