「存在する」という述語の主語になるための条件① 触れ

 述語には、その意味に応じて、組み合わせることのできる主語が決まっていると考えることができる。


 例えば、「泳ぐ」は、泳ぐことのできる存在者を指し示すような主語にしか組み合わせることができない(主に言語の日常的使用に限り、詩的使用は除く)。「檜が泳ぐ」という発言は、変な発言である。価値や雰囲気を示す形容詞となると、個人差が出てくるので、一概に変な使い方だと断定するのは(道徳的に)良くないけれど、それでも、一般に「ゴキブリは美しい」という発言は、変だと言っていいだろう(別に変じゃないと言ってもらっても構わないが、何についても変な発言になりうる可能性はある)。

 そして、こういう、それが主語として真っ当なのか、それとも変なのかを二つに(グレーもあるだろうけど白黒のグラデーションへと)分割する、基準、区切りが働いていると考えられる。


(この線は、思うに、名詞文の場合は緩やかに閉じた集合を形成し、形容詞文の場合は直線があらゆる主語たりうる物事を二つ(あるいはグラデーション、つまり度合い)に分かつというふうになっている。名詞文は、カテゴライズをするように働き、形容詞文(の一部)は、それがある基準に照らして、私の感覚的にどうかを位置付けるように働く。ただ、動詞となるとちょっとよくわからない。これは名詞文(ラベリング判断)や、形容詞文の一部(価値判断)は、明らかに主体が下す判断であるが、動詞文が下す判断は、ほとんど感覚されることだと思えるから。閑話休題)


 では、「X(或る主語)がある」という表現が、変ではない、と認められるような、Xの条件は何だろうか。もし、それを、言語化できれば、「存在するとはどういうことか?」に応ずる説明(意味・定義)になるはずである。


 まず、考え当たる、第一の(そして聞く人によれば唯一の)条件は、「触れられる(何かである)こと」だろう。


 私たちは、「触れた」という事態が経験されたらもう、それが「ある」ことについて疑ったりはしない(もちろん、それは何か? という疑問は残る。それは「目/みる」の得意分野であろう)。


 もちろん、哲学っぽい話をしているから、「嘘」を疑うような思考実験が念頭にある人もいると思う。邯鄲の夢、胡蝶の夢、デカルトの方法的懐疑などが有名だ。ヴァーチャル・リアリティの技術がゲームでの実体験や、SF、ライトノベルなどのジャンルの小説を通じて、日常へ浸透しつつある今日では、「水槽の脳」も伝わるかもしれない。

 ただ、これらの思考実験は、今回私が話していることの反例にはならない。なぜかというと、これらの想定は、もはや私たちが「存在する」という言葉を自信を持って使用できないような場合の想定であるだけで、「存在する」という言葉の意味の説明には積極的に寄与しないからである(ただし、全く寄与しないわけではない。実際、消極的には寄与してくれるだろう)。これらの興味深い想定が、いかなる議論においても「取り扱う必要のない与太話だ」と言うわけではない。ただ、今回の話では、概ね論外であるに過ぎない。「リアルな夢」や「作品世界のリアリティ」は、我々も経験することであるし、一つの問題である。

 ただ、今議論しているのは、もし私たちが、自信を持って「何か(主語)が存在する」と言えるのは「何時」なのか?、とそういうことなのである。


 そういうわけで「触れ(ることができ)る」こと、即ち、「触感(が感じられていること、またその可能性)」は「存在する」と言うことができるための条件の一つである、と言おう(重箱の隅を突く疑問は出るにしても、フワッと賛同することはできるのではないかと思う。もちろん、質問は歓迎します)。


 ところで、「触れる」とは、どういうことなのだろうか。これを考えておくのは、「触れる」が存在の唯一の意味でない場合のためである。もし、触れられない何かについても「存在する」と言うことができるとすれば(おそらくできると私は思うが)、それらの「存在する」の「触れる」と共通の意味を探るためにも、今「触れる」について、もう少し、掘り下げておく必要がある。あと、単純に気になる。


 さて、以降の話は、具体的には面倒なので引用しないけれど(怠慢ですみません)デカルトの書いた話と、そのデカルトの話についてハイデガーがしている話を参考にしている(たぶん)。

 私たちの身体は、動くことがあるし、他のものもそうなので、「触れる」というのは、それらの運動するもの同士が、互いに向かい合う方向に運動していることで起こる、衝突のことである、と言える。理科の授業で、物体の運動全般を力(その象徴である矢印)で表現してみたことのある人にはイメージしやすいだろうけれど、「触れる」ことも、双方向の力の働きによって起きたり継続(押すとか持つとか)したりしている。

 「触れる」というのは、「私の運動(停止を含む)に対する、他のものの抵抗的な、運動」によって起こることなのである。


 これは、デカルトが話しているだけあって、「物体」概念の基本でもある。即ち、物体の意味である「拡がり(座標空間の占有)」は、他のものに対する抵抗運動となる。それは私にとっても、他のものにとっての私にも、言えることである。


 日本の言葉のなかで言うと、「触」には「障り」という読み下しもある。また、「触れ」は「震れ/振れ」と同根という見解(論文)もある。振-動・震-動は、ものにとって、その存在を主張するような(目立つような)在り方であり、生命特に動物、さらには呼吸などに認められるような運動でもある(もちろん雑な帰納的推測に過ぎないが、同時に素晴らしい直感、洞察でもあると思う)。


 さて、「触れる」が、「〜が、存在する」と自信をもって言うことができる、その条件の一つで或ることについて述べた。ただ、「触れる」は、「何ともあれ、何かがある」という感じ(意味)なのに対して、「然然のものが、存在する」と具体的(あるいは明確に)述べやすいのは、「みる」の力が大きいと思う。次回は、「〜が、存在する」の第二の条件として、「みる」について考えてみたい。

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存在論 についてのエッセイ 琴波 新 (水) @elixir

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