霧雨の街/水曜日 夜


 ──惨たらしい悪夢を見ている。


 目の前で黒羽が血溜まりに転がっていた。

仰向けになって、色を無くした瞳が虚空を見上げている。

 幹色の髪が血に染まり、力無く倒れる彼女に馬乗りになって、

達也は血塗れの手を眺めていた。


 彼女を殺したという自覚があった。

 殺してやったという快感もあった。

 自らを否定する者を屈服させて無理やり頷かせたような、歪んだ満足で潤っている。

 そんな自分の姿を見せつけて来る者を、

 達也は心底侮蔑した。


 何処かで嘲っている奴がいる、

 達也に黒羽を殺させたい奴がいる。


 何度も何度も、自らの手で黒羽を殺す様を見た。

 お前はこうなるのだと、耳元で囁く存在の正体など、達也はとっくに知っている。


 ──お前の目的は、母親の仇討ちだったのでは無いのか。

 母親を殺した人間を憎み、恨み、殺して回っているのでは無かったか。


 黒羽が死ぬ、何度も死ぬ。

 衝動的に、凄惨に残酷に殺して殺す度、

 貪欲に愛憎に満ちて満ちて満ち足りて、笑っている奴がいる。


 目的すら忘れて殺しに走り、終いには最愛の母にまで手を掛けようとする存在に、

 達也は何処か冷静に言う。


「黒羽さんはこんな風には死なないよ。

 必ずお前は彼女に祓われる。

 押し付けがましい愛憎で穢せるほど、弱いひとじゃない」


 低く響いた達也の声に、憑き物は唸った。

 どれだけ甚振っても壊れない彼の心に、

 苛立ちを隠そうともしないで。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 体が地面に叩き付けられた衝撃で目が覚めた。

 過呼吸気味の息を整える、長い悪夢から随分と、久しぶりに目を開けた気がした。


 手をついたのはアスファルト、

 いつの間にか夜の街へと投げ出されていた体を引き起こす、

 雨は強さを増して達也の体を濡らしていた。


 寒くて仕方がない、足が痺れていて立ち上がれず、右腕と左腕の区別が咄嗟につかない。

 起き上がろうとしたけれど失敗して、

 結局浮かせた体は地面に落ちる。


 体を打ち付ける直前、暖かな体温に抱き止められ、

 達也は安堵のあまり泣きそうになった。


 緩慢な動作で顔を上げれば、

 雨に濡れた黒羽が達也を支えてくれている。

 夢で何度も見た姿とは違い、

 柔らかな肌には血が通って、瞳は生気に満ち溢れていた。


「おまたせしました」


 珍しく満面の笑顔でそう言う黒羽。

 言葉の意味は分からなかったけれど、

 辺りには何人もの人々が倒れ伏していた。


 全員、祓われた結果だろうと、そう思う。

 数え切れない程の数、倒れた人。

 その数だけ憑き物を祓って力を溜め込んだ今の黒羽は、一体どれだけの強さなのか。


「ラストスパートですよ、本当に。

 生きててくれてありがとうございます」


 黒羽は今までの中で、一番楽しそうに笑っていた。

 自信に満ち溢れた彼女の姿に、達也も何だか元気が出て来て──。


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、

 体が揺れた。

 反射的に、黒羽を突き飛ばすようにして身を離す。

 達也は水溜り越し、何度も悪夢で此方を揺すってきた憑き物と対峙した。


 危なかった、今彼女から離れなかったら、

 本当に殺していたかもしれない。

 微かに過ぎった考えを、頭を横に振って捨てる。

 黒羽に触れた事で少し回復した体を片手で支えて、達也は憑き物を睨んだ。


 潰れていた筈の顎が開いている。

 達也の肩に乗っていた腕が、今は心臓の辺りまで伸びていた。

 実際に鷲掴みにされていたらしい。


 達也は強い意志を込めて憑き物を見る。

 黒羽が立ち上がって腕を振ろうとする気配を感じながら、達也は言った。


「お前、一発殴らせろ」




 達也の発言に、黒羽は身を固めていた。


 憑き物に操られた達也と共に、マンションの窓から飛び出して。

 誘引された憑き物を片っ端から祓い倒してここまで来た。


 自分史上最大に大きな力で渦巻いた体、

 今なら必ず祓い切れるという自信。

 土砂降りになった雨は黒羽を後押しして、

 高揚感すら覚え始めている。


 そんな中で響き渡った達也の言葉に、

 黒羽は一瞬冷静になった。


 ずっと、投げっぱなしにしていた疑問がひとつあるな、と。

 達也に憑いた顔持ちの顎が何故、

 最初から潰れていたのか。


 黒羽は達也が腕を、

 大きく振りかぶるのを見た。

 握られた拳は、何かを殴る為に他ならず、

 拳の行く先は地面、水溜りに映る憑き物へと向かっている。


 本来ならその拳は、ただ地面を殴り付けるだけで終わる、意味の無い行為だろう。

 だけれど黒羽は何か、得体の知れない力が達也の拳に宿るのを見た。


 同時、神である自分がなどと思う事が、どれ程異常かと気付く。

 その間にも拳は進み、水面を叩き。


 憑き物を、殴り飛ばす音がした。

 水面が激しく波打ち、滲んだ黒に混ざりながら浮く血の色。


 詰めていた息を吐いて、達也は満足げな顔で頷いた。

 視線の先には、拳がめり込み顎が吹き飛んだ憑き物がいる。

 驚愕のあまり目を見開いているさまに、

 既視感を感じて達也は瞬きをした。


 そして、あ、と呟く。

 既視感は今まですっかり失念していた事を思い出させた。


 ──自分はいつから「憑かれていた」のか。


 達也は黒羽に出会った時には既に憑かれていた、それより前。

 バイト終わりの帰り道、雨の降る中歩いていた時の事。

 突然虚脱感に襲われて膝をついた、

 自然と目が下を向き、視界に入るのは水溜り。

 初めて見る憑き物に達也は腰を抜かしかけた。

 そして反射的に、ぶん殴ったのだ。

 今と全く同じように。


 そこからは意識が混濁したまま家に帰って眠ったので、殴った事自体忘れていた。

 次の日途方に暮れて駅前を歩いていたら、黒羽と出会った、という流れであり。


 ちょっと感動して己が拳を見つめていると、黒羽がずんずん歩いて来る。

 何だろうと思って顔を向けた先、凄く何とも言えない顔で見られていて。


「そんな事出来るなら最初からしてください」


 達也はごもっともすぎる言葉に、頷くしかなかった。




「さっきは呆気にとられてアレでしたけど。

 貴方はあれですね、浄化体質って奴です」


 雨を凌ぐ為に、空きテナントの屋根の下に逃げ込んだ達也と黒羽。

 黒羽がチラッと水溜りに目を落とすと、

 顎を砕かれた憑き物が伸びていた。

 祓われた訳ではないが、大幅に弱体化している事が伺える。

 それによって体の調子が良くなったのか、

 達也は黒羽の前に普通に立っていた。


「貴方、何の為に死にかけたんでしょうね」

「いや本当に記憶に無かったというか。

 ちょっと嫌な夢を見せられたもんだから、殴らなきゃ気が済まなくて、その……浄化?体質的なのにも全く心当たりはないし」


 達也は何故か慌てたように言葉を並べる。

 別に怒られてもいないのに言い訳じみたことを言い出す達也を、変な人だなと眺めながら黒羽は首を傾げた。


「嫌な夢?」

「……ああ、うん。ちょっと君に言いたくはないかな」


 困った様に笑って言われてしまっては、

 追求も出来ず黒羽は黙る。

 達也の方も何と言われようと話すつもりは無い、夢の中でだとはいえ黒羽を殺していたなんて、言える訳が無かった。

 達也の横顔を暫く見つめていた黒羽だったが、諦めて話を変える事にする。


「浄化体質については、私も専門外ですが。

 その名の通り霊や怨念に対しての特攻体質です」

「つまり、僕も黒羽さんと同じように、

 憑き物を祓えたりするの?」


 黒羽の雑に掻い摘んだ説明に、達也は問い掛けた。

 言葉通り受け取るなら、霊、というジャンルに、自然霊である憑き物も含まれて良さそうなものである。


「いいえ。祓うのと浄化は違いますから。

 それに憑き物、自然霊は普通の霊よりもかなり上位にいる存在で、基本的には祓うことしか対処法がありません。

 貴方は幽霊を成仏させたりは出来るかも知れませんが、憑き物には弱体化させるまでで留まるでしょう」


 こんな風に、と黒羽は水溜りを指さす。

 その場に実例がいると説得力が増した。

 黒羽は濡れた髪を鬱陶しそうにしながら言う。


「もっと早くにやってくれたら、私も楽だったかも」

「それは……うん、ごめんね」


 黒羽に謝りながら、達也は気付かれない程度に落ち込んだ。

 今まで黒羽の役に立てたかも知れない機会を逃し続けていたのだと思うと、何とも悲しくなる。


「まあ、いいです。

 私も何故だか追及しないでいた事だし。

 貴方の浄化パンチによる弱体化と、私の全力祓いが合わされば確実にノックダウン、一件落着を迎えられるでしょう」

「な、何かやけくそになって無い?」


 スカートの裾で手を拭いながら言う黒羽の表情を伺うように覗き込むと、

 見えたのは不機嫌そうな顔。

 唇を尖らせて、彼女はだってと呟いた。


「せっかくカッコよくキメようと思ったのに全部持っていかれちゃった」


 雨音に消されそうなくらい、小さな呟きを聞いて驚いた後、達也は頰を緩めて笑う。


 拗ねる姿は「年相応」で、神様だなんて思えない。

 黒羽の中に残った少女としての一端を見せて貰えたようで、嬉しかったから。


 黒羽の方も、自分の放った言葉が意外だった。

 とっくの昔に無くなったと思っていた人間らしさ。

 思い出させてくれたのはこの人なんだろうと、達也を見上げる。

 こうして見つめ合うのも、これで終わりだろうなと思うと、

 込み上げてくるものが、無い訳ではないが。


 深まった夜を越える、雨は降り続けているけれど、

 夜明けはすぐそこだった。





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