朝、僕は川を渡る
朝川渉
第1話
朝、起きてカーテンを開けた時、僕は自分の中の何かが変わってしまったような予感を僕ははっきりと感じる。それはAM7時までに髭を剃り、それから髪型を整えて前日選んでおいた服を着るという朝の支度をする時にも付きまとって来ていて、僕はその感触をもっと自分の身にはっきりと擦りつけて、まとってみたいと感じていた。そうしていつしか僕は声を上げる。けものみたいに。「あ」と「お」と「え」を繋げていえばいいだけだ……頭では理解するのだが、そう、疾走感、これまで僕はそれに身をまかせることをよしとしなかったので、なかなか身体が「なにか」を振り切ろうとしない。考えあぐねたあとで僕はからだを振り絞って何かの声をあげようとする…けれど、もうかすれてしまって声が出てこなかった。
僕はそれからスーツを脱ぎ始め、荷物をまとめることにした。最速でこなすためにあちこちに電話をかけまくりいろんなものを中断させてもらい、細かいことは弟に任せることにした。丁度、東京の街を見てみたいと言っていたから良いことをしたと思う。気が付いたら、僕は一人で電車に揺られている。がたんがたんと音がなる。電車内はがらんと空いていて、東京はなまあたかい空気が漂っているのに皆が「さむい」というのがふしぎだった…人間って不思議なもので、とにかく右に行った後には左へ行きたくなるもので、そうしてやっと中央に来たと思ったらゆらゆらと揺れていたくなるのだと思う。この「ゆらゆらと…」というのは僕の日常的に穏やかに訪れる症状でもあったりする。どこへ行き着くわけでもなく、手中にしたいわけでもない僕は、「こたえ」を持たないままどちらかというと弱者としてそこに居座る。見たことないだろうか、そういう人間を。
僕の手元にはさまざまなメールや電話が来ていたりもしていたけど、僕はそれを作業的に「イエス」か「ノー」か「保留」で仕分けしていく。職場からの連絡→ノー。友人からのメッセージ→保留 ダイレクトメール→ノー。こんなもの購入した経験どこにもない。いったいどうなってるんだろう、世の中っていうのは…そこには何万の僕以外の意思があり、気を付けていないとそこに絡め取られてしまうようである。ノー!ノー!ノー!と僕は言いまくる。あるいは狂ったように映る。けど言っておくけど狂ってるのは僕の方ではない。僕はいつも、言わされているという意識を無くしたことがない。僕は心底この手間が嫌いである。
僕は、30の後半にさしかかる「ヒト」であり、小学校、中学校、高校→大学と特に何かを語るべきことを持たないままにここまで来る。僕は、自分を投影させるべき物事をこの歳になっても見つけられていなかった。僕はそれよりもずっと、自分のなかにあるはっきりとした感触を求めていた…
偶像崇拝について僕が考えるのは、それが僕らと同じような手足が付いていなけれなかなか僕らというのは安心しないということである。たとえば、引きこもりの男が家の中から出て来るまでのエネルギーというのは、それに注ぎ込まれるもう一人のまともな人からの総量と同じなのだと思う。そのことに気づいてから僕はアバターについてよく考えるようになった。それは手も足も付いていて僕とは違う人格を持ち、ちがう行動パターンがあるのだけど、でもどこかで生きているそのもう一人のかたちのことを思うとなぜかやすらぐのである。
もっとわかりやすく言おう。たとえば、かみさま。ドラマの主人公。僕はそこになにかを投影し、そして代わりに生きてもらう。そういう行為を僕達は求めているんじゃないか?あるいは断片的に…あるいは完璧な生の体現者として。ひとつに、僕はゲームもたまにする。ゲームをすると時間が経つのを忘れてしまうので就職してからはなるべくしないようにしていたのだけど、あれは得られるものが全くのゼロだということに皆気づいてるんだろうか。けど僕らはなにかを得た感触さえも持つ。ゲームの電源を切る…そのあとで僕はなにかを回収する。その人間らしい、僕の代理人から、代理人でなければ得ることのできなかった報酬を、なんの疑問も感じずにすくい取り、それから電源を切る。代理人はそこで死に、死の恐怖も経験しないままで人生を終える。僕はそのあと何の疑問も感じずにSNSでそれをかいつまんだひとことを発信して、満足する。
ーー満足する?
まるで目を閉じたままテストの答案を返してもらうように、懸賞のハガキを送ったあとで結果発表を見ないようなことを、ずっとずっと、なんの疑問も感じずにあなたがたはやっている…。けどSNSを送信する時は必ず誰かを思い浮かべていたじゃないか。そしてその不自然きわまりない、不可思議な行動を、忘れようと努めていたじゃないか…あなたは人間だから。僕は、カードの請求書には心底うんざりする。なぜいちいち、僕に紙を使ってそれを伝えようという親切心が沸くのか、世の中のことわりが飲み込めないような時がいつもある。
僕はまだ、快速で進む電車内に腰を下ろしていて、近くで某キャンデーをなめとる女の子の口の動きを気にしながら、考えているのはこうだった。僕は、いつか僕の代わり身を作り出すのである。偶像崇拝。僕がそのことに気付いたことを、まだ誰にも伝えていない。伝えるべきじゃない。僕が必要としているのはーーーー
北へ。そこへ行くことを僕が選んだことに今は意味があるのであり、その理由に関しては特に意味がなかったりする。とにかく今、ということでしかない。そしてそこにあるのは、希望の塔だったり金塊だったりするのではなく、以前会ったことのある誰かなんだろうと思った。大学を卒業してから初めて会った、子どもではなく人というアイデンティティを持ち、僕に話しかけて(正確には僕が見つけて僕が話しかけ、しかも僕が仲良くなるようにけしかけた。毎日)来たある人の、存在感を僕はもっと確かめたくなる。手を、それから質感を、手紙が届いたらどんな顔をするのか、支払いの時にどんなふうに財布を取り出すのか、異性と話す時の感じ、などなど。そういうものを知ることは会社でノウハウを得ることとニュースや実用書で得るようなものとは違い、ある意味でそれは誰かが通り抜けるための複雑な呪文のようなもののようなのだと僕は思う。たったひとつさえ間違えずにそれを僕が知り、また口にすることで僕はたぶんもっと僕らしい僕に戻れるような気がしている。僕が変わらざるを得なくなった時期に「たまたま」現れた人。僕が忘れたくなると周りの人が思い出すひと。ずっと、死ぬまで僕の目の前に現れ、僕に何かいい、すべて与え、すべてを与えるような、そういうひと。
…もしかすると、その人は…
しかし、僕は目の前に現れた姿を形づくる影を打ち消す。「そういうことは考えてはいけない」「なぜ?」「それは、あなたの弱みだからだよ」
……
…
僕はいつも、普段から考えたことはいずれ誰かに必ず伝わる、と思っていた。考えているのは僕がこうなってほしいと思うことではない。こうあるべきと思うことでもない。それは人に対するものではないのだから、誰かに伝えたりなどはあまりしない。僕は考え続ける。そうして、その考えがいずれ僕という代理人をうちやぶり、そのものの生を持ち始め、行き着くところまでの速度を保ち続けてくれればいい。
僕は、イメージしてみる。その人がどんな場面で笑うのか、起こるのか、真面目くさった話をするのか、そして、僕のことをからかおうとするのか。
※※僕はその相手とテニスコートにいて、ラケットを手に持って相対していた。僕らは対面を果たし、あるいはもうすでに数年前に対面を終えているのであとは残された短い生の中でやるべきことをするだけになった。
僕はラケットでその相手の打った球を返そうとする。でも意識にあるのは「ラケット」「ひと」「手の筋肉」「晴れた不快なほど広すぎるテニスコート」のことだけだった…。僕は、自分の筋肉の動きや感情を追いながら、向こうにいる人の動きを眺めている。彼もしくは彼女の顔。それからからだ。
それは、白い、閃光を放つような概念。
ひと。僕はそのなかにいるのに、でも見るだけの塊になる。視覚が肥大しているのではない、どうしてかもっとずっと事実は時間をうしない、スローモーションで真実は暴かれていくようで、僕はそこに生まれる刺激と、その反復する行為を追う。そういう意味で、僕も相手もまた裸で居るように思う。テニスコートにーー白昼堂々とーーー裸の大人がーー打ち合っている。汗が垂れる。白いろうそくみたいに。
僕は自分の肌が火傷しそうになっていることに気がついた。恋い焦がれているわけではない。僕は「そのひと」を追い、逃さないようにする。僕が以前会った時の感触、たぶんあれはすり替えられていた。だとしたら本物はきっと、法則から外れた部分なのかもしれない。いや、けれど、現実は意外性のあることばかりが起きる。だとしたら、すべて。もう頭では考えていられなかった。僕はなつかしさを感じていた。父親、母親、友達、それから、その人、その人によく似ていて、けど僕がこれまでに恋としてつながることのできた誰かの顔※※
僕はそういう瞬間を昼間の、がらんとしている電車の、女の子の隣で考えていた。
僕は隣にいる女の子はきっと生まれながらの痴女なんだろうと思っていた。
女の子はペットボトルのことを考えていた。何かを満たして、それから運ぶためだけの透明なペットボトル。自分のうまれころはそんなものはまだなく、あるのは時々立っている自販機で売られているスチール缶の飲み物だけだったので、ペットボトルが流通し始めた時のことをまだよく覚えていた。ペットボトルのことが好きだと思った。
女の子のうまれたのはこの今いる場所よりもずっと北のほうにある、網走刑務所のある網走という土地だった。そこには海があり、太い鉄道が走っていた。海といっても皆がイメージするような清涼さとは異なっていて、黒くて、寒くて、風邪を引いた思い出と親戚に怒られた思い出と深く絡み合っていた。それは、寂れたうどん屋の看板と観光客向けの蟹の模型が付いた定食屋が立ち並ぶ以外、めぼしいもの…というかまだ若い女の子のこころを慰めてくれるようなものは文字通り何もなかった。ときどき、夏に入るとビニール袋が絡み付いてくるようなこともあった。
「夏に海へ入ると先祖が足を引っ張る」と女の子の両親は言っていてのちにそれはくらげが発生するからだと知った。女の子は足に絡みついてくるくらげの体のことを考えたりした。冷たく、暗く、いつも何か塩臭いような街並み。自分も、きょうだいも、それを固く信じて何か不浄のもののような気がする夏の海にはあまり入らなかった。もちろん秋にも冬にも春にも入らなかった。
女の子のあたまのなかにあるのはそれから講義を続けるべき大学の授業、付き合いたての彼氏のこと、数少ない友達のことだった。自分が彼氏と出会ったのはインターネットを通じてだったから、それに引け目を通じて彼女は彼のことを友達には言わなかった。説明しなければならない時は「友達の友達」と言う。
彼からは二、三日おきにメールが来る。
はじめは新鮮だった出会いも、網走の冬の天気のように次第に雲がかるような感覚がしてきていた。彼は意味を求めている…ウインドウ越し、キーを叩く手を止めて彼女は思った。いや、ちがう。わたしはおんなだから…彼はわたしに良くなってもらいたいみたいだ。返信の間隔が次第に短くなり、何か怒ってるふうなときもある。「怒ってる?」と聞くと怒っていないという。けど、わたしは彼の意味にがんじがらめに多分なる。
彼は「そうじゃない」ばかり言う。わたしの普段することには興味を持たないし、絶対に認めない。そして理想的な彼女の像を頭で描き、永遠にそれを追うことをわたしに求める…
そのことに気付くと吐き気がしてきた。次第に返信する気がうすくなり、メッセージは一方的なものが溜まっていく。怒気を含むもの、理屈っぽいもの、変わって、彼女をなだめすかせるようなもの…
彼女は、そのまま自分が生贄になってしまえば彼は喜ぶのだろう。彼女は、柵に取り囲まれてもう身動きできない鹿のような生き物を思った。彼、それからわたし。どこへも行けない生き物。そうしてあげたいけれどそうできない自分がいることを思った。
彼とは別れたい。ああ、もう、考えたくない。友達にと相談できないし、それに社員の指導のことを思うと頭が痛くなる。もともと入りたくて入った学校じゃなかった。周りがそうするから自分もそうしただけで、いつまでも続く時間の中で訪れるイエスかノーかの選択肢を選んだだけだった。それがいつの間にか自分をかたちづくっていて、そろそろ責任まで生まれてきていることにはぞっとした。
メッセージの音がはじめはうれしかったのに、今では不快な音に認識されていた。去年付き合った男の人もそうだった。どうして男の人っていうのはこう…わたしを自由にできると思っているんだろう…
わたしは道具じゃない。それに、規格の決まった商品でもない。
たくさん容姿のことを言われるのもそれと同じレベルのことだった。彼は積極的に、わたしのことをくだらない存在のように見せる…彼女はそう感じていた。そして彼女がもう自分から言葉を発する気を完全に失ってから、自分の言いたいことを言う。腹がたつわけではなかった。重い、苦しい、それは絶望感に似ていた。彼みたいな人間はそんなやり方で愛というものを示して、何もかもを自分のものにするのだ。彼女が笑えば彼のため。泣けばそれを取り除き、先にあるものにすべて彼が意味を付ける。
「あの」
隣の人が突然声をかけてきた。
「その、音やめてもらえませんか」
僕は、彼女に話しかけた。彼女の顔を、僕はよく見ようとした。かお。それは人を表すと僕らは信じ込んでいる。
人っていうものの定義を、アバターについて、しかもそれをちゃんとしたかたちにする上の手続き上のことをスムーズにするために僕はいつも考えるようになっていた。ひとがひととして存在しうるために、僕が思い浮かべるものはさまざまだったのだけれど、雰囲気…声質…感情のパターン。それから、やはり顔だ。
女の子はなんとも言えない顔をしていた。やはり表情がないかぎりは僕もそこになにかを見出すことは出来なさそうだ。だとしたらそれは単なる羅列と変わりない。それなのに、顔を見ると何か言いたくなる。じゃあ僕がなにか意識している時、誰かの顔を思い浮かべているのだろうか。それに対する答えは、否である。考えていない。人っていうのはもっとあいまいな、ぼやっとしたイメージでしかない。だとしたら、それは、入り口。あるいは、文章。あるいは、だれかの呼吸音。ああ、でも、それは、確固たるあの夏の記憶のように僕のなにかを呼び覚まそうとするーーー顔。
僕が女の子とセックスするとき、やはり顔を見ているのだと思う。顔、それから下腹部以下の部分。その二つは分離しているのにひとつの身体を持つ僕は「ひとつにまとまっている」と思い込んでいる…これはおかしなことであり、人間の生み出した「息子」っていう言葉はなかなか的を得ているような気がする。まあそれは良いんだけど、僕はその人がどんな印象を僕にもたらすのかいつも知りたいと感じていた。
でも、女の子の方はちょっと違ったみたいだ。女の子は僕の顔に普通以上の興味を持ったみたいだった。
「すみません」女の子はそのキャンディーを手に持って明らかに持て余していた。
「もらったんです。キヨスクのおばさんに、もう包みを開けてもらってたから…
でも、本当は心配してました。『いつ、誰かから注意されるのかも』って」
女の子はそれを右手に持ったまま、その手ののとを見ないふりして話していた。
「いえ。こちらこそ、すみません」
僕は会話を終えてしまった。
そしてその後チュッパチャプスを片手に持った女の子から僕はいま現在の悩みのタネである彼氏と、学校と、将来性についての話を、怒涛のように聞かされることになる。
僕はふんふんとそれを聞く。僕のバッグには、北のほうへ行くためのダウンジャケット、それからカイロ、地図、念のために体温計なんかも入れてあるのだけど、そのことはまだ彼女に話していない。時おり彼女は僕の顔を見ていた。へんな感じだ。僕は、顔を何にも覆っていないーーなぜこんな事をしたのだろうーーそれが当たり前じゃないか、それが人間という社会だ。僕は、その目線からたぶん普通以上の感情を持たれているんだろうなあという感じがして、悪い気持ちはしなかった。僕は、僕というアイデンティティを奥底に秘めたまま、彼女と僕の顔で会話をしている。おかしなちぐはぐの曲ばかりがかかり、けどそれが同じ場所でいつも終わるかのようだった。ーーそれは僕だ。
彼女はたぶん綺麗な方だと思う。けど、そう、その時は「好みじゃない」と僕は思っていた…。僕の好きな顔にはきちんと方向性があって、とにかくもっと日本的な閉鎖的な顔が好きだった。
鼻はつめたく尖っていて、目は小さく、主張なんかなく、まっすぐ前を見ているだけで、笑うとき顔が揺れないようなのがいい。 話しかけても雪解け水みたいになかなか本心を明かしてくれないような感じがいい。一重まぶた。それから髪の毛も絶対に真っ黒がよかった。あとはへんなアクセサリーは一つでさえしていて欲しくない。僕からしたら他の点は微妙にズレていたとしてもそれだけは譲れなかった。なぜって?何でかっていうとそんなものは必要ないからである。必要のないことを毎日する、というのはかっこたるアイデンティティである。かっこたるアイデンティティをもつ人間を僕は苦手としている。「絶対にこのエメラルドの指輪を結婚式にも葬式にもしていくの。それがあたしだから」みたいなやつ。
…でも今はそういうのは建前みたいなものでそんなに関係はなかったのかもなあと思う。人の顔、って人格そのものだけれど、僕はそこにもっといろんな意味を付け始める。
女の子は、「わたしは完全に満たされたい」と感じていた。常日頃、それは幼少期から、学童になり、卒業を経て、処女を失って、いまに至るまで。
それから迷い始める。こういった、概念的な話を、まだあったばかりの名前も知らない人に話しても良いのかどうか。会話を続けるのを選んだのは自分だった。その壁はとりあえず取り払われた。はじめに思った通り、相手は気の良さそうな人で、自分の言うことに耳を傾けてくれるし、それにどんな意味を付け加えるわけでもない。この人はなんでも知っている。女の子は思った。なんでも知っているから、狭い尺度での解釈を望まないのだと思った。だから、女の子はふだん友達といるときや、家族といる時よりもずっと自分の限界をすぐに超えてずっと話し続けた。で、その時自分はそう思ったのが今も根底にありーーそれはひとつひとつが繋がっていてーー自分の言ったことの本当の意味を他人は知ろうとしないーーー知ろうとして欲しいわけじゃないーーけどその杓子定規的な仕分けには驚く、云々。「仕分け」とはよく言ったものだと女の子は感心した。ボキャブラリーが乏しいと自分はいつも家族からも、恋人からも言われていたのに、受け入れられればその分、自分の中からとめどなく言葉が出てくるのだと思った。
もう、はっきりわかった。こういう気持ちを自分はかつて感じたことがあった。ああ、そうだ、自分は明日から、この人の連絡を待ち焦がれることになる。そして、ひとつの言葉に何か付け加えてもらうことを「世界」と信じ込むことになる。女の子は笑いたくなった。こんな風にして世界は広がっていくんだ、こんな風にして。
女の子は、もう少しでペットボトルの話をしてみたくなる。
女の子は最初思ってたような気取ったティーンエイジャーではなく、もっと素朴な、田舎臭い喜怒哀楽のある子だった。そのことに気づいてから自分は相手に好感を持っていることに気がついた。僕がたぶんこういうことをしているのを友達や会社の同僚が見たとしたら「ナンパ」だとか「引っ掛けてる」みたいなことをいってやんややんや騒ぐのだろうけど、僕はもっと違う気持ちでいた…僕だってもっと、単純な、色当てゲームのようでないような人とのつながりを求めていて、けどそういう自分の弱さ対しては持て余してるような時期でもあった。でももし、彼女が背が低くて禿げかかってきた口臭のきつい親父だったとしたら、僕は話を続けるんだろうか…こたえはNOである。僕は、彼女とセックスがしたくなってきていた。話せば話すほどに。僕は一方でそれに罪悪感を感じながらも(でも彼女の方が誘ってるじゃないか。目線とか。口ぶりとか。時々、自分の肉体的な感覚を話すような思わせぶりなところだとか)それを享受しようとする不思議な仕組みの中にどうどうと流されていくようだった。
※※こんなことを誰かに話したら頭がおかしいと思われるかも知れないけど、僕は人の身体を見るとそれが「かお」に見えることがある。水泳選手とかを思い浮かべてみてほしい。直立している、彼のからだ…よくみたら目と鼻が付いている。僕はそのことを考えてから、そのことを忘れないままでセックスしてみたいと考えるようになった。けどまだ、一度たりとも忘れないで居たことがない。僕は彼女の、その個別のアイデンティティともいえる顔を見ていて、もう、その顔がこの世で一番好ましく見えると思えるほどになっていた。そして、彼女のその顔よりも下の部分にはもうひとつの「かお」があるのである…ちょっと吹き出しそうになったけど、それは事実である。僕は彼女にはじめてあったと言うのに、彼女の顔、それから人格がいま、こんなにも愛おしく感じている。※※
どうして、人は重ね合わせたい、と思うのだろう。線と点を、声と声を、その意味や共通点を見出して最短の距離まで近づいたのかと思うと、今度はこれ以上ないくらいにまで離れていく。僕は、さまざまな距離を思い浮かべて、そこで得た彼らなりの答えを整理整頓していた。
僕の思い出。とりとめもない、なんの発露もなかった、苦々しい思い出。僕はその現し身、体現者としてここにいて、そうしてまた別の誰かにそれをトレースしようとこころみる。エラー。普段はそればかりを繰り返す。けど、正常に乗り移ったのだとしても僕はそれを悲しく感じてしまうのだろう。僕は、彼や彼女になにを求めているのだろう。
少し前にはテレビが、不完全な形のままでそれを体現して、僕らにさまざまな憧れに似た感情を与えてくれた。僕らはそれを、喜び勇んでコピーしようとする。youtubeではユーチューバーと呼ばれる人たちが僕らの代わりにさまざまな消費を行なってくれ、僕らはただでその商品の購入をした達成感、開封する喜び、遊んでみるという行動まで全て代わりにやってくれている。僕らは情報を得たと思い込む。けど、ちがう。僕らは感情体験を誰かに担ってもらっているだけだ。僕らはそうして、原始的な欲求をパッケージングされていないままで貪ることを悪とするようになり、その仕分けと制裁にさえ加わるようになり、その矛盾にはなんの疑問も抱かないようになる。そこにはいくつかの相反する代償行為が潜んでいる。悪を淘汰することで得られる快感。その快感は自己の抑圧した性、それから少数派が浮かばれるときの達成感が潜んでいる。彼らは常に自分の現し身を必要としている。だれかーーーあなたは、いったい誰なんだ?取り澄ました顔をして皆の共通意識として出された「やってよいもの」をユーチューバーは体現する。僕らはそれを見る。誰かが何かをそこに残し、足跡も残らないような行為が画面に保存され、僕らはそれをたどる、逆さまに存在させられている。ただ視覚を通して吸いあげる。まったく、これではあべこべではなかったか。メッセージ性のある誰かが僕に投げかけてくるものを僕が僕として受け取るのではなく、僕はある意味でその間あなたに成り代わる。僕はあなたの代わり身となり、あなたがたはあなたがたでさらなる映し鏡を日常的に求めている。これは僕らの本能だと言えるのだろうか。それとも、これは人が人でなくなっていく序章に過ぎないのだろうか。僕らはまず言葉を通して共通の感覚を持つという錯覚を得た。ひとつの音、思い、感覚がまた一つともあるわけがないということを超え、僕らはなにかまばゆい思念と思えたたった一歩先の、よりもっといい未来を描く事をやめさせられなくなり、その形としてひとかたまりを作り上げる。そうしてその発展を経たいま、僕らはそれを崩しにかかるようになったーーー僕らは顔をなくし、声にボイスチェンジャーをかけて、感情を代価させ、僕らではない何かに、もうなってしまいたい。その装置を通せばセックスも恋愛も歌も何もかももっとずっと増幅されていく。もう安心だ、言葉を得た時よりももっと、僕らはたしかなる共通の、それは愛にも、やどりぎにも似たなにかを手に入れつつある。僕らは個人である事を止める。僕らは男でありながら女にもなるし、年寄りでありながら若者にもなれる。動物、赤ん坊、性異常者の感情も抱くことができる。その装置では僕らがひとつの感情を得ることができると証明されれば、何か大きなエネルギー生産量が現れると仮定されている。まるで、埋蔵金を掘るかのように僕らはそれを掘ることをやめなくなる。最後にあるのは死、それは明確であるのに、なぜだろう。虫のようにそこに群がり利益を得るために擦り切れるまで同じようなことを繰り返す奴らがいる。彼らは気が付いていないが、僕らもまた気がついていないことがある。僕らは個人を殺し、そのうえに集団という快楽を築き上げる。けれどこれは序章に過ぎない。僕らは、もっと大きなものになりたい。もしくは僕らは、いつか完全に壁を取っ払う。それがもう、既に手には用意されている。
だとしたら、待つべきものはいったいなんなのだろうか。コンビニで買ったメシをくう。かたわらには本やメディア、ゲームがあふれかえっている。それは全てがゴミになる。僕らはゴミになる感情、どこへも行き着かない欲求、思想を抱えたままでいて、そして、いつか自分自身もゴミになるということに恐怖する。
僕は集団的精神に依存する事を望みながら、またひとつのかっこたる生を持ち得るとなぜか確信しているのである。これが人間の愚かなところだろう。あるいは、ひとつの希望でもある。僕らは自由に、個人というものを規定するようになる。いずれ。それは僕が死んだ後のことかもしれない。
※※僕は、人に名前を呼んでもらいたい。僕はそう考えるようになった。僕は好きになった人から名前を呼んでもらいたい。そうして、この世の中から希薄になっていく「ぼく」という欲求を、すくい上げてもらいたい。※※
女の子は、ペットボトルは純粋なのだとかたる。それは、水を体いっぱいに蓄えて、そしてそれを他の場所へ運ぶ。ただそれだけの役割。誰にもじゃまされない。
「わたし、いっぱいに満たされたい。自分以外のもので、息が出来なくなるほど満たされれば、そうすれば誰からか何か言われても平気で居られると思う。人間は、不完全だと思う。それは、他人がいるから。他人とは比べてしまう…何もない、自分はつまらない。すうすうする体が嫌いだし。」
※※誰かが、どんな風に生きているのかを知りたくなって女の子は夜なのに外へでた。自分がどんな風に生きたいのか、いつもあやふや過ぎるほどだったから、誰かがなにを考えて何のために生きてるのかという話を聞いて、女の子の人生にも同じように血が通ってることを確認したかった。だから、やっと生き生きとしてきた。人はこんな風に考えて、感じるんだと思った。ムカつくことさえ忘れていたのは何故だろう。ただひたすらに重い。
悪戯されたいと思う。心が重くて、存在を持て余しているときには、自分がおもちゃみたいに扱われる方が楽だと思った。かと思えばまた、次の日には大切に扱われたくなる。どうしてなのかを聞かれると彼女は彼女のために涙をこぼす。いつだって本当のことしか話していないのに、他人は他人の意味を付けたがる。彼女はそれを許す。その代わり、彼女も自分のために他人を喋らせることに長けるようになる。自分のしていることがなんだかよくわからなくて、あるべき姿や、守るものがなんなのか、はっきりしてないように思える。そんなもの、なくちゃ駄目なんだろうか。 ※※
女の子が夜、考えていたのは施設の子どもたちのことだったーーーかなしい、浮かばれない思い。さびしい、冬の思い出ばかりがこころには蓄積されていき、それは出口を探さないばかりか、自分がそればかり集めていることにさえ気が付かなかった。
女の子は本当は、彼に手を取ってもらいたかった。「それで、その、」その最後をいつも知らなかったからだ。寂しい人たち(自分と自分の家族をふくめた)が最後にはどうなるのかを知らなかった。
ーーーー僕らは、狭い空間に二人きりでいる。初めからそうであったみたいに、そこから世界を眺めている。
普段は世界が僕らを見ていたのだけど、今は違う。ひとりではそうできないけれど、今は違う。
世界は様変わりする。その世界のことわりを、初めに見つけた人の手、それからそれに群がる人の意思によって。僕らは二人とも親を持たない。いや、違った…親は生きている。合計で、四人。今も元気で自分の国、自分の街、自分の家の中で細かい疑問を感じながらも、もっと太い源流に沿って流れることに対して無関心を決め込んだまま、時々ため息を吐き、子どもが家に足を運ばないことを愚痴りながら。
「かっこたる、アイデンティティってどこにあるの?与えられたものを享受するのも、ない物をねだるのも同じことだよ。どちらも自分という枠からはみ出ようとしない。自分が前提で、そこからもらえるもの、もらえないものを分けるなんていやらしいことだと思う。どちらもおなじことだよ。もらって当然、と思うのも、もらえなくて当然、と思うのも。
願うのはおかしなことだと思う?自分と他人とを分けて考えることは?」
「わからない。けど、自分がないのだったら考えはどこにあることになるの?」
つまり、自分の意思でそこにいる限り僕たちはその太い源流から外れてしまっている。
僕は、家族について考えてみることにする。自分の家族、それから、想像上の家族。僕のアイデンティティはどうやらそこから生まれてきているみたいである。僕から切っても切り離せないのは、おそらくこの身体。それから家族。それから、目の前にいる、僕とは相反する性を持った女性という存在。
けど、普段は、それを忘れて生きている。
それは多分、女の子にとっては最初の転機だったのかもしれない。今の彼(別れたいと思っている相手)ではなくて誰かから言われた言葉だった。けどその誰かが思い出せない。忘れようと思っていたのではなく、そういうことがあまりにも多すぎたからだった…例えば子どもの頃あった親戚のおじさん。二人の男兄弟とはもう、会っていない。その後、小学校の毎日ジャージを来ていた男教師。インターネット。街角のインタビュー。顔を持たない彼らはぼんやりとみな、すべて、溶け合ってなにかを考えてなにかを発言する。女の子に向かって。女の子はそれを、目の前に出された飲み物のように飲み込もうとする。いろんな味がする…それをわたしだと思う、思わなければならない、ごくりと喉がなり、色が付いてる水がその中を流れていく。そして気分が悪くなり、当たり前のようになにかを言わなければならない。毎日。毎日。毎日。だから女の子は目の前にいる相手が現れるまでずっと、それは世の中全体の、若い誰かが持つ思念のようにぼんやりと捉えていたのである。
ーーーーーああ、まただ。がっかりした。わたしは目の前の人に聞かれてしまった。彼は証券会社に勤めていて、目下数字を羅列するのが仕事で、たしかに優秀ではあるのだろう、けど、とくに自分というオリジナルの将来へのビジョンがあるわけじゃない。彼は彼なりに、社会への落とし所を見つけられる事ができた。彼はバスケットボール部に所属した体力のある青年みたいな顔で、求められると親にそのゴールにボールを入れるということを彼は、毎日、毎日、とくに代わり映えもなく繰り返す。がたん、と大きな音がして、そしてボールが落下する。そのあいだ、大きな歓声ーーーが彼には、聞こえている。そしてわたしは、言葉を飲み込む。「そんなことの繰り返しが、あなたは幸せなの?それに何の意味があるの?あなたはあなたなりの息をするリズムでその試合を留めてみたことがあるの?」あなたはそうして周りを見回して、周りの人の顔を見る勇気があるの?僕は何もできない人間で、こうやって人から与えられた競技の中でただ、ゴールにボールを入れるという荷を背負わされてしまったのです。時々はうまくいくけれど、そうでないことも、人から罵られることも、断られることもよくある。それに金を稼いでも大半がゲームとギャンブルに消えていく。僕がみているのはその中で一瞬だけ弾ける快楽物質Aです。僕はAに縛られている…この麻薬を飲んでいなければたちまち、前後左右も分からなくなってしまうのです。わたしの前世は魚です。それも、方向感覚を無くした魚。
彼は嫌な顔をしてわたしのことを見る。昨日、いっしょに映画を借りてきて見てたのとは全く違う目で、まるでそろばんを弾くように、自分の欲求と目の前にいるおんなとを天秤にかけて、自分以外を見下す要素を探し始めるーーおまえはほんとうによく喋るし、人の粗探しが得意な不幸なおんなだな。お前みたいなブス、みたことがないよ。彼は笑って、隣にいるおっぱいでバターミルクを作れそうなおんなと外へ出て行く。そんなんじゃないのに。わたしは、ただ、どうしてあなたは幸福感を次から次へと注ぎ込まれてる器でしかないのに、自分だけはそれでよいのだと笑っていられるのか教えて欲しかっただけなのに。わたしの家族にはすこし問題があって、家に帰ればたまった仕事をこなすために明け暮れて、他のことに手がつけられなくなる。そのことを彼はいっているのだ。誰にでも出来る仕事。何をしても救われるようなことがない居場所。とくに何の称賛も受けないような物事に囲まれて、ああ、それは、彼からしたらつまらないことだとわたしは思う。けど、わたしはそこから抜け出したいなんて考えたことがない。
わたしはあなたとは違う。
わたしはあなたとは違う。
僕は隣にいる女性のことをよく考えてみる。かお、体つき、手足、それから喋り方のこと、話す内容、僕に向ける目線。かっこたる、周りとは違う個別の人であるという特徴を探す。クラス分けされた僕達は顔を合わせたとき何の感情も抱いていなかったのに、日を追うごとに明らかになっていく個性と、ひとつひとつのやり方が重なることでふるいにかけられ、さらにふるいにかけ続けることで、そこに特有の関係が生まれる。そうなるまでにだいたいいつも三カ月くらいはかかった。僕の場合はもう少しかかる。例えば、一年。それから個人的な話をするようになるまでに二年、三年。僕は仲良くなった人と話すようになってからその空白の、誰でもなかった期間のことをたまに思い出して、あのとき僕らは別にお互いにかけるための言葉を持ってなかった無防備な顔と今の彼らの顔を重ね合わせたりしてみる。
僕もそんなふうに見えているんだろうか?
僕が今一番知りたいのはそのことについてなのかもしれない。
僕は恋の内容についてはよく知らない。それを組みとくことにどんな意味があるのかよくわからない。
テレビの中にいる人に僕は聞いてみたくなる。そうなってしまった後と、そうなる前とで、自分というものは変わったのだろうか。例えば、追い続けてきた自分のなるべき姿が、自分の今の姿と重なるような感覚。そういうものがあるのかどうか。
そしてそれは誰なんだろうということだとか。
僕らは、電車から降りた後見たこともないくらいにざあざあと降る雨の中を歩き回った。そしてひとつの宿泊施設を見つけて(古くなったラブホテル)その中に入ることにした。
僕はボストンバッグの中身が多分半分以上濡れてしまったこととかまだ東京からの移動距離が予定していたものの5分の一くらいしかないこととかを考えていた。彼女は多分自分の明日着るべき衣服のことやさっき話した過去のことなんかを考えていたのだと思う。
もう何件目かのメールが届き、彼女は逐一それを確認しては何を打つこともなく電源を切る。そして着てきたコートをハンガーにかけてずぶ濡れになってしまった衣服を洗面所にかけて(と言ってもそれはベッドルームと仕切りがないまま存在している)ドライヤーで乾かしていた。僕はとりあえずベッドの下に黒いボストンバッグを置いて中身を確認してみることにした。そしてそこから少し濡れてしまったティッシュや着替えの下着なんかをベッドの上に取り出してみた。乾かす必要のあるものはとりあえずそれだけで、電気機器類は袋に入れてタオルの中にくるんであったので問題なかった。僕が一息ついて半分濡れてしまったシャツを脱ぎかけたとき彼女はまだドライヤーを使って衣服を乾かしていた。一度きり、トイレへ行き、それから戻ってまたドライヤーのスイッチを入れる。
「乾いた?」
「わからない」
多分乾くわけない、と僕は思い彼女をみた。
彼女は備え付けのでかいシャツをそのまま下の丈だけ伸ばしてみたようなルームウエアを着ていて、これから映画を見て休日の夜を過ごすティーンエイジャーみたいに見えた。彼女は髪が短くてそれが雨に濡れてしまったせいで動物の毛みたいにあちこちはねていた。
「髪は乾かさないの?」
その場で立ち上がり僕は言った。
それから自分のからだで落ちる影を気にしながら彼女に近づいてみる。彼女が僕の気配を感じて振り向こうとしたとき、彼女はもう僕の体の半分に隠れていた。僕は彼女のうしろにたち彼女の質感と匂いを感じながら彼女の体の、ルームウエアの下に触れてみる。僕はおそるおそる彼女の肌に手を伸ばしてみた。彼女は声を出さないで固まったままドライヤーをまだ、服に当てている。
僕は彼女の顔を思い出してみようとする。電車内の景色そのままにーー彼女は僕に話しかけるーー彼女の情景をそこにいる、たまたま目的地へ向かうために電車に乗っていた僕に伝えようとして。僕はそれを思い浮かべてみる。彼女自身の存在感が自分の中に、影を落とすようにして輪郭を描き始める。僕はそしてそれを、いちばん手っ取り早い方法で確かめようとする。僕は彼女が抵抗しないことを確かめてからドライヤーを持つ手をとり、そのままそれを洗面台に置かせた。スイッチを僕が切り、あまり意思を持たないように見える手首を掴んで自分の顔の近くにそれを持ち上げて、匂いを嗅いでみる。
彼女がちょっとだけ笑う。
「こういうとき、キスすればよいのかな」
「いや、そうじゃなくて…」彼女はなおも、笑っていた。僕はそれを、唇に押し当ててみる。そうするとその動き自体を僕はすごくなつかしい感じがした。いつもこうやって何かの質感を確かめていた。たたみとか、鉛筆とか、誰もみてない時にゴムボールとかそういうものを手に取って。
そして、彼はそうやってわたしの近くで動き回る犬みたいな動きを繰り返していた。最初はふともも。それから髪の毛。わたしのほお。そして、まだ何も濡れてないのに立ったままでわたしの中に…入って来ようとする。いたい…けど、もう入ってしまった。彼はゆっくりそのまま動いて、ずっと、ずっと果てしなく思えるほどに動き続ける。わたしは立ったまま、洗面所のちょうどいいところに手を付けて彼が動きやすいような変な格好を取り続ける。そのうち、時間が忘れるくらい彼が動いたあと、わたしの中がぬれ出してきた。何回も、何回も、要領をえない行為だったものがいつのまにか、お互いの協力もあってかだんだんやめられなくなってくる。そのままいきそうになりながら、けどゆっくりで浅いのでなかなかいかない。でもこんなにじっくりされてると、気持ちが良すぎてへんになりそうだった。彼のやつはすごい硬い。しかも長くなってると思う。鉄の棒を打たれてるみたいだ…わたしは感じすぎてへんな声を出してしまう。ここがどこなのかよくわからなくなるくらい、しかもそんなところにいるので手が痛くなってきてるのに、一応の決着がつかないのでそのままし続ける…わたしは今付き合ってる彼のことを思い浮かべてみた。彼とは一応していたけど、しつこいくらいに体を舐め回して、飽きたくらいに入れて来ようとする。やっぱり一人一人することは違うんだなあ、と思う。わたしはこの人のことが好きなのかもしれない。分からないけど…でもそんなふうに、ただ彼の動きに合わせてるだけなんだけど何もかもよく分からなくなってそこには「彼、だれか」という確かな点が打たれていくように思えた。
「僕」自身、そのまま体の赴くままにいることにした。彼女のことをかわいい、と思った。好きだと言ってもいいくらいだと思う。日陰にずっといるみたいな佇まいもかわいいし、僕に向かって話す時にちゃんと言葉を選んでいることに(それがちゃんと僕という存在に届いてくること。このことは大事である)僕は好感を持っていた。彼女に近づいてドライヤーを置かせたあと首の産毛にくちびるを当ててみたとき、僕の一部分は僕の意思ではなく硬くなっていた。僕は彼女の太ももに手を合わせて出口を探すようにそこまま手を伸ばしていく。そして下着に手をかけて、それを手でずらしてからどうなってるのかやっと下を見てみた。彼女のルームウエアは中途半端にめくれ上がって、ちょっとだけ足を開いて尻を露出して立っていた。彼女は一度も「いや」と言わない。左手で掴んでいる手首を見ると僕のものよりもずっと細過ぎてまるで捕まえてるみたいだったから僕は自分のやっていることに興奮してきたのだと思う。僕は(上半身裸だった)彼女の下着を指でずらせたままズボンを脱いで、彼女の中に僕自身の硬いものを無理やりつっこんだ。…僕はゆっくりと動いてみる。彼女はそれほど濡れてないのだけど一応動くことはできる。手首を持っていた手を外して、僕は背後から彼女ごしに洗面所に襲いかかるような格好で動いていた。それを何度も、何度も繰り返してみる。目を覚まさないまま。照明は薄暗く、おかしな家具の配置とこんな看板がなければもしかすると僕らはどちらからともなく気づいていたのかもしれない。けど、なまぬるい空調とオレンジ色みたいな照明の中で彼女のことだけを考えようとしていると僕の一部分はどうしようもないくらい硬くなり続けるのだった。僕は、テニスコートの中で白く浮かび上がる誰かのことを思い出さないーーー彼女の質感に欲情しているから。僕は、何を願っていたんだっけ?ああ、それは、不確かな僕が誰かを探していると思い込んで居た、その時の残像でしかない。けどそれはもう解決されかかっている。僕はそう考えていた。僕らを繋いでる部分にはまだいちまいの布があり、彼女はちぐはぐな長い古臭い模様のルームウエアを羽織っていて、僕の方はほとんど裸だった。下着はもう彼女のもので半分くらい湿っていた。けど僕らはそれを外さないので、それが動くたびに皺を刻むようによじれていく…彼女はそれを気にしている…僕はそういう姿すべてをかわいいと思う。僕は彼女にすきだと言ってみようかと思った。僕らはぐしゃぐしゃのままでひとつの感覚だけを追いかけている…彼女はさっきから犬が叩かれてる時のような声を出していて、僕も普段は声を出さないのにもう息が切れてすぐにでも果ててしまいそうだった。…
毎日は特になにかを波立たせるような物事が起こらない。アルバイトやそれから予定を埋めるスケジュール帳。学校は工学部へ行った。何か組み立てていく手順と方法を考えていると何か心地よかった。そうやって手を動かしているのが自分の日常の大半だと思う。
そこには必然性がある。わたしたちには感情があって、そこから必然性を生み出している。でもそうでない物事がある。それは周りから断絶してしまった行い。ひとつの完成系である生。そのものはいやになるような倦怠と影、手作業、それがもっともっと、複雑化していくような営みの中に侵される。取り残された島みたいに、進化をし続ける。それを追いかけ続けているとき、わたしたちは一つの思念を追っているのだと思う。白く光る、それは人間ではないと思う。彼は時々その銀色の塊が眠る書斎へ行き、布を払うとそこにあるものの手入れをしたくなる。誰が何と言おうとそうしたくなる。自分が学校でしていることはそれとよく似ている。ガチャガチャと部品を組み合わせて一つの答えを作り出す、そこには必然性があり、それは誰かのからだの中から切り出された一部に気分で命名していくような作業とよく似ていた。あなたはそれを覗き込みそのグロテスクな生きものの内臓に自分自身見出す、変な性質を持っている。けどそれは不幸の始まりでもある。いや、いや、ちがった。それは私から見た感想でしかないーーーその間、彼はガラス瓶の中にいるみたいに見える。彫像みたいになってしまい、その薄いガラスの中にいる彼は誰かから見られていることにも気づかないまるで、ひとつの作品のようになる。彼は理解してもらうことを望まない。わたしのように声をあげて声質によって何かを読み取られるような愚かな真似はしない。わたしはそのあり方がうらやましくなり、手を伸ばして自分のものにしてみたくなる。それを時々取り出して眺めたりするのではなく、わたしは、そのものにならなければならないのだといつも思い込む。そのガラスのうすい壁の中にはホルマリンのような薄く濁った、透明な水でほとんど満たされている。すぐそばにいるのに、まったく意思疎通できない南の島の生き物が展示されていて、皆が手を触れないままに過ぎていくーー彼の行いの大半はそんな感じで、すごく孤独に見えている。羨ましいと思う。わたしはそれを手に入れたくなる。わたしはそれを時々見にくる。そしてここにもっと居たい、と思う。
彼とつながっているとわたしの中からはもっと生き生きとしたものが湧き上がってくるのだった。彼が、動き方を変えたのでわたしは一度すぐいってしまった。はじめは浅かったのに、あまり抜かないでわたしの中に押し付けてくるから、肌が擦れ合って音を立てる。すごく近く、耳の裏に男の人の熱っぽい息がかかってくる。世界中がものすごく狭く、暗く、電気を消したようになって、わたしは彼のことと、下半身が感じてることで頭がいっぱいになる。そのあとで、二回、三回くらいいってしまう…わたしの中はすごく変な動き方をしたのに彼は気がつかないで、まだわたしのことを追いかけている。
ああ、もしも、わたしがこんな風でなければ彼はどんな関わり方をしたのだろう。
不意にわたしはそう思った。彼はわたしがもう洗面所に肘まで付いてしまっているのと太ももが濡れてしまってひどいので二人ベッドの方へ移動することを提案する。わたしもそれに従う。
ベッドの上であらためてわたしは彼の顔を見ると、わたしは彼の孤独よりも自分の愛情にずっと圧倒されてしまう。彼は彼なりのやり方でわたしのことを愛する。
僕は、通り抜ける。「ひと」という仕組みはほかのものとは変えがたい明るみを持って僕に何かを投げかけてくる。僕は普段それに手を伸ばさない。なぜなら大半が弾かれてしまうからである。僕は、むしろ憎む。僕たちの違いを…あなたの浅はかさを…それから享受のあり方を…嗜好のいやらしさを…ひとつひとつの素ぶり、やり方、人との関わり方が僕とは少しも似ていない。似ていなければならないのに、むしろ違いばかりが目に付く。これはどうしたって孤独そのものに違いない。どうして皆そのことに気がつかないのだろう。僕は、本当は全員と重なりたいのに、僕自身が激しく、それを決して許さない。僕は、僕でないあなたを、それから僕を許さない、羨んでばかりのあなたをあるいは、激しく呪うばかりである。僕はもうひとつのバスの路線を探してどこかへ、それは青年期特有の涙ぐましいばかりの感情をもってたどり着こうとする。けど、出来ない。それは、死ぬまで、確実に、完ぺきにたどり着かないと感じている。僕は一瞬絶望して、そのあとですぐにそのことを忘れてしまう。消費する。代価のステージを僕らは得る。そうして、もう自分特有の生臭い性の欲求をなかったことにする。僕は本当はこの地球上に存在していないことになる。
僕にだけ、生け贄がいない。
生まれたときからずっとそう感じていた。
僕はまだ、かろうじて彼女に対する執着と自分の存在を測りにかけようとする。僕が僕でなくなることを選ぶための材料は果たして、この世に残るための価値と釣り合うだろうか。けど、死に至る人はそんなことを選べないはずなのに、何故僕はそれに決定権があるとさえ思っているのだろうか。
彼女にもう一度触れたい。僕はもう、考えるのを放棄するべきかもしれない。
さまざまな視点が電波のように絡み合う場所を僕は見下ろしている。そしてその中の都合の良さそうなものを自分の中にしまいこみ、また組み立て直す。たった一人でーー僕は、泣いていた。僕が探していたのは彼女じゃない。僕が探していたのは、僕自身の孤独。
僕は彼女の中に出し切ってしまい、そのままの体勢でずっと彼女のことを見下ろしていた。彼女は浅く息を吐きながら余韻に浸っているみたいだった。
僕は、自分は本当に女性が好きなんだろうかと思う。けれど彼女が目を閉じたままで僕のからだを引き寄せたので、僕の疑問はすべてうやむやになる。
いつも、僕はこうだ。考えが続かないーーー僕は、目の前にある気楽なものにまた、飛び乗ってしまった。これでは父親を探すことなんてもう出来ないのかもしれない。
いや、もしかするとそれは、彼女にはじめからかかっているのだ。僕も、あなたも、誰もがそれを本当ははじめから選べない。僕は彼女にもう一度触れてみて、それから自分の中に残る燃えかすみたいなものの意味をもう一度考えてみる。彼女が快楽の波を泳ぎ終えて向こうの岸にたどり着いたとき、きっと彼女は目を覚ます。自分ではない誰かと重なりあい、その決定的な違いを無理に埋め合い、感情を、自己を振り払うほどの幻とともに絡めあい、完ぺきな接点も持とうとする前の僕、それからそのあとの僕をその、まん丸い目で覗きこんだあとで、一度死んでしまったはずの彼女は一体、何て言うのだろうか。彼女は僕の腕の下でまだ目を閉じている。僕の背中に回した手の指に力を感じながら、彼女が何かを追いかけていることを僕は感じている…。彼女が目を覚ますまでのその期間。それはこれまでの僕の存在と同じ重みを持つのだと感じながら、僕は彼女の顔、それからなめらかな体を見ていた。
朝、僕は川を渡る 朝川渉 @watar_1210
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